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ハイチ

西インド諸島の一つのエスパニョーラ島の西半分。1492年、コロンブス上陸以来、スペイン領であったが、1697年にフランス領(サンドマング)となり、黒人奴隷労働による砂糖プランテーションがフランス経済を支えた。フランス革命に刺激されてトゥーサン=ルヴェルチュールに指導された黒人奴隷反乱が起き、1804年に最初の黒人共和国ハイチとして独立した。

現在のハイチ YahooMap

 1804年、ラテンアメリカ※(カリブ地域)で最初の独立国、しかも黒人が建国した国家である。その点で世界史上の重要な地域、国家である。
 西インド諸島の中でキューバに次いで二番目に大きいエスパニョーラ島の西側約3分の1占める。エスパニョーラ島はコロンブスが第1回航海から根拠地を設けたところで、以後、スペイン人の入植が活発に行われ、金・銀・真珠などの財宝は略奪され、抵抗した(アラワク人)は虐殺された。また現地人はインディオといわれ、主として砂糖生産の現地労働力として酷使されるうちに絶滅してしまった。エスパニョーラ島を初めとする新世界におけるスペイン人のインディオに対する非人道的な、すさまじい虐殺によって、インディオ人口が急速に減少したことは、ラス=カサス『インディアスの破壊についての簡潔な報告』の中に詳しく述べられている。
・ページ内の見だしリスト

フランス領となる

 スペインの植民地支配が続く中で、インディオに代わる労働力として、アフリカ大陸から黒人奴隷がもたらされ、人口の大半を占めるようになった。島の西部は17世紀からフランス人の進出が始まり、サン=ドマングと言われるようになり、ヨーロッパ大陸で起こったファルツ戦争でフランスとスペインが戦った結果、1697年にライスワイク条約が締結され、スペインから正式にフランスに割譲された。エスパニョーラ島の東半分はスペイン領として残り、“サント=ドミンゴ”となり、現在は独立してドミニカ共和国となっている。フランス領サン=ドマングはフランス人による砂糖プランテーションがアフリカから運ばれた黒人奴隷を労働力として経営され、本国に大きな富をもたらすようになった。しかし、白人支配者と黒人奴隷およびムラート(白人と黒人の混血児)からなる被支配層の対立が激しくなってきた。
※注意 一般にラテンアメリカとは、狭い意味ではスペインから独立した地域を言うが、広い意味ではカリブ地域(西インド諸島)・ブラジルなどのフランス、イギリス、ポルトガルから独立した地域も含む。ここでは広い意味でラテンアメリカと言っている。

(1)ハイチ独立/ハイチ革命

フランス植民地であった現ハイチでトゥサン=ルヴェルチュールらが指導する黒人奴隷反乱が起き、奴隷解放を勝ち取り、1804年に最初の黒人による共和国を独立させた。

黒人奴隷反乱起きる

 フランス革命はフランス領サン=ドマングにも影響を及ぼした。黒人奴隷の中にも自由を求める声が強まり、経緯は明らかでない点はあるが、1791年8月に島の西側のフランス領サン=ドマングの黒人奴隷暴動が起こった。暴動はフランス領全土に広がって反乱の様相を呈し、役所やプランテーションが襲撃され、白人が殺害された。フランス人入植者は島の東側のスペイン人に支援を求めたが反乱を鎮圧することはできなかった。
トゥーサン=ルヴェルチュール 黒人奴隷反乱の情報を受けたフランス本国では、自由と平等を掲げた革命が進行中であったので、奴隷反乱は同情を集め、1794年に国民公会が奴隷制の廃止を宣言した。そのころ現地の反乱軍の指導者として登場した黒人のトゥーサン=ルヴェルチュールは、98年には干渉してきたイギリス軍を破り、1800年8月、独立を宣言、1801年には島内の支配権を実質的に手にした。
 しかし、フランス本国で革命政権に代わって権力を握ったナポレオンは、植民地・奴隷制の維持に転じ、反乱鎮圧のために軍隊を派遣した。トゥーサン=ルヴェルチュールは本国軍を破り、抵抗を続けた。しかし、投降すれば独立を認めるという奸計に騙されてフランス軍に捕らえられ、本国に送られて1803年、獄中で死んだ。<浜忠雄『カリブからの問い』2003 岩波書店 p.127- 第三章>

