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ジェームズ1世

17世紀初め、イギリスのステュアート朝初代国王。スコットランド王を兼ね同君王国を形成した。王権神授説を掲げて絶対王政を展開し、議会と対立した。

 イギリスステュアート朝初代のイギリス王(在位1603~25年)。スコットランド王としてジェームズ6世と称していたが、テューダー朝エリザベス1世(女王)が1603年に後継者なく死去した際、後継のイギリス王(厳密にはイングランド王とスコットランド王を兼ねる)として迎えられた。その母のスコットランド女王メアリ=ステュアートの祖母がチューダー朝のヘンリ7世の娘であったため、エリザベス女王が次期国王に指名していたのだった。これによってイングランドにステュアート朝が成立し、イングランド王位は16世紀以来アイルランド王位を兼ねていたから、ジェームズ=ステュアートのもとで、歴史上初めてイングランドとスコットランドとアイルランドは、同君連合の形で統合されることとなった。

同君王国と宗教対立

 ジェームズ1世治世当時の人口は、イングランドは411万、スコットランド80万、ウェールズ29万、アイルランド140万、合計は一挙に660万となり、キリスト教世界でも有数の国家となった。ジェームズ1世は「同君連合」を将来的には「完全なる合邦」としてイングランド、スコットランド、アイルランドの三王国を「ひとりの国王、ひとつの信仰、ひとつの法、ひとつの議会、ひとつの国名、ひとつの旗」の下にまとめていきたいと計画していた。しかし、その実現の前に立ちはだかったのは宗教対立だった。イングランド教会は国教会であるのに対し、スコットランド教会はカルヴァン派プロテスタントの長老派教会であり、アイルランドはカトリック教会が優勢だった。自身は長老派信仰をもっていたジェームズ2世は、1604年のハンプトン・コート会議でイングランド国教会の維持と、二王国間の宗教の棲み分けに合意したが、カトリック信仰は認めなかった。不満なカトリック教徒は1605年11月5日に国王を暗殺する計画を立てたが未然に防がれると言う火薬陰謀事件も生じた。<君塚直隆『物語イギリスの歴史(下)』2015 中公新書 p.6-7>

火薬陰謀事件

 ジェームズ1世がカトリック信仰を認めなかったことに失望したカトリック信者の中で、一部の急進的なジェントルマンは国王と国教会派の貴族を一挙に亡き者にしようという計画し、貴族院(上院)開会式の日に議会を爆破しようとした。陰謀の中心にいたのはケイツビーというジェントルマンだったが、実行犯に選ばれたのがガイ=フォークス Guy Fawkes で、彼は貴族院の地下室に大量の火薬を運び込み、爆破しようとした。しかし仲間のひとりが恐ろしさから秘密を時の権力者セシル卿に密告してしまったため、1605年11月5日の開会当日にガイ=フォークスは貴族院地下室で逮捕され、陰謀は失敗した。国王と国教会はこの事件を利用して、カトリック取り締まりのための刑罰法を強化し、国民にカトリックに対する恐怖心を植え付けるため、国教会の教会暦に毎年11月5日にカトリックの陰謀から国王が守られたことを神に感謝する儀式を設けた。これは「ガイ=フォークス=ディ」としてその後も祝日として祝われるようになった。

Episode 11月5日のガイ・フォークス・ディ

 11月5日という日付はイギリス史にとって特別な意味を持ち、1688年の名誉革命の際にはカトリック王ジェームズ2世を排除するためにオランダ総督ウィレム3世(後のウィリアム3世)がイングランドに上陸する日は11月5日が選ばれている。その後、イングランドにおけるカトリック排除の風潮は1820年代の審査法の廃止、カトリック教徒解放法によって否定され、1859年には法定の祝日としての「ガイ・フォークス・ディ」は廃止された。しかし今日でも11月5日には「忘れるなかれ11月5日・・・」と子どもたちの歌声とともに、晩秋の夜空を花火やかがり火などで美しく彩る楽しい「火祭り」としてイギリス国民に定着している。もっともカトリックの陰謀に対する恐怖心を思い出させるという本来の意味はいまではすっかり忘れ去られている。<村岡健次・川北稔編『イギリス近代史(改訂版)』2003 ミネルヴァ書房 p.38>  11月5日には夜になると、恐ろしいガイ=フォークスのお面をかぶった男が街に繰り出し、たき火がたかれたり花火が打ち上げられたり、にぎやかな「火祭り」として「ガイ・フォークス・ナイト」といわれている。 → Guy Fawkes Day: A Brief History

