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アレクサンドル1世

19世紀初めのロシア・ロマノフ朝の皇帝。ナポレオン戦争に勝利してウィーン体制をリードし、神聖同盟の盟主となった。

 19世紀初頭のロシア帝国、ロマノフ朝の皇帝、在位1801~25年。治世の初めにはスペランスキーなどの改革派を登用して、三権分立の導入などの改革を図ろうとしたが、ナポレオン戦争が勃発して改革は停止された。

ナポレオンとの対立

 1805年のアウステルリッツ三帝会戦では敗北を喫し、ロシアの防衛体制を固め、ナポレオン軍の侵略に備え軍備を増強した。しかしナポレオン1世は1806年10月のイエナの戦いでプロイセン軍を撃破して首都ベルリンを占領し、1806年11月、大陸封鎖令(ベルリン勅令)を出し、ヨーロッパ大陸諸国にイギリスとの貿易の禁止を通達した。ロシアのアレクサンドル1世は当初、それに従わない姿勢を示し、なおもナポレオンに対する抵抗を続けたが、1807年2月8日のアイラウの戦いでは勝敗がつかなかったものの、同年6月14日のフリートラントの戦いでは手痛い敗北を喫し、1807年、やむなくフランスとのティルジット条約を締結、大陸封鎖令を遵守し、ロシアの港でもイギリス製品との取引を行わないことを約束した。

ナポレオンのロシア遠征

 しかし、ロシアにとってイギリスへの穀物輸出ができなくなり、また工業製品が入ってこなくなることは大打撃であったので、密貿易という形でイギリスとの貿易は続けざるを得なかった。また、ナポレオンは皇后ジョセフィーヌが後継ぎを生まないことから離婚し、後妻を得ようと考え、アレクサンドル1世の妹を皇后に迎え、同時にロシアとの提携を強めようとした。しかし、表面的にはナポレオンに服従していたアレクサンドル1世であったが、この縁談に乗り気でなく回答を引き延ばした。ナポレオンはロシア皇女を諦め、オーストリアのハプスブルク家皇女を迎えることとし、ロシアを警戒するようになった。そのような事情を伏線として、ナポレオンは壮大なロシア遠征を計画、ついに1812年5月、ロシア遠征を実行、パリを出発した。

ナポレオンを撃退した皇帝

 1812年6月、ナポレオンのロシア遠征フランス軍は、プロイセン、ポーランドなどの兵を加え、ネマン川を越えてロシア領に侵攻した。迎え撃ったアレクサンドル1世のロシア軍はじりじりと後退、スモレンスクで敗れ、さらにボロディノの会戦では大敗を喫し、モスクワに迫った。ロシア軍はクトゥーゾフ将軍の戦略によってモスクワを放棄し、ナポレオン軍は無人のモスクワに入った。フランス軍は冬季に入り、寒さと食糧不足に悩まれて、撤退を開始、ロシア軍は、粘り強くつげ汽船を展開して、ついにナポレオンを撃退した。
 アレクサンドル1世は攻勢に転じ、プロイセン・オーストリア軍とともに1813年10月のライプツィヒの戦いでナポレオン軍を破り、追撃してパリに入城しした。このときアレクサンドル1世とともにパリに入ったロシア軍の青年将校の一部はフランスの自由な社会に触れ、ロシア社会の改革の必要を感じることとなり、後の蜂起につながったことは皮肉であった。

ウィーン体制をリード

 1814年4月2日、ナポレオンは退位してその支配は終わりを告げた。ナポレオン戦争後のウィーン会議ではアレクサンドル1世は大きな発言力を持ち、ポーランドを事実上支配下に置いてポーランド立憲王国の国王を兼ねた。また1815年神聖同盟を提唱し、保守反動体制の中心勢力となった。一方で、イギリスがフランスの再起を抑える目的で提唱した四国同盟にも加盟した。これらはイギリスが、アレクサンドル1世がフランスと結ぶことを牽制するために締結した同盟であった。

自由主義に対する弾圧

 戦後のアレクサンドル1世は専制権力を強めたので、フランス遠征などで自由主義の洗礼を受けた青年将校の反発を受け、急逝した1825年には青年将校らによる自由主義を目指すデカブリストの乱が起こった。急遽即位した弟のニコライ1世のもとで反乱は鎮圧されたが、ロシアの後進性が次第に明らかになっていく。