独立の達成

 ナポレオンは植民地支配を継続し、また黒人奴隷制を復活させたので、現地人と黒人は反発を強め、デサリーヌらが指導する反乱軍は1803年、ついにフランス植民地軍を破り、1804年1月1日を以て、ハイチ共和国として独立を宣言した。アメリカ大陸においてはアメリカ合衆国に次いで2番目、ラテンアメリカ地域では最初の独立国家であった。フランス軍はハイチを撤退したが、これはナポレオン全盛期の敗北であり、その失政のひとつであるが、敗北の要因は熱帯という環境を無視して重装備をまとったフランス軍が行動の自由を失い、疲弊したこと、なによりも黄熱病などの熱帯特有の病気に兵士が罹患したことなど勝算のない戦いだった。ナポレオンおよびその後のフランスはハイチの独立を承認せず、その後もハイチ再征服を狙う動きもあったが、ウィーン体制の国際環境のためそれは不可能であった。フランスがハイチを承認するのは、約20年後の1825年であった。
※ハイチ独立の特質 ハイチの独立は一連のラテンアメリカ諸国の最初の事例であるが、これに続く諸国とは異なる特質がある。それは、ハイチの独立がフランス革命の直接的影響のもと、奴隷制度の廃止という課題と一体であったことであり、黒人解放を実現し、黒人主体の共和国家を樹立したところにある。他のラテンアメリカ諸国はクリオーリョといわれるスペイン系白人入植者が本国政府に反抗して独立を達成し、インディオおよび黒人に対する支配を温存したままの独立であった。
フランスなどへの影響  ナポレオンが派遣したフランス軍の中には、当時ナポレオンに従って独立をめざしていたポーランドの兵士もいたが、その多くはハイチの苛酷な熱帯気候で倒れてしまった。またハイチの反乱は、ナポレオンのアメリカ新大陸と西インド諸島にかけての植民地支配にも影響を与え、1803年にルイジアナをアメリカに売却する。

参考 奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー

 1998年、国際連合のユネスコのよびかけで、毎年8月23日を「奴隷貿易とその廃止を記念する国際デー」として黒人奴隷制・黒人奴隷貿易の歴史を振り返ることが行われている。1791年8月22日から23日にかけてフランスの植民地だった現在のハイチで黒人奴隷反乱が起こり、黒人奴隷の解放が実現したことを記念している。イギリスではそれより先に奴隷制度廃止の動きは始まっているが、黒人奴隷自らの力による解放運動が初めて成功したハイチ革命ハイチの独立の歴史が高く評価されたのであろう。しかし、独立後のハイチの歩みが困難を極めたことは、歴史の残酷なところか。
キューバの台頭 また1791年に始まった奴隷反乱により、ハイチの砂糖プランテーションは大打撃を受け、さらに独立と同時に奴隷制度が廃止されたため、奴隷労働によるプランテーションは姿を消した。砂糖と奴隷はどうなったか。ハイチに代わって黒人奴隷労働による砂糖プランテーションとして急速に台頭したのがスペイン領キューバであった。キューバはハイチよりも広大な未開地をかかえていたので、19世紀に入り、ハイチの砂糖プランテーション衰退に乗じてスペイン人入植者による開発と黒人奴隷受容が急増した。

