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ブリタニア

43年にローマ帝国がブリテン島に置いた属州。ロンディニウム(現在のロンドン)を中心にローマ風の都市を建設、ハドリアヌス帝の時には島北部のケルト系民族に備えて長城を築いた。5世紀にゲルマン人の一派アングロ=サクソン人の移住が始まり、ローマは撤退した。

 イングランド、スコットランド、ウェールズからなり、現在のイギリスの国土である大ブリテン島には、前7世紀頃からヨーロッパ大陸のケルト人と同系統の人々が居住し、鉄器文明の段階の部族社会を形成していた。紀元前1世紀にローマのカエサルガリア遠征の途次に前55年と前54年の二度にわたってドーバー海峡を渡って侵攻し、ローマはケルト人の中で最も有力だったブリトゥン人の名から、この地をブリタニア(ブリタンニアとも表記する)と呼ぶようになった。

属州ブリタニア

 カエサルの遠征は、ブリトゥン人の激しい抵抗に遭い、また兵員や食糧の補給も困難であったために、拠点を設けて支配を続けることはできなかった。ローマ帝国の時代となり、紀元後43年にクラウディウス帝が軍隊を派遣して、属州とすることに成功した。その拠点としてロンドニウム(現在のロンドン)などの都市を築いた。その他、ローマ時代の遺跡には、道路や円形競技場、共同浴場などが残されている。属州支配によって一般にブリテン島の「ローマ化」が進んだとされている。また、北方のケルト系民族の侵攻に備えて、122年ハドリアヌス帝は長城を築いた。マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝もその北方に「アントニヌスの長城」を築いたが、属州ブリタニアの支配が及んだのはほぼハドリアヌスの長城の線であったと考えられている。
 属州ブリタニアはローマの衰退とともに衰え、409年についに撤退した。5世紀のゲルマン人の大移動の時期には大陸からゲルマン人の一派アングロ=サクソン人が移住を始め、6世紀ころまでにはブリテン島の南西部に定住し、ケルト系ブリトゥン人とも同化し、この地はアングル人の土地という意味の「イングランド」と呼ばれるようになる。 → イングランド王国  →イギリス(1)

参考 地名に見るローマ文化

 現代のイギリスの都市、チェスター Chester、マンチェスター Manchester、ウィンチェスター Winchester、カンカスター Lancaster、などに見られる -chester、-caster は、ラテン語の castra(城砦に囲まれた町)に由来する。<寺尾盾『英語の歴史』2008 中公新書 p.53>

Episode カエサルの見た英国紳士の先祖

 カエサルの『ガリア戦記』には、大陸のガリア人やゲルマン人との戦いと並んで、ブリタニアのブリトゥン人との戦闘についても詳しく述べている。ブリトゥン人は現在のイギリス人を形成している先祖の一部であるが、彼らは現在の文明化された英国紳士とはかけ離れた印象をあたえる。以下、同書からカエサルの見たブリトゥン人の様子や戦いぶりを拾ってみよう。
・カエサル軍の上陸を迎え撃つブリトゥン人
(引用)ところが、原住民は、ローマ軍の意図を見通し、騎兵隊と戦車――これはブリタニア人がたいていどの戦闘でも使っていた武器である――を先発させ、残りの兵でわが軍の後をつけ、船から上陸するのを阻止しようとした。ローマ軍は……きわめて苦しい立場に追いこまれた。味方の船が大きいため、沖の深いところでないと停泊させられなかった。わが兵は、このあたりの地理に不案内であり、両手をふさがれ大きくて重い武器の負担に圧迫されていた。船から飛びこむと同時に、波の中に足場を確保し、敵とわたり合わねばならなかった。一方、敵ときたら、乾いた岸辺から戦い、あるいはせいぜい海の中へ少しはいってくるだけで、五体は荷物で邪魔されずに、案内に通じた場所で思う存分飛道具を投げ、海戦によくならした馬を縦横に駆りたてた。こうした事情から、わが軍は非常に怯えていたし、こうした戦闘形式はまったく未経験だったから、いつも上陸の戦いで見せていたような迅速果敢な活躍と烈々たる闘魂は、発揮されなかった。<国原吉之助訳『ガリア戦記』1994 講談社学術文庫 p.141-142>
戦車とは、馬に引かせた二輪の乗物を兵士が操作する。ここで述べられているのは、上陸戦の困難さであるが、ふと考えると、日本の元寇の時のモンゴル軍もこんな風だったのかもしれない。
・ブリタニア人の様子
(引用)ブリタニアの全島民で一番開化しているのは、カンティウムに住む人たちだ。この地域は全部、海岸地方にあり、生活様式はガリアとさほど違っていない。内陸部の住民は、ほとんど穀物を蒔かない。牛乳と肉を食べ、毛皮を着ている。一方ブリタニア人は例外なく自分の体をたいせいで染める。これは青を発色する草である。このため、彼らは戦場で余計にものすごく見えるのである。髪はのばし放題で、頭と上唇のあたりを除くと、体のどの部分も剃る。妻は十人か十二人ずつの仲間で、それもとくに兄と弟とか、父と子とかを共有する。こうした結合から生まれた子は、処女が最初に手をとって導かれて行った男のものとみなされる。<国原吉之助訳『ガリア戦記』1994 講談社学術文庫 p.165>
時代は違うが、たしかメル=ギブソン主演の映画『ブレーブハート』には同じケルト系のスコットランド兵が青い染料を体に塗りつけていた。なお、カンティウムは、タメシス川(現在のテームズ川)下流域のロンドンを含むあたり。「たいせい」(大青)とは藍色の染料の取れる植物。

