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ローマの平和/パックス=ロマーナ

前1世紀末、ローマ帝国の出現によって実現した地中海世界の平和。帝国の軍事的征服によって生まれた平和であり、ローマ文明が地中海世界に拡がった。紀元後2世紀に最も安定したが、3世紀以降、周辺のゲルマン民族やササン朝ペルシアなどの活動が活発になり、次第に衰えた。

 ラテン語で Pax Romana という。前27年、ローマ帝国アウグストゥスの即位から、後180年の五賢帝時代の終わりまでの200年間、地中海世界に大きな戦争がなく、ローマの支配権のもと平和が実現されたことから、この時代を「ローマの平和」という。地中海世界は、前5世紀のペルシア戦争とペロポネソス戦争、前4世紀のアレクサンドロスの戦争、イタリア半島統一戦争、前3世紀のポエニ戦争、前2世紀のマケドニア戦争、前1世紀の「内乱の1世紀」とその終わりのアクティウムの海戦まで、常に戦争が絶えなかったが、ローマの覇権が成立したことで、地中海は「ローマの内海」と化し、相対的な安定がもたらされた。パックス=ロマーナはラテン語で「ローマの平和」の意味。これをもじって、パックス=ブリタニカ(19世紀の大英帝国)、パックス=アメリカーナ(現代のアメリカ合衆国)などどいう。

参考 「ローマの平和」とは何だったか

 ローマ帝国の地中海支配が完成して生まれたという「ローマの平和」は、その支配を受けた人々にとってどのような意味をもっていたのだろうか。「平和」の意味することは何だったのだろうか。まさにローマ帝国の支配を受けていた属州ブリタニア(現在のイギリス)の族長カルダクスという人が語った言葉を、歴史家タキトゥスは、『アグリコラ』という著作で伝えている。
(引用)けれども今やブリタンニアが果てる終極のこの地も、世界に向って開け放された。えてして未知なるものはすべて誇張される。しかしここより北にはもはやいかなる部族も住まない。海と岩より他に何もない。これらよりもさらに危険きわまりないのがローマ人である。彼らの傲岸不遜から逃げようとして、いくら忍従し下手に振舞っても無駄であろう。この地球の略奪者どもは、あらん限り荒らしまわって、土地がなくなると、海を探し始めた。あれでもし敵が金持ちなら、生来胴欲なのだ。貧乏なら、自惚れが強すぎる。もう東方の世界も西方の世界もローマ人を満足させることができないのだ。全人類の中でやつらだけが、世界の財貨を求めると同じ熱情でもって、世界の窮乏を欲している。彼らは破壊と、殺戮と、掠奪を、偽って『支配』と呼び、荒涼たる世界を作りあげたとき、それをごまかして『平和』と名づける。<タキトゥス/国原吉之助訳『ゲルマニア/アグリコラ』1996 ちくま学芸文庫 p.189-190>
 書名のアグリコラとは、ローマの元老院議員のグナエウス=ユリウス=アグリコラのことで、78年頃から85年頃までブリタニア総督だった人物。この書はアグリコラの娘の夫であったタキトゥスが、岳父の伝記として書いたものである。したがってその基調は総督アグリコラのブリタニア統治が困難の中で正しく行われたことを述べるのが主眼であるにもかかわらず、タキトゥスはこのブリタニアの族長の「反ローマ演説」をあえて書いたのだ。岳父アグリコラはローマでは時の皇帝ドミティアヌスの専制的な政治に勇気を持って抵抗していたという。そのような人物もブリタニアの現地人の前に現れたときは、侵略者・略奪者側の将軍としてであった。
 タキトゥス自身が二人の演説を聴いたわけではないので、創作も含まれているかも知れないが、帝国の北辺の属州でローマ人の支配がこのように見られていたのは確かであろう。タキトゥスがなぜ敢えてこの演説を書きしるしたのか。そこには皇帝権力を自由の抑圧とみていた歴史家タキトゥス自身の苦痛が現れているともいえる。<弓削達『ローマはなぜ滅んだか』1989 講談社現代新書 p.196-203>
パックス=ブリタニカ批判へ この“破壊と殺戮と掠奪を偽って「支配」と呼び、荒涼たる世界を作り上げて「平和」と名づける”という言葉はその主語をローマからイギリス(大英帝国)に替えても通用する。古代においてはローマ帝国の属州支配を受けて収奪されたブリテン島が、19世紀末から20世紀ににはイギリス帝国主義の全盛期を迎え、「大英帝国」としてアジア、アフリカを植民地化して収奪した。つまりパックス=ロマーナに対する批判はパックス=ブリタニカに対する批判であり得た。19世紀イギリスの首相グラッドストンもこの一文を引用して大英国主義を批判したという。<南川高志『海のかなたのローマ帝国―古代ローマとブリテン島』2003 岩波書店 p.130>
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書籍案内

タキトゥス
/国原吉之助訳
『ゲルマニア/アグリコラ』
1996 ちくま学芸文庫


弓削達
『ローマはなぜ滅んだか』
1989 講談社現代新書