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ゲルマン人の大移動

4~6世紀のゲルマン人がヨーロッパ全域に拡大した動き。西ローマ帝国を滅亡させ、中世社会を成立させ、ゲルマン人系のフランク王国が西ヨーロッパを制覇し、そこから現在のドイツ、フランス、イタリアが生まれた。イギリスもゲルマン系の民族が国家の根幹を形成した。但しゲルマン人はゲルマン以前のケルト系、ローマ時代以来のラテン系の人々と混合しながらヨーロッパ文明を形成した。

 4世紀から6世紀に及ぶ約200年に及ぶゲルマン人の大移動は、一般に376年西ゴート人のドナウ川越境から、568年の北イタリアでのランゴバルド王国の建国までとされ、これを第1次ゲルマン人大移動という。次いで8世紀に始まり、11世紀まで続いたゲルマン人の一派ノルマン人の移動を第2次ゲルマン人大移動という。 → 民族移動

背景

 西進してきたアジア系騎馬遊牧民のフン人に圧迫されたのを契機に始まったとされるが、その本当の理由はまだ判らないことが多い。もともとゲルマン人の農耕は肥料を使わず、また後の三圃制などの耕地を休ませて交替に使うことも知らなかったので、生産力が低く、毎年耕地を変えなければならない移動性の強いものであった。そのため、耕地を獲得するには常に新しい土地を開拓する必要があった。徐々に増えてくる人口を維持するには、耕地の不足が問題となっていた。このような耕地不足の状況を解消する必要性が背景にあったものと思われる。

ゲルマン人の移動と建国

 主なゲルマン民族が建国した国を挙げると、西ゴート人はイベリア半島、東ゴート人はイタリア、ブルグンド人は南西フランス、フランク人は北西フランス、アングロ=サクソン人はブリテン島に入ってそれぞれ建国した。最も長距離を移動したヴァンダル人はイベリア半島から北アフリカに入り、かつてのカルタゴの故地に建国した。しかしこれらの多くのゲルマン系国家は、東ローマ帝国やイスラーム勢力、そして唯一生き残ったフランク王国に征服されていく。これらのゲルマン人の移動と建国によって、西ローマ帝国は滅亡し、フランク王国が成立するという古代から中世への大きな変化の導因となった。

ユーラシア東部の民族移動

 なお、4世紀にゲルマン人の大移動が始まり、ヨーロッパ世界が成立していった頃、遠く東アジアでも五胡と言われる中国周辺の遊牧民の活動が活発となり、盛んに中国内部に侵入して華北に五胡十六国を形成する。東西のこのような動きには何らかの共通する要因があったかも知れない。

参考 「民族移動」という表現は正しいのか

 私たちは「ゲルマン民族の大移動」という表現を、何の疑いもなく使っている。しかし、フランスではそうではなく「大侵入」といっているのだ。ドイツでは「大移動」という。つまり、ゲルマン人の視点から見れば「移動」であるが、当時のフランスのガリア人からすれば、それは「侵入」であったわけだ。日本での世界史教育は常にドイツよりだったから、「ゲルマン民族の大移動」という言い方が定着したのだろうが、ちょっと安易に使いすぎているのではないだろうか。その辺の事情は、ジャック=ル=ゴフが次のように説明している。
(引用)北方ヨーロッパと中央ヨーロッパからの民族の移住を、フランス人は「大侵入」とよび、ドイツ人は「民族大移動」とよびました。ヨーロッパ人が自分たちの歴史についていつも意見を同じにするとはかぎらないのがわかります。事実、移住民族の大部分は同じ民族集団であるゲルマン人、すなわちドイツ人の祖先に属し、(侵入された側の)ガリア人はフランス人の先祖に属していたからです。人びとはふつう新来者を「蛮族(バルバル)」としてあつかいました。彼らの文明を劣っていると見なしたからです。ゲルマン人は文字を用いず、口承による文化を持っていました。おまけにゲルマン人のローマ帝国内への移住は平和的なものではありませんでした。流血の戦闘による軍事的征服だったのです。異民族はすすんだ製鉄技術をもち、立派に武装していましたから、たいていは勝利しました。特にゲルマン人の剣は両刃で長く丈夫で、威力抜群でした。<ジャック=ル=ゴフ/川崎万里訳『子どもたちに語るヨーロッパ史』2009 ちくま学芸文庫 p.52>

参考 民族移動の実際の姿

 「ゲルマン民族の大移動」といったとき、印象としてそれが暴力的な戦闘を伴って行われ、ローマ帝国もつねにそれに悩まされ防禦に努めた、というイメージを持ちがちである。たしかに武装集団を先頭としてローマ帝国軍と戦いながら民族移動が進められた側面もあるが、1世紀以上にわたって展開された歴史的事実としてのゲルマン民族の移動については、早くから次のような指摘がある。
(引用)こうして4世紀後半から本格的な集団移動がはじまるが、その集団というのは、部族と言われるもので、部族の王や貴族的な指導者に率いられて、一集団の規模がせいぜい5万とか8万とかいう程度のゲルマン人がローマの版図内に入ってくるわけである。そうして、ある一定の土地に定住する契約をローマ皇帝ととり結んで、そこに国を建てる。部族国家と呼ばれるものがそれである。しかしローマ人の側からするならば、そこにはローマ帝国という昔からの帝国の枠が残っており、すくなくとも476年までは厳然として皇帝がいる。ゲルマンのたくさんの部族、例えば東ゴート、西ゴート、ブルグンド、ヴァンダル、フランク、ランゴバルト、アラマンなどがローマ帝国のなかに部族王国をたてるが、これらを部族国家というのは、ゲルマン人の側からだけの話であって、ローマ人の立場からいえば、皇帝の許可を得て皇帝の役人ないし軍司令官として、一定の地域に住んでいる集団を治めているというものだけのことで、それによってローマ帝国が滅んだのではない。帝国存続の法理は、依然として守られていたのである。<増田四郎『ヨーロッパとはなにか』1967 岩波新書 p.92-93>
 また入ってきたゲルマン人には大地主の土地の三分の一又は二分の一があたえられた。それは不法にあたえられたのではなく、ローマの軍隊に対する現物支給の伝統と同じことだった。「こういう次第であるから、ゲルマン民族の移動ということは、けっして文化の破壊ではない。いわば法理にしたがって入ってきている。……一般的にいえば、基準にしたがって、しかもローマの慣行に乗っかって、ローマ帝国の枠内に国を建てたというのが、ゲルマン民族の移動の実態なのである。」その点がイスラームの侵入とは異なる。またアフリカにおけるヴァンダル族の略奪行為は例外である。
 破壊者としてのゲルマン人という汚名は、16世紀以来の中世観、特に19世紀の学会の国民感情が作り上げた概説の誤謬であって、歴史的事実では無い。<増田四郎『同上書』 p.93-96>