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ブリテン島/大ブリテン島/グレートブリテン島

ヨーロッパ大陸の西にある島。ケルト系民族が居住していたところに、前1世紀にローマのカエサルが遠征。紀元後43年にローマ帝国の属州とされ、5世紀からアングロ=サクソン人が移住し国家形成。イングランド、スコットランド、ウェールズの三地域にかつてはそれぞれ独立していたが、現在はイギリス連合王国の国土となっている。

ブリテン島

ブリテン島とアイルランド島 Yahoo Map に加筆

 ヨーロッパ大陸からドーバー海峡を夾んで横たわる大きな島で、西隣のアイルランドの北部と共にイギリスの本体を構成する。氷河期には大陸と地続きで、約6000年前に大陸から分離して島になった。この本島と周辺の島嶼を含めて大ブリテン島という。南西部の中心地域であるイングランドと、北部のスコットランド、西部のウェールズの三地域に分けられる。
 また西隣のアイルランド島は一時期はイギリス(厳密にはイングランド王国)の植民地とされて、その支配を受け、現在もその北部は北アイルランドとしてイギリス領となっているが、ブリテン島とは異なる文化、歴史を持つ独立した島であることに注意しよう。

ケルト人とケルト文化

 ケルト人は、現代のヨーロッパ諸国を生み出したゲルマン人やラテン人(ローマ人)の以前から、ヨーロッパ大陸の広い範囲で活動し、鉄器文化の段階に達して部族社会をけいせいしていた。彼らの一部は、何波かにわかれてブリテン島に移住し、ケルト文化を伝えた。特に現在の北フランスからベルギーにかけて居住していたベルガエ人は高度な文化と高い戦闘能力を持ちブリテン東南東部に集団で移住した。そこに前1世紀中頃、カエサルの侵攻からローマ人の進出が始まり、紀元後43年にはローマ帝国の属州ブリタニアとして支配されたことによって、ブリテン島の「ローマ化」が進み、ブリテン島のケルト系民族は次第に島の北部のスコットランドや東部のウェールズにおいやられていった。ヨーロッパのケルト系民族はほとんどが支配者であったローマやゲルマンに同化し、消滅してしまったが、ブリテン島の辺境には「島のケルト人」が独自の言語と習慣などの文化を維持している。

ブリテン島のケルト文化への疑問

 以上は日本ではほぼ定説となっているケルト人についての説明であるが、最近は特にイギリス人の歴史学者や考古学者から、このような「ヨーロッパに広がったケルト人、ケルト文化」といわれることは歴史的事実ではない、またブリテン島へのケルト人の集団的移住も考古学上は確認できないという見解が出されている。もともと「ケルト人」と自称する人々がいたわけではなく、その概念は近代に入ってから造られたものであり、「ヨーロッパの統合」が進む過程で人為的に創作された概念に過ぎない、というのだ。最近の考古学の研究では、ブリテン島における鉄器文化はケルト人がもたらしたのではなく、島内で独自の発展をしている、という。また大陸と同様のケルト文化なるものの痕跡はないという。しかし面白いことにこのようなケルト文化を否定する学説はイギリス人学者には有力になっているが、フランスなどの学者からは認められていない。歴史研究の分野においてもケルト文化をブリテン島を含むヨーロッパ全体の基盤と評価する意見と、ケルト文化などと言う普遍的な文化は存在しなかったのだという意見は、まさに「ヨーロッパの統合」をめぐる意見の対立とパラレルに展開されているわけだ。<南川高志『海のかなたのローマ帝国――古代ローマとブリテン島』2003 岩波書店 p.13~>

ローマによる属州支配

カエサルの遠征 ブリテン島はローマのカエサルの侵入以前にこの島に居住していたケルト人の一派ブリトゥン人に由来する。カエサルは、前58年~51年のガリア遠征の途中、前55年,54年の2度、ブリテン島に侵入し征服を試みた。しかし、ブリトゥン人の抵抗を受け、また海峡をはさんで兵員と食糧を輸送することに困難があったことから、その支配は永続しなかった。(カエサルの遠征ですぐに属州になったのではないことに注意しよう。)
43年、ローマの属州に  カエサル後、ローマの侵攻は約1世紀間なかったが、ガリアがローマ化したことの影響がブリテン島にも及び、次第にローマの領土的野心の対象となっていった。ローマ帝国はクラウディウス帝の時、紀元後43年、組織的なブリテン島征服に乗り出し、属州としてブリタニアを支配することとなった。122年には五賢帝の一人ハドリアヌス帝の時、北辺のケルト系のピクト人地域との境界線にハドリアヌスの長城を建設され、ソルヴェイ湾とタイン川河口を結び城壁が、ローマ帝国の北辺となった。ローマ支配下の属州ブリタニアにはいくつかの拠点が築かれたが、その一つロンティニウムが、後のロンドンとして発展する。
 ローマの属州支配によってブリテン島が「文明化」した、という従来の一般的な説明に対しては、前述の南川氏の著作で否定的な見解が出されている。 → ブリタニアの項を参照。

