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ナポレオン/ナポレオン=ボナパルト/ナポレオン1世

フランス革命で軍人として頭角を現し、1799年に総裁政府から実権を奪い、第一統領となる。革命理念に沿った施策の一方、周辺への侵略を行い軍事的成功を収める。1804年、ナポレオン1世として皇帝となる。

 1769年にコルシカ島の貧乏貴族の家に生まれ、フランス本土で兵学校に入りフランス革命政府の軍人となる。ジャコバン派ロベスピエールを支持したためテルミドールのクーデターで一時生命も危うかったが、王党派の武装蜂起鎮圧に功を上げて軍司令官に昇進した。

ナポレオンの台頭

 1796年4月からのイタリア遠征でオーストリア軍を連破し、カンポ=フォルミオの和約で南ネーデルラントとロンバルディアを獲得して名声を高めた。
 1798年にはイギリスのインド支配を妨害するためエジプト遠征を実行した。そのころ総裁政府は弱体化しており、1799年にナポレオンは政府に無断でパリに帰還し、ブリュメール18日のクーデターで権力を握った。ナポレオンは、1799年12月24日「革命暦第8年憲法」を布告して、フランス革命の終結を宣言、正式に統領政府を発足させ、自らは第一統領として実質的な独裁政権を樹立した。 → ナポレオン1世  第一帝政

出題

ナポレオン
Napoleon Bonaparte (1769-1821)
 2006年センターテスト追試 右の図はダヴィドの描いた有名なナポレオン像である。この図を題材にして、2006年のセンターテストでは次のような問題文があった。
「ナポレオン=ボナパルトは、皇帝になる前から、自らの「英雄」的資質を人々に印象づけるための肖像画を制作さていた。次の図は、彼が、1800年にサン=ベルナール峠を越えて、北イタリアのマレンゴでオーストリア軍に大勝したときの、アルプス越えの様子を描いたものである。足元の岩には、ボナパルト、ハンニバル、カール大帝の名が刻まれており、ナポレオンが、古代カルタゴの名将ハンニバル、中世フランス王国のカール大帝に続く、近代のアルプス越えの英雄であることが示されている。このようなナポレオンの肖像画は、数多く作成され、フランス国内やナポレオン支配下の国々の宮殿を飾るのに用いられた。」

第一統領

 統領政府は立法権も握り、フランス革命の成果を固定するための処置を進めた。中央銀行としてのフランス銀行の設立、通貨の発行、教育の統一など経済と社会の安定を図り、1801年にはローマ教皇との和解(コンコルダート)を実現(信教の自由は継承)した。外交面では1800年に再びアルプスを越えて北イタリアに入り、6月14日、マレンゴの戦いでオーストリア軍と戦い、勝敗はつかなかったがオーストリア軍は退却した。翌1801年のリュネヴィルの和約でライン左岸を獲得し、オーストリアはイタリアから排除された。一方、1802年3月にイギリスとのアミアン和約で当面の講和を実現した。政治の安定を受けて1802年に憲法を改正、終身統領制として自ら就任した。
 1804年3月にはナポレオン法典を発布したが、それはナポレオン自身が編纂に参加したもので、法の下の平等、信仰や労働の自由、私的所有権の絶対と契約の自由など、フランス革命の成果を固定させる民法典となった。
ハイチ独立を妨害 このころ、西インド諸島のフランス植民地ハイチの独立運動が始まっていた。運動を指導した黒人トゥーサン=ルヴェルチュール1800年8月、独立を宣言し黒人奴隷を解放した。フランスの国民議会でも黒人奴隷制廃止を決議されていたが、ナポレオンは権力を握るとハイチ独立運動の弾圧に転じ、軍隊を派遣してトゥーサン=ルヴェルチュールを逮捕、本国に連行した。彼はフランスの獄中で死亡したが、ハイチでは独立軍がフランス軍を撃退し1804年、世界最初の黒人共和国として独立した。ハイチでのフランス軍の敗北はナポレオン全盛期の唯一の敗北であった。

皇帝ナポレオン

 さらに革命理念の全ヨーロッパへの拡張を称えて、ナポレオン戦争といわれる実質的な征服戦争を展開し、国内ではブルジョワ・小ブルジョワ・農民の幅広い支持を背景に、1804年5月18日ナポレオン1世として即位し皇帝となった。国民投票で承認された上で、同年12月2日、パリのノートルダム大聖堂でローマ教皇立ち会いのもとで戴冠式を挙行し、自らの手で戴冠した。これによってフランス革命によって生み出された第一共和政は終わりを告げ、フランスは第一帝政へと移行した。

