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ローマ教皇領

ローマ教皇の領有する領地。756年の「ピピンの寄進」で成立し中部イタリアで中世・近世を通じ、教皇国家を形成していたが、1870年にイタリア王国に併合された。

 キリスト教ローマ=カトリック教会の頂点に立つ、ローマ教皇の所領を教皇領という。教会は、イエスは何も財産を持たなかったわけであるから、本来、土地や所領を持っておらず、信者たちの信仰の拠り所にすぎなかった。しかし、キリスト教がローマ帝国の国教となるとローマ教会はローマ一帯を「聖ペテロの遺産」として認められるようになった。さらにローマ教皇の権威が確立すると、世俗の権力者の中に帰依するものが現れ、領地(土地所有だけではなく、年貢を取ったり裁判をしたりする権利も含む封建領主としての支配権)を寄付するようになった。こうして中世ヨーロッパにおいてはローマ教皇は広大な領土を支配する権力を有することとなった。

ピピンの寄進

 教皇領は、フランク王国のピピンが、756年にランゴバルド王国から奪った北イタリアのラヴェンナ地方などを寄進した「ピピンの寄進」によよって本格的に成立した。
 ピピンがローマ教皇に領地を寄進したのは、751年にフランク王国のメロヴィング朝の王位を奪い、カロリング朝を創始したとき、時のローマ教皇ザカリウスがそれを承認したことへの返礼の意味があった。ランゴバルトの侵攻を受けて苦しむローマ教皇は、その保護者としていたビザンツ帝国とも関係が聖像崇拝問題で対立していたため、フランク王国を新たな保護者とするため、その実力者ピピンの即位を認めたのだった。
 754年には教皇ステファヌス2世は自らフランク王国を尋ね、ピピンにランゴバルト討伐を要請、それに応えたピピンがアルプスを越えてランゴバルト王国に遠征し、教皇領侵攻を中断させた。それを受けてローマ教皇はピピンの戴冠式で塗油を行った。しかしまもなく、ランゴバルト王国は再びローマ教皇領に侵攻したので、756年、ピピンは二度目の遠征を行い、ランゴバルトから奪ったラヴェンナ地方などを教皇領として寄進した。
 しかしラヴェンナはもともとビザンツ領であったのでビザンツ皇帝はピピンがその地をローマ教皇に寄進したことを認められないと反発した。それに対してローマ教皇側は、この寄進はローマ帝国の「コンスタンティヌス大帝」に認められていたと主張し、ビザンツ帝国側の非難を無視した。

Episode 偽文書「コンスタンティヌス寄進状」

 イエスの教えを引き継いで人々に愛を説き、信仰の指導者であるべきローマ教皇が、教皇領という莫大な財産を持ち、そこから得られた富や、十分の一税、あるいは信者の寄付、そして後には免罪符による収入などを得て、巨大なローマ教会の建物の中で贅沢な暮らしをするだけなく、破門をちらつかせながら国王よりも強い権力もってヨーロッパを牛耳るなどの政治権力を振るうことが出来る根拠は何だろうか。
 ローマ教皇自身もその言い訳をするのに苦労したようだ。そこで持ち出してきたのが「コンスタンティヌス寄進状」という古文書であった。それはコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認するときにローマ教会に与えた、ローマ帝国の西半分の統治権を認めると自筆した文書だというのだ。それ以後、皆それを信じ、この文書は中世を通じて真実とされ、ローマ教皇が西ヨーロッパを支配する根拠とされてきた。ところが、ルネサンス時代になってある古典学者がこの文書が偽物であることを証明し、ローマ=カトリック教会の主張に根拠がないという言うことがわかった。しかしすでに7~800年経っており、教会の権威はほころびはじめた後だった。

教皇権の確立と教皇領の発展

 「ピピンの寄進」の後もローマ教皇とカロリング朝フランク王国との良好な関係が続き、次のカール大帝800年にローマ教皇レオ3世からローマ皇帝の冠を授けられ、このカールの戴冠によって、フランク王国とローマ教皇が補完し合う形でヨーロッパ世界が成立した。
 この間、カロリング王家による寄進が続き、最盛期にはローマを中心に中部イタリアに広大な教皇領を形成した。教皇領に対しローマ教皇は、世俗の国王や領主と同じ政治上、経済上の支配権も行使し、また不入権も認められた。また教皇領以外にも教会はそれぞれ教会領をもち、大司教など高位聖職者はその領主として豊かな収入を得ることとなった。10世紀の聖職叙任権闘争、12世紀の十字軍運動を通じてローマ教皇は権威を高め、13世紀のインノケンティウス3世の時には、イタリア中部の教皇領は最大に達した。この広大な教皇領を財源として、ローマ教皇は西ヨーロッパにおける一種の超国家的権力として政治力を発揮した。

教会国家の展開

 十字軍運動の終焉とともに、封建領主層の没落が始まり、逆に国王の世俗王権が強まる傾向が出始めると、国内統一を目指す国王は、教会領の併合をはかるようになった。1303年のアナーニ事件や1309~76年の「教皇のバビロン捕囚」、さらに教会大分裂(1378~1417年)などの間に、教皇領への教皇の支配力は弱まり、領内には封建勢力が生まれ不安定になった。しかし、15世紀にはいると、ヴェネツィア共和国、フィレンツェ共和国、ミラノ公国、ナポリ王国などのイタリアの有力な国々の対立を利用しながら、歴代のローマ教皇は巧みな領土経営を行い、また独自の傭兵軍を持ってその支配権を拡大した。特に、教皇アレクサンデル6世(在位1492~1503)は息子のチェーザレ=ボルジアを使って教皇領の拡大をはかった。またユリウス2世(在位1503~1513)も、ヴェネツィアと争って教皇領を北に広げ、ボローニャやフェラーラを獲得した。このころは教皇領は「教会国家」としてイタリア中部を支配する強国であったといえる。このユリウス2世はルネサンスの保護者の一人であった。

教皇領の消滅

 近代に入り、イタリア統一運動の過程でそれを阻害する存在であったローマ教皇領は、次第に縮小されてはいたが、ローマ教皇はカトリック国フランスの支援を受けて領土の維持に努め、1861年のイタリア王国成立後も教皇領の独立した世俗権力を維持していた。1870年に普仏戦争でフランスが敗れてローマから撤退したため、イタリア王国軍がローマ教皇領を占領し、併合した。こうしてローマ教皇領は消滅した。それ以後イタリア王国とローマ教皇(ヴァチカン)は絶縁状態にあったが、1929年、ムッソリーニがヴァチカンを国家として認めてラテラン条約が締結され、ヴァチカン市国がうまれた。
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