(2)ハイチのあゆみ

黒人共和国の苦難

 1804年、ハイチは最初の黒人による共和国として独立したが、その歩みは最初から困難を極めた。独立を達成したデサリーヌは、1805年にはナポレオンと同様に「皇帝」を名乗ったが、権力争いに敗れて翌年には早くも暗殺されてしまう。それでもデサリーヌは建国の父として現在のハイチ国民から敬愛されている。
フランスに対する賠償金問題 その後のハイチは、プランテーションは解体されたものの砂糖のモノカルチャーとその輸出のみに依存する体質に変化はなく、国家財政を強く圧迫した。独立戦争で荒廃しただけでなく、黒人とムラートの対立などもあって経済も政情も安定しなかった。しかし、独立後のハイチを最も苦しめたのは、独立の際の黒人奴隷制廃止によって生じた損害を賠償することをフランス政府に強いられ、1825年に独立承認の条件として賠償金支払いに応じたことであった。この賠償金がハイチ経済の自立を阻害する大きな要因となった
独立承認の苛酷など条件  ハイチは独立の承認をナポレオン没落後の復古王政に要求し続けたが交渉は難航した。それはフランスが「賠償金」の支払いと「最恵国待遇」と認めることを要求したからであった。ハイチはフランスの要求を拒否し、かわりにアメリカ合衆国から承認を受けようとしたが、アメリカ(J.Q.アダムズ大統領)は黒人共和国ハイチを承認することが国内の黒人奴隷制維持に悪影響があるとして承認しなかった(アメリカのハイチ承認は1862年)。その頃次々と独立を達成していったラテンアメリカ諸国も、クリオーリョが主体となっていたので、黒人共和国であるハイチを警戒して承認を拒み、ハイチは国際的に孤立した。やむなく、ハイチ政府はフランスの条件を受け入れ、その結果、1825年4月、ようやく承認に漕ぎ着けた。シャルル10世のフランス政府との間で決められた条件とは、
  • ハイチのすべての港を開港し、関税は各国とも同一とするが、フランスの船舶・商品に限っては関税を半額に減ずること(最恵国待遇と認める)。
  • 独立によって財産を失った旧プランターへの「賠償金」として、1億5千万フランを5年年賦でを支払うこと(初回は1825年12月31日までとする)。
という厳しいものであった。これはハイチの歳入の5年分に当たるとてつもない金額であったため5年年賦は履行できず、その後も何度か減額交渉を行い、結局、58年後の1883年にようやく支払いを完了した。<浜忠雄『ハイチの栄光と苦難』2007 刀水書房 p.90-92>
ドミニカ共和国 なお、イスパニョーラ島東部はスペイン領であったが、1819年に独立を宣言しドミニカ共和国となった。ところが1822年にハイチが武力侵攻し、首都サント=ドミンゴを占領。その占領は1844年まで続いた。その後も安定を欠き、一時スペイン領に戻ったこともあった。その後もハイチとの対立は尾を引いている。

アメリカによる軍政

 ハイチは独立後もフランスへの賠償を請求され、それが財政を圧迫し困窮が続いた。19世紀末の帝国主義時代になると、ドイツもハイチ進出を企てるようになり、それに危機感を抱いたアメリカ合衆国はカリブ海政策の一環として、ウィルソン大統領は1915年、債務不履行を口実に海兵隊を上陸させて軍政を布いた。アメリカの軍政のもとで憲法の制定や軍隊の育成などが行われたが、反米感情も根付く結果となった。世界恐慌後のアメリカ外交の転換を図ったフランクリン=ローズヴェルト大統領は善隣外交に転換し、1934年、ハイチから軍を撤退させアメリカによる軍政は終わった。

現在のハイチ共和国


ハイチの国旗
 国名のハイチ Haiti は「山の多いところ」を意味する現地の言葉。独立の時にフランス名のサン=ドマング(Saint-Domingue)から改めた。なお、ハイチは日本だけの呼称で、フランス語ではアイティ、英語ではヘイティと発音する。
 現在のハイチ共和国は国土は約2万7千平方キロ、人口約1112万(2018年)、首都はポルトープランス(王子の港、の意味)。民族は9割以上が黒人、宗教はカトリック、言語は植民地時代以来のフランス語とクレオール語(フランス語と現地語の混合した言語)が公用語である。

