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トゥサン=ルベルチュール

ハイチの独立を指導した黒人。1790年から独立運動を指導、1800年に独立宣言した。しかし1803年、ナポレオンによって捕らえられ殺された。その遺志を継いで翌1804年、ハイチが黒人共和国としても最初の独立を達成した。

トゥサン=ルベルチュール
Toussaint-Louverture ?-1803
 最初の黒人共和国ハイチの独立運動を指導した黒人。アフリカから奴隷としてこの地に売られてきた黒人奴隷の子。トゥサンがもとの姓で、ルベルチュールは革命指導者となってからの自称であるという。1790,91年にエスパニョーラ島西部のフランス植民地サン=ドマングで黒人暴動が起きるとそれを指導し、独立運動に転化させ、その活躍はフランス軍を悩ませた。1794年にフランスで黒人奴隷制の廃止が出されるとフランスに協力し、革命介入のためにハイチを攻撃しに来たイギリス軍と戦って撃退した。

ハイチ独立宣言

 フランス革命が進行する中、ジャコバン派独裁政権が成立すると、ハイチ独立を承認させることに成功し、1800年8月に憲法を制定した。その憲法にはすべての奴隷の解放が宣言が含まれていた。自ら大統領に就任して、独立を宣言、さらに翌1801年までにはエスパニョーラ島全島を制圧した。しかし、フランスで独裁権力を握ったナポレオンは、ハイチ独立の弾圧に転じ、1802年に2万3千の軍隊を派遣した。フランス兵は黄熱病に悩まされ、苦しんだ末に、投降すれば独立を承認するという奸計を用いてだまし、ようやくトゥーサンを捕らえた。トゥーサンはフランスに送られ、1803年に獄中で死亡した。しかしハイチではその意志を継いだ黒人指導者が独立闘争を続け、1804年1月1日にハイチ共和国の独立を実現させた。これがラテンアメリカの独立の端緒となったハイチの独立であり、またハイチは、黒人が主体となって独立した最初の共和国でもあった。
 トゥサン=ルヴェルチュールの蜂起によってハイチを放棄せざるを得なくなったナポレオンのフランスは、新大陸全体の植民地政策を転換せざるを得なくなった。西インド諸島の砂糖生産とルイジアナの穀物生産を結びつける構想は意味を持たなくなったため、1803年にナポレオンはルイジアナをアメリカに売却したのだった。

Episode 黒いジャコバン

 トゥーサン=ルヴェルチュールは1743年に奴隷として生まれた黒人。そのフランス人奴隷主は寛大であったので、トゥサンは私財を蓄えることができた。フランス革命が起きると、黒人暴動を組織、山岳地帯を根拠にフランスへの抵抗をはじめた。干渉してきたイギリス軍などを撃退してその勢力を強め、エスパニョーラ島東部にも進出し、1800年8月には独立を宣言し、憲法を制定した。この動きは、フランス本国での黒人奴隷制の廃止などジャコバン派の政治理念に連動するものであったが、テルミドールのクーデタでジャコバン派政権が倒されると風向きが変化し、フランスのブルジョワジーの中に、植民地と奴隷制の維持の声が復活した。それをうけて、1899年にブリュメール18日のクーデタで権力をにぎったナポレオンはハイチの独立運動の弾圧に転じた。このように、トゥーサン=ルベルチュールは、ブルジョワ穏健派を脅かす存在だったので、フランス革命での急進派であったジャコバン派の名前がつけられ、「黒いジャコバン」と呼ばれたのだった。
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