ゲルマン人の侵攻

 ゲルマン人の大移動の波を受け、ローマ帝国はイタリア本土の防衛に専念せざるを得なくなり、409年に属州ブリタニアからも撤退した。その間、5から6世紀頃までに、大陸のユトランド半島付近からゲルマン人の一派のアングロ=サクソン人が移住してきた。圧迫されたブリトゥン人は島の辺境に追いやられ、さらに海峡を越えて現フランスに至り、その地がブリトゥン人の地(フランス語でブルターニュ)といわれるようになると、その地と区別して、この島の方を大ブリテン(グレート=ブリテン)と言うようになった。その中のアングロ=サクソン人が支配し、七王国を建てた範囲は、「アングル人の土地」の意味でイングランドと称されるようになった。

イングランド王国

 この間、597年にはローマ教皇グレゴリウス1世が派遣した修道士によってキリスト教カトリック教会の布教活動が始まり、601年にカンタベリー大司教座が置かれた。7~8世紀にノーザンブリア王国ではキリスト教文化が開花しアルクィンなどはフランク王国のカール大帝に招かれてその宮廷で活躍した。
 829年、ウェセックス王エグバートがイングランドをほぼ統一してイングランド王国が成立した。その後、830年代からノルマン人の一派、デーン人の侵攻をうけたが、886年アルフレッドがロンドンを奪回し、イングランド王国を復興した。

ノルマン人の侵攻

 ノルマン人は10世紀から再び活動を活発にして、ヴァイキングと言われてブリテン島の海岸に現れるようになり、1016年にはデーン人クヌートがイングランドを征服して即位し、デーン朝となった。
 さらに、1066年にはフランスのノルマンディ公国から侵攻したノルマンディー公ウィリアムに征服された(ノルマン=コンクェスト)。このように、ブリテン島には、ケルト人・ラテン人(ローマ時代)・アングロ=サクソン人・ノルマン人などの人種と文化が重層的に混じり合っている。

ブリテン島の統合

 大ブリテンは、南西部のイングランド(アングロ人の土地、の意味)・北部のスコットランド・西部のウェールズからなり、それぞれにイングランド王国、スコットランド王国、ウェールズ侯国が治める独立国であり、また言語・宗教・文化でもそれぞれ独自性を有していたが、最も生産力の豊かなイングランドが次第に有力となり、武力侵攻と同時に婚姻政策などを絡めながら統合を進めていった。
ウェールズ 1282年にイングランド王国エドワード1世ウェールズに侵入、実質的に併合し、イギリス王室の皇太子がプリンス・オブ・ウェールズと言われるようになり、最終的には1536年にはヘンリ8世によってイングランド王国に併合された。
スコットランド 同じくエドワード1世が勢力を伸ばしてきたことに対し、スコットランドは激しく抵抗し、しばしば勝利している。14世紀からはスチュワート家がスコットランド王位を継承していたが、1603年にジェームズ6世が、イングランド王位を継承してジェームズ1世となったので両国は同君連合となった。このとき、それまで別個だった国旗を統合してユニオン=ジャックが初めて作られた。
 ピューリタン革命はスコットランド情勢が革命に大きな影響を及ぼしていたが、名誉革命後の1707年にイングランドがスコットランドを事実上併合して大(グレート=)ブリテン王国となった。ここまででブリテン島の合同は形式的に整ったと言える。

「イギリス」と「ブリテン」

 本来「ブリテンの」を意味する「British」は、日本ではEnglish と同じく、「イギリスの」を意味しており、British Empire は「イギリス帝国」、Brithish Musiam は「大英博物館」となる。「イギリス」は本来、「イングランドの」を意味する English が、オランダ人を通して江戸時代の日本でイギリス全体を示す言葉として定着したもの。もっともこの国の言葉は、English =英語、という。そして、本国で使われている生粋の「イギリス英語」のことは British English (または、現在なら、Queen's English)という。ややこしい話です。 → イギリス  大ブリテン王国  大ブリテンおよびアイルランド連合王国
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