ブリタニアの反乱

 属州ブリタニアはローマの穀倉として重要であった。その拠点ロンドンは、ローマ向けの穀物の積み出し港として栄えた。ローマの進んだ農法を導入した大農園が作られたが、入植者としてローマ人と一部のケルト系原住民は豊かになる一方で、収奪された多くの農民が貧しくなると言う貧富の差が広がった。
 ブリタニアに駐屯するローマ軍団の存在によって「ローマの平和」は実現したが、1~4世紀の属州支配のなかで、たびたび反ローマの蜂起があった。例えば、60年にはイケーニー族の女王ボウディッカは、他の部族にも呼びかけてローマ人入植者の収奪に対する大規模な反乱を起こしている。結局はローマ軍によって鎮圧され、ボウディッカも自殺を遂げたが、近代になって彼女はイギリスの国民的英雄としてその想像図が描かれるなど、知られるようになった。<指昭博『図説イギリスの歴史』2002 河出書房新社 p.10-12>
 このボウディッカ(ブーディカ)の反乱(62年とも)では、ロンドンは焼き払われ、そのあとに新たな都市が建設されたという。

参考 タキトゥスの伝えるブリタニア

 ローマの歴史家で『ゲルマーニア』を著したタキトゥスのもう一つの著作『年代記』では、ボウディッカの反乱を中心とした属州ブリタニアの歴史に触れている。また、彼のブリタニアの総督を務めていた岳父アグリコラの伝記『アグリコラ』でもローマのブリタニア統治について詳しく述べている。タキトゥスはローマによる支配がブリタニアに文明化をもたらしたとして、総督アグリコラの統治を称賛する一方、カレドニア人族長カルガクスの言葉として次のような一文を残している。
「(ローマ人は)全人類で彼らだけが、自分の富と世界の貧窮を、同じ情熱で欲している。掠奪し、殺戮し、強盗することを彼らは支配という偽りの名で呼び、人住まぬ荒野を作ると、そこを彼らは平和と名づける」。<弓削達『ローマはなぜ滅んだか』1989 講談社現代新書 p.197-198>

Episode ローマ時代の温泉

 イギリスのバース Bath は、ローマ時代からの温泉地として知られている。現在の建物は、ほとんどが18世紀に古代ローマ風のパラディオ様式に基づいて整備されたものであるが、湯船の床などはローマ時代のものが残っている。この温泉地は、18世紀には上流階級の一大社交都市として栄え、今も多くの観光客を集めている。この地名の Bath から、英語の風呂 bath がうまれたともいうが、それはどうやら逆で、温泉であることから地名がつけられたようだ。ともかく、ハドリアヌスの長城と並んで、イギリスに残るローマ時代の遺跡の一つといえる。