ナポレオン1世

1804年、ナポレオンは国民投票を行った上で皇帝ナポレオン1世として帝政を開始。この第一帝政のもとでフランスは革命精神の輸出と称して周辺のヨーロッパ諸国を侵略、ヨーロッパ征服を目指し、1807年ごろまでに大陸をほぼ制圧した。しかし、イギリス征服はできなかった。その野望は1812年のロシア遠征に失敗したことから急転し、各国に諸国民戦争と言われる解放戦争が始まり、パリも陥落したためナポレオンは1814年に退位した。まもなく配所のエルバ島を脱出し、パリに帰還し皇帝に復したが、1815年6月のワーテルローの戦いに敗れて「百日天下」に終わり、セントヘレナ島に流され、1821年に死去した。時代はウィーン体制という反動期に向かっていく。

ダヴィド筆 ナポレオンの戴冠式
ダヴィッド筆によるナポレオンの戴冠式
 ナポレオン1世は、1804年5月18日ナポレオンが皇帝となってからの称号。ナポレオンの皇帝就任は「革命暦12年フロレアル28日の元老院令」で決議された。共和国政府は国民投票を実施したが、圧倒的多数が皇帝就任を承認し、それは形式に過ぎなかった。12月2日、ノートルダム寺院で戴冠式が行われ、正式に皇帝ナポレオンが誕生、こうしてフランスは第一共和政に移行した。これはフランス革命の終末を意味していたが、ナポレオン帝政はフランス革命の成果を前進させる側面もあった。

図解:ナポレオンの戴冠式

 1804年12月2日、ナポレオンは戴冠式をパリのノートルダム大聖堂で挙行したが、それはカール大帝の戴冠がローマで行われた前例と異なることを意識してのことであった。そしてわざわざローマから教皇ピウス7世をパリに招いて式を挙行した。上の図はナポレオンの戴冠式を描いたダヴィドの作品。これはダヴィドの代表作としてよく知られているもので、中央にナポレオンが、ひざまづいたジョゼフィーヌに皇后の冠を授けようとしている。すでにナポレオンは帝冠を戴いているが、それも自ら頭に載せた。本来ローマ教皇から授けられるべき帝冠を自ら戴いたことはローマ教皇にとって屈辱であった。右手に座っているのが教皇ピウス7世で不興げな顔をしている。ダヴィドはフランス革命期に活躍した画家で、ロベスピエールに心酔していたためにテルミドールのクーデターでは捕らえられ入獄した。その後、ナポレオンが台頭するとその専属画家に採用され、さまざまな記録的な絵画を残した。

Episode ベートーベン、第三交響曲の献辞を破棄

 ナポレオンの1歳年下で、同世代の作曲家ベートーベンは、ナポレオンを革命の理念である自由と平等を実現する英雄であると考え、賛美する第三交響曲の作曲を進めていた。しかし、ウィーンでナポレオンの皇帝即位の報に接し、ナポレオンへの献辞を記した最初のページを破り捨てた。完成した交響曲はその力強い曲調から、人々から『エロイカ(英雄)』と呼ばれるようになった。

第一帝政

 ナポレオンの皇帝就任は周辺諸国に大きな衝撃を持って迎えられ、その大陸制覇を警戒したイギリスの首相ピットは、アミアン和約を破棄し、1805年第3回対仏大同盟を結成する。それに対してナポレオンはイギリス侵攻をめざしたが1805年10月21日トラファルガーの海戦で敗れて計画を放棄し、焦点を大陸内に移し、1805年12月2日、アウステルリッツの三帝会戦ではオーストリア・ロシア連合軍を撃破した。
 ナポレオンが南西ドイツ諸侯を統合してライン同盟を結成すると、翌1806年10月14日、にプロイセンが反撃したがイエナの戦いでプロイセン軍を撃破したナポレオンはベルリンを占領し、1806年11月21日に大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出した。さらにロシアに支配されるポーランドに侵攻し、ロシア軍を破り、1807年ティルジット条約を結んで講和した。これによってナポレオンの大陸支配が成立した。

