印刷 | 通常画面に戻る |

奴隷制度廃止(イギリス)

イギリスでは1833年、ウィルバーフォースらの運動により、自由主義的改革の一つとして実現した。欧米諸国では19世紀中ごろまでに奴隷制度廃止が明確にされた。

 産業革命によって都市化が進み、19世紀前半には労働者の貧困や生活状態の悪化などが深刻になる中で、社会問題への取り組みも始まった。労働者の地位の向上などとともに、最も悲惨な状態に置かれていた黒人奴隷の問題が取り上げられるようになった。
 黒人奴隷制度は独立後のアメリカ合衆国で続いており、特に南部の綿花プランテーションでの苛酷な黒人奴隷制度が問題になり始めていたが、イギリスにおいても国内に黒人奴隷が存在し、さらにイギリス植民地の西インド諸島ジャマイカなどでの砂糖プランテーションでは本国向けの砂糖が黒人奴隷労働で生産されていた。
 イギリスの黒人奴隷貿易は、重商主義政策の柱の一つで、イギリスとアフリカ西岸、北米大陸・カリブ海域を結ぶ三角貿易の中で大きな利益をもたらしていた。西インドの農園主は富をたくわえ、本国の議会に議席をもつものもいた。しかし、アフリカ西海岸から西インド諸島に黒人奴隷を運ぶ中間航路の悲惨な状況は、イギリス本国でも広く知られるようになり、人道上の問題になっていた。

イギリスの奴隷貿易禁止

 また、産業資本家層が成長し自由貿易主義が台頭すると、奴隷貿易や奴隷を労働力とする経営に対する批判的な声が強くなった。そのようななかでまず奴隷貿易