印刷 | 通常画面に戻る |

アウステルリッツの戦い/三帝会戦

1805年、ナポレオンのフランス軍がオーストリア・ロシア連合軍を破った戦い。

 ナポレオンのイタリア遠征は、北イタリアに駐留したオーストリア軍を後退させ、オーストリアは1797年のカンポ=フォルミオの和約でいくつかの領土を失った。その後も1799~1802年にかけて散発的な衝突が続いたあと、オーストリア(神聖ローマ皇帝)のフランツ2世はロシアの皇帝アレクサンドル1世・イギリス・スウェーデンと同盟し、フランス皇帝ナポレオン1世に戦いを挑んだ。しかし、ウルムの戦いでフランス軍に敗れ、ナポレオンはウィーンを占領した。

ナポレオンの勝利となった三帝会戦

 1805年12月2日、オーストリアフランツ2世とロシアのアレクサンドル1世は現在のチェコの東部、ブルノの近郊アウステルリッツで、ナポレオン軍との決戦に臨んだ。この戦争は三人の皇帝が会した戦争だったので三帝会戦ともいう。戦いはナポレオン軍の勝利となり、その勝利はナポレオン戦争の中でも、最も華々しい勝利であり、フランスはヨーロッパ大陸に大きな支配権を獲得した。
 12月23日にプレスブルク(現在のスロヴァキアの首都ブラチスラバ)で講和条約が締結され、オーストリアはイタリアの権益をすべて放棄し、第3回対仏大同盟は1年持たず解消した。
 それより前の同年10月、ナポレオンのフランス海軍はトラファルガー海戦でネルソンの率いるイギリス海軍に大敗し、イギリス侵攻の実現は遠のいたが、陸上のこのアウステルリッツの戦いでは完全な勝利をおさめ、陸上におけるフランス軍の強さは依然として絶大なものがあると感じられた。

Episode 近代的大会戦の最初

(引用)1805年10月20日、ウルムの戦いでオーストリア軍を破ったナポレオンは、11月13日、ウィーン入城を果たす。オーストリアのフランツ2世(神聖ローマ帝国皇帝)はオルミュッツでロシア皇帝アレクサンドル1世・クトゥーゾフ将軍と合流。ナポレオンがウィーンの北のブルノに進出するとアレクサンドルはナポレオンとウィーンの連絡を断とうと、アウステルリッツに司令部を移動、大会戦となった。露軍は7万2千、墺軍は1万4千、仏軍は7万。午後2時、フランス軍は敵の中央突破に成功。露・墺軍の死傷者2万6千、仏軍9千で終了。近代的大会戦の最初。<井上幸治『ナポレオン』岩波新書 P.119>
 なお、トルストイ『戦争と平和』第1部第3編(岩波文庫1-P.470~563)にもこの戦争の詳しい描写を読むことができる。
印 刷
印刷画面へ