ローマン=ブリテンへの疑問

 1世紀の中ごろから5世紀初めまで属州としてローマの支配を受けていた時代をローマン=ブリテンといい、現在も島内各地でローマ時代の建造物や道路の遺跡が残されている。従来、ローマ帝国によって支配されたことによって、それまで野蛮の段階にあったブリテン島が「文明化」した、と説明されることが多かった。しかし、ひるがえって考えてみると、ローマ帝国にとってこのような北辺の島を支配したのは何故なのだろう、またどのように支配したのだろうか、ほんとうに「文明化」したのだろうか。そのような疑問を呈し、ブリテン島の「ローマ化」を検討した南川高志氏の『海のかなたのローマ帝国』(2003年の刊行)を見てみよう。
 南川氏によれば、ブリテン島がローマの属州支配によって文明化した、というような「帝国支配による文明化」が強調されるようになったのは19世紀のことで、それはイギリス帝国(大英帝国)がインドを初めとする広大な植民地を支配し、まさに「文明化」を進めていた時期であった。意識的にローマによる文明化はイギリスによる文明化とだぶって説明されていたのだ。
 つまり、先進的な文明国が、後進国(あるいは地域)を支配することによって文明化、あるいは近代化を進めたことに意義を見出すという、植民地支配を正当性する議論を、古代ローマの支配によってブリテン島が「文明化」したと論ずることで補強することになった。
 しかし、はたしてローマ帝国による「文明化」とは何か、また本当にあったのか、という疑問が20世紀に出されるようになった。それはイギリスのインド支配が破綻する時期と一致していた。現在では属州時代のブリテン島の考古学的な研究が進んだことで、「ローマ化」はローマが建設した都市部にとどまり、ブリテン島に広く深くローマ文化が定着したのではなかったことが明らかになってきた。イギリスの研究者の中には「ローマ化」を「文明化」と評価するのではなく、属州支配の前後に一貫してブリテン島に内在した要素による歴史として見直されている。
(引用)1990年代になって「ローマ化」概念への批判が起こった。考古学者たちのローマ支配を見る眼差しは変わり、また支配の及んだ地域においてローマ的生活様式を表面的に採用しながらも、実質的には従来の生活が継続していたことが遺物の分析で判明するようになった。皆が「ローマ風であること」に至上の価値を感じていたわけはないという、実に当たり前のことにようやく気づいたのである。……私たちは今、……「ローマ化」という概念を一度希釈してローマの統治を再検討し、改めて世界史におけるその意義を問うべきであろう。そのことは、伝統的なローマ帝国像を形成していた十九世紀以降のヨーロッパの歩みをも問うことに繋がるからである。<南川高志『海のかなたのローマ帝国――古代ローマとブリテン島』2003 岩波書店 p.137>
 南川氏は同書で、ローマ支配以前のケルト文化についても、大陸のケルト人が移住して「島のケルト文化」を造ったという定説化した見方にたいする否定的な見解を展開している。 → ブリテン島

参考 ローマ帝国に「国境」はあったか

 南川氏は同書で、北辺にあらわれた「ローマ帝国」とは何であったか、を問い、次のように述べている。
(引用)ブリテン島には、ハドリアヌスの長城、そしてアントニヌスの長城が築かれ、島に帝国の国境を示す「線」が引かれたように見える。しかし、辺境地帯は、多様な価値観と実際の生活の複雑な様相が重層的に絡まって出来上がっている。ローマ帝国の国境地帯は決して近代以降のそれのように敵と味方を峻別する面積のない「線」として理解することはできない。「線」の内側、また防壁や要塞の内側にローマ帝国権力の排他的な支配が均一の空間を作りだしているとも考えてはならない。また、ローマ軍の要塞の中は「ローマ化」され、その外側は「ローマ化」されなかったり遅れたりした蛮地と解釈したりすることも、今日的ではない。ローマ帝国領とされている地域でも、地中海を離れた諸属州では、多様で可変的なアイデンティティを持つ人間集団が、共同して活動していた。「ローマ」はそうした要素の一つに過ぎないと言っても過言ではないのである。<南川高志『同上書』 p.213>

海のかなたのローマ帝国

 現在のイギリスにおいても、ローマ帝国の属州だったブリテン島はローマと同質の文明化がおこなわれた時代として高く評価されている。このようなローマ帝国への高い評価は、しかし、近代とともに始まった憧憬に過ぎない、と南川氏は論じている。
(引用)……私が強調したいことは、イギリスにおけるかかる(「文明としてのローマ帝国」像をつくりあげるという)営為が、とりもなおさずこの国が歴史的文明から隔たった僻遠の地であったことの証左である、という点である。地中海世界の人々にとって、ブリテン島は「遠い北の果て」の世界であったが、ブリテン島の住民にとっても、「ローマ帝国」は遠いかなたの世界であり、「海のかなたの帝国」であった。のちの歴史の流れの中においても、ブリテン島の、そしてイギリスの持つこの距離感が、イギリス独自のローマ帝国像を生み出していったのではないだろうか。
 遙かかなたのブリテン島は、充分にはローマ帝国になり得なかった。ブリテン島が完全にローマ帝国になったのは、近代以降に形成された歴史像においてである。しかし、そうして形づくられた「海のかなたのローマ帝国」は、実態とは相容れぬ、「幻想」の帝国であったのである。<南川高志『同上書』 p.219-220>
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書籍案内

カエサル/國原吉之助訳
『ガリア戦記』
講談社学術文庫

指昭博
『図説イギリスの歴史』
2002 河出書房新社

写真と図版が豊富。説明も要領を得て、手ごろなイギリス史の概説書となっている。


弓削達
『ローマはなぜ滅んだか』
1989 講談社現代新書

タキトゥスの『アグリコラ』などにも触れている。


南川高志
『海のかなたのローマ帝国―古代ローマとブリテン島』
増補版2015 岩波書店

初版は2003年。従来のローマ帝国論に一石を投じた論争的な本。われわれがローマ帝国について考える意味も問われている。