第二次世界大戦後のハイチ

 アメリカ軍政終了後、民政下での大統領選出と、力を付けた軍がクーデターで実権を握り軍政を布くという混乱がしばらく続いた。1957年に軍政から民政に移行し、デュバリエが大統領に選出されたが、まもなく独裁化し、86年まで親子による独裁政権が続いた。ようやく、1987年に民主主義的な憲法が制定され、1990年の大統領選挙で「解放の神学」(ラテンアメリカのカトリック教会で興った貧困と抑圧からの解放をめざす神学)の司祭だったアリスティドが選出された。アリスティドは、はじめて民主的な選挙で選ばれた大統領であったが、翌91年に軍事クーデターが起きアメリカに亡命、国連などに支援を要請した。その結果、国連の多国籍軍の展開に至り、軍事政権も妥協して1994年にアリスティドが帰国して大統領に復帰した。
2004年のハイチ内乱 軍政は終わり、アリスティドが復帰したが、その政権は次第に腐敗し、その後も不正な選挙で政権を維持しようとしたため政情不安が続いた。そのため経済成長は遅れ、失業者が増大、ハイチは世界で最も貧困な国家といわれるようになった。アリスティド大統領は反対派やマスコミを暴力で黙らせようとギャングを動員するなど、強権的になって行き、社会不安が増大した。
 ハイチの独立200年にあたる2004年に対立が激化し、政府軍と反政府武装勢力間の衝突が始まった。動乱のなかで同年2月、アリスティド大統領はハイチを離れ(当初は自ら出国したと報道されたが、後にアメリカとフランスが強制的に出国させたことが判明した)。国連は臨時の多国籍軍をハイチに派遣して、国内の安定化を図った。

Episode 内戦に遭遇した日本人医師

 2004年2月のハイチの内戦に遭遇した日本人医師がいた。エイスなどの感染症の治療のために長崎大学から派遣されていた山本太郎医師で、2003年7月にポルトー・プランスの病院に赴任し、治療と研究に当たっていた。熱帯の貧しい国で苦闘しながら活動していたが、内戦が勃発、病院も活動できなくなり、ようやくギリギリで脱出することができた。その時の体験を『ハイチ いのちとの戦い――日本人医師の300日』で書いており、当時のハイチの社会、内戦のありさまなどを生々しく伝えている。なお著者は帰国後も国際的な感染症との戦いを続け、人間の文明と感染症のかかわりを『感染症と文明』(2011,岩波新書)としてその知見をまとめ、新型コロナ・ウィルス対策の専門家としても活躍している。<山本太郎『ハイチ いのちとの戦い――日本人医師の300日』2008 昭和堂>
2010年の大地震  政治と経済の困難が続く中で、2010年1月12日、マグニチュード7クラスの大地震が起き、死者30万人という大惨事となり、国際的な救援活動も行われた。しかし、首都ポルトープランスの政府機関もほとんど倒壊したため、政府が十分機能せず、コレラなど伝染病が蔓延し、経済不安、暴動の危機が続いた。現在も復興途上にある。

NewS 日本でにわかに関心が高まる

 2018年8月、日本でにわかにハイチが話題になった。テニスの全米オープンで優勝した大坂なおみ選手のお父さんがハイチ人だったからだ。なおみさんはハイチ人のお父さんと日本人女性の間に生まれたのだった。お父さんはハイチ生まれだがアメリカに移住、アメリカ国籍となっており、現在はハイチに住んでいるわけではない。なおみさんもハイチには行ったことはなさそうだが、ハイチでも優勝で大いに盛り上がっているという。2019年1月の全豪オープンにも優勝し、すっかり世界的テニスプレーヤーとなったなおみさんの活躍で、日本にとってもハイチが急に近い存在になったことは確かだ。お父さんがなぜハイチを出てアメリカに移住したのか、あたりはまだ聞こえてこないが。
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書籍案内

浜忠雄
『カリブからの問い
ハイチ革命と近代世界』
世界歴史選書
2003 岩波書店

浜忠雄
『ハイチの栄光と苦難
世界初の黒人共和国の行方』
世界史の鏡
2007 刀水書房

山本太郎
『ハイチ いのちとの戦い――日本人医師の300日』
2008 昭和堂