王権神授説を掲げ議会と対立

 ジェームズ1世はスコットランド王として『自由なる君主国の真の法』という著作を著すなど、自ら王権神授説を主張し、コモン・ロー(国王といえども法の支配に服すべきであるという思想)をかかげる議会と最初から対立した。議会演説では「王は地上において神にも類する権力を行使しているのだから神と呼ばれてもよい」とか「王は生殺与奪の権・臣民を形成し廃棄する取捨の権を有していて、神に対してしか責任を負わない」と繰り返した。しかし、イングランドの祖法としての議会制度を否定することはなく、22年の在位期間中、8会期の議会を開催(エリザベス1世は44年間で10会期)している。当時の議会の中にも王権神授説を否定する議員も多かった。議会の存在は否定しないが、あくまで王権の下にあるべきで、王権に従属し補佐するべきであるというのがジェームズ1世の考えであった。
 ところが、議会は国王の国家統合計画には消極的であったため、ジェームズ1世は1614年からは6年半も議会を招集せず、1620年に三十年戦争への介入を図り、戦費調達のため議会を開催したが反対され、議会との対立が明確になっていった。<君塚直隆『同上書』p.4-6/池上俊一『王様でたどるイギリス史』2017 岩波ジュニア新書 p.96>

国教会の立場でピューリタンを迫害

 ジェームズ1世は、イギリス国教会の立場から統一的な英語訳聖書『欽定訳聖書』を定めた。この聖書の英訳は、近代英語の成立に大きな契機となったとされている。しかし、「主教なくして国王なし」と称して国教会の主教制度を国家の柱とし、国教会以外の宗派であるカトリック、プロテスタント(イングランドのピューリタンとスコットランドの長老派(プレスビテリアン))のいずれも否定した。
 おりからヨーロッパ大陸では三十年戦争(1618~48年)が始まったが、ジェームズ2世は長女のエリザベスが嫁いだドイツのプファルツ伯フリードリヒ(長老派の新教徒)が、スペイン軍とバイエルン軍に領土を占領されているのを助けるために出兵しようとし、国王大権で課税しようとしたため、議会が反発し、実施できなかった。ジェームズ1世の時代は戦争が回避されたため、後世に「平和王」と言われたが、それは財政難から結局戦争できなかった、ということであった。

北米植民地とピューリタンの移住

 ジェームズ1世の時代に、アメリカ大陸の最初の恒常的な植民地ヴァージニアが建設(1607年)され、彼の国教会強制による迫害を逃れてピューリタンピルグリム=ファーザーズ1620年に北米に移住して、ニューイングランドの建設が始まった。
 ジェームズ1世に始まった国王と議会との対立は、次のチャールズ1世の時にさらに深刻となり、ついにピューリタン革命が起こる。

Episode 悪魔学者ジェームズ1世

 ジェームズ1世は、自ら著作を行い、側近に哲学者として名高いフランシス=ベーコンなどもいて、「哲人王」ともいわれていた。しかし同時に、「悪魔学者」でもあった、という説明もある。
(引用)彼(ジェームズ1世)はカルヴァン派の教義を学ぶとともに、フランスの悪魔学者ジャン=ボダンの著作などにも通じ、悪魔の力や魔女の術策にたいそう詳しかったのです。1590年、24歳のときには、スコットランドの港町ノース・ベリックで行われた魔女裁判にも立ち会っていました。そこで残忍無比の拷問を受けた「魔女」がとうとう罪を告白するのを聞いて、歓喜したのです。あるサバト(魔女集会)において、自分(ジェームズ1世)がこの世における最大の敵だと悪魔が演説した、という話にとりわけ涙を流さんばかりに喜びました。その後彼は、この世にはおびただしい魔女がおり、その魔女と相謀って王殺しを企む者が何人もいると妄想するようになったのです。
 ジェームズ1世は自ら『悪魔学』(1597年)という著作も書いています。そこでは「イギリスがプロテスタント時代になって宗教改革前よりも悪魔の手下たる魔女や妖術師がひしめくようになり、カトリック教徒はそうした者らと組んでプロテスタントを攻撃しようとしている。だから神から王権を授かった国王こそが魔女を弾圧し一掃すべきだ」と述べています。<池上俊一『王様でたどるイギリス史』2017 岩波ジュニア新書 p.96-98>
 ここでいうプロテスタントとはカルヴァン派長老派のこと。同じカルヴァン派プロテスタントでもピューリタンはカトリックと同じく悪魔と結託しているとみられて弾圧された。魔女を恐れるのは先代のエリザベス1世の時にも見られ、魔術を重罪と定める法律が発布されている。イングランドではエリザベス・ジェームズ時代に魔女狩りの蛮行が絶頂を迎えている。魔女や妖術を恐れるという信仰は、さまざまな宗派に分かれたキリスト教世界では、キリスト教全体をまとめた一つの共同体のイメージを提起できるという効用もあった。 → イギリスの宗教各派