ナポレオンのヨーロッパ支配

 ナポレオン帝国の直接統治はオランダと北西イタリアに及んだ。さらにポーランド(ワルシャワ大公国)ドイツ西部・イタリア・スペインには傀儡政権を置き、プロイセンとオーストリアは同盟国となった。ナポレオンはヨーロッパにフランス革命の理念を拡げたが、実際には一族を各国の支配者に送り込み、専制支配を行った。それに対してヨーロッパ各地で反ナポレオンの民衆蜂起が起こり、フランス軍は弾圧に追われていた。またナポレオン支配下のヨーロッパの諸民族の中に、主権と独立の確立を目ざす運動が激しくなった。1806年にはオランダのバタヴィア共和国を倒して傀儡国家オランダ王国をつくって弟ルイを国王にすえ、さらに1810年には直轄領としてフランスに編入した。1808年5月2日~3日、スペインの反乱が起きるとナポレオンは1808年11月には自ら大軍を率いて侵攻したが翌年には撤退をよぎなくされた。1810年には皇妃ジョセフィーヌと離婚し、オーストリア・ハプスブルク家の皇女マリア=ルイザと再婚し、家柄に箔をつけようとした。

Episode ナポレオンの一族

 ナポレオンは征服した各地に自分の親族を支配者として配置した。彼自身はフランス皇帝であるとともにイタリア王を兼ね、義理の息子(皇后ジョセフィーヌの連れ子)ウジェーヌ=ド=ボーアルネを副王とした。兄ジョゼフはナポリ国王とした後、スペイン国王とした。二番目の弟ルイはオランダ国王、三番目の弟ジェロームはドイツ西部のウェストファリア国王、妹エリザはイタリア中部のトスカナ大公妃、三番目の妹カロリーヌの夫ミュラ元帥はベルク大公の後にナポリ国王となった。ナポレオンは一族の力を借りてヨーロッパ統合の夢を実現しようとしたのだった。<ティエリー・レンツ/福井憲彦監修『ナポレオンの生涯』1999 知の再発見双書 p.106,>

ナポレオンの没落

 1812年6月、ベルリン勅令に違反してイギリスへの穀物輸出を続けていたロシアを制裁するとして、ロシア遠征を開始し、モスクワに達したが、ロシア軍の後退作戦にはまって失敗に終わり、無惨な敗北となった。ヨーロッパ各国の反ナポレオンの動きが急速に強まり、1813年10月のライプツィヒの戦いで決戦となった。
 戦いはナポレオンの敗北となり、オーストリア・プロイセン・ロシア同盟軍がパリ入城し、1814年4月2日、ナポレオンは退位し、エルバ島に流された。ナポレオン戦争の戦後処理のためウィーン会議が始まったが、各国の利害が対立して話が進まない間に、1815年2月にナポレオンはエルバ島を脱出し、3月にパリに帰還した。
 ウィーン会議の列国はあわてて結束を固め、1815年6月にワーテルローの戦いでイギリス軍のウェリントンの指揮する同盟軍に敗れ、「百日天下」に終わった。今度は南大西洋のセントヘレナ島に流され、厳しい監視の下におかれて1821年5月5日に死去した。

Episode ナポレオンの二度の結婚

 ナポレオンは生涯で正式な結婚は二回あった。一度目は1796年のジョセフィーヌ、二度目は1810年のマリー=ルイーズである。最初の妻ジョゼフィーヌはフランス領西インド諸島のマルティニーク島の生まれで、ボーアルネ子爵と結婚し2児をもうけたが、夫が断頭台に送られ貧しい未亡人となっていた。そのうち総裁政府の総裁の一人バラスらと「親密な交際」で生計を立てるようになった。そのバラスが反政府反乱鎮圧に登用したのがナポレオンだった。バラスはナポレオンにジョゼフィーヌを「譲った」。1796年、新婚のナポレオンはイタリア遠征軍の指揮官に選ばれ、その勝利をきっかけに栄達を開始する。ジョゼフィーヌは「けたはずれの浪費家で貞節も守らなかった」がナポレオンは彼女を深く愛した。遠征先からの愛情を込めた手紙が多数残されている。しかし、二人の間には子供が産まれなかった。ジョゼフィーヌは不妊に効果があるという温泉にでかけたりしたが無駄だった。それでもナポレオンは離婚は考えていなかった。1804年12月、ナポレオンが戴冠すると同時にジョゼフィーヌも皇后となった。上の図でナポレオンの膝下にぬかずいているのが皇后ジョゼフィーヌである。
 しかし、皇帝となったナポレオンには世襲の重荷がのしかかってくる。なんとしても帝位を実の子供に継承させたいと願った。そんなときナポレオンと関係のあった女性たちが出産し、不妊の原因は皇后にあることがわかった。1809年12月、ナポレオンはジョセフィーヌと離婚した。この日の来ることを恐れていたジョゼフィーヌは、ナポレオンからその決意を直接聞いて気絶したという。それは演技だったという説もある。ジョゼフィーヌはパリ郊外のマルメゾンに広大な別邸をあたえられていたが、離婚後もそこで暮らし、1814年まで生きた。現在ではその別邸は博物館になっているという。
 政治的効果を狙うため、新しい皇后はヨーロッパの大国から迎えることが望ましかった。初めはロシアの皇女が候補にのぼったが破談し、結局オーストリア皇女マリー=ルイーズに決まり、1810年4月、結婚式が行われた。マリー=ルイーズは大叔母マリ=アントワネットを処刑した国の皇后となったわけである。父のフランツ1世(最後の神聖ローマ皇帝フランツ2世だった人)が「コルシカの怪物」といっていたナポレオンだったが、実際には優しく迎えられ、円満な家庭生活を送った。もっともナポレオンは「私は(子供を産むための)腹と結婚したのだ」と広言してはばからなかった。そして1811年3月20日に待望の男の子が生まれると、ナポレオンはその子に「ローマ王(ロワ=ド=ローム)」の称号を与えた。パリでは皇太子誕生を祝って101発の祝砲が鳴り響いたが、それは「ナポレオンの夢の完成を告げると同時に、転落の始まりを表す砲声だった。」
 なお、マリー=ルイーズはナポレオン失脚後はオーストリアに帰り、イタリアに領地を得て、廷臣のナイベルク伯爵と再婚した。また「ローマ王」は父の失脚後、ウィーンの宮廷で生活し、1832年に21歳で生涯を終えた。<ティエリー・レンツ/福井憲彦監修『ナポレオンの生涯』1999 知の再発見双書 p.23,47,108,>

Episode ナポレオン、死んで凱旋門をくぐる

 ナポレオンはアウステルリッツの三帝会戦の翌年の1806年、その勝利を記念してパリに凱旋門の建造に着手した。それが現在のエトワール広場の凱旋門である。しかし、その完成を待たず、セントヘレナ島に流され、1821年にその地で死んだ。凱旋門が完成したのは、ようやく1836年のことだった。つまり、ナポレオンは生きて凱旋門をくぐることはなかった。七月王政時代の1840年、ナポレオンの遺体はパリに移されることになり、その時、遺体は凱旋門をくぐって、アンヴァリッド聖堂に埋葬された。

参考 ナポレオンの述懐

 オクターヴ・オブリ編の『ナポレオン言行録』はナポレオンが自らを語ったり書いたりした断片を集めたものだが、意外に自画自賛だけではない、彼の歴史を見通す眼と率直な思いを知ることができる。6「戦争について」の最後に、恐らくセントヘレナにおけると思われる、ナポレオンの次のような言葉がある。
(引用)戦争はやがて時代錯誤になろうとしている。われわれが全大陸で数々の戦闘を交えてきたのは、二つの社会が相対峙していたからである。すなわち、1789年からはじまった社会と旧制度とが。この二つの社会は両立できないものであった。若い社会が古い社会をむさぼり食った。結局、戦争は私を――フランス革命の代表者であり、フランス革命の諸原理の道具である私を、打ち倒したということを私はよく承知している。しかし、そんなことはどうでもよい!
 私が打ち倒されたことは文明が闘いに敗れたことである。私の言葉を信じ給え、文明は復讐をするであろう。二つのシステムがある、すなわち過去と未来とである。現在はつらい過渡期にすぎない。何が勝ち誇るべきであるか?未来が勝ち誇るべきではないか? とすれば、未来は知性であり、産業であり、平和である。過去は暴力であり、特権であり、無知であった。われわれの戦勝のおのおのは革命の思想の勝利であった。勝利はいつの日にかは大砲もなく銃剣もなしに達成されるであろう。<オクターヴ・オブリ/大塚幸男訳『ナポレオン言行録』1983 岩波文庫 p.258-259>
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書籍案内

井上幸治
『ナポレオン』
1957 岩波新書

杉本淑彦
『ナポレオン』
2018 岩波新書

ティエリー・レンツ
福井憲彦監修・遠藤ゆかり訳
『ナポレオンの生涯』
知の再発見双書
1999 創元社

オクターヴ・オーブリ編
大塚幸男訳
『ナポレオン言行録』
1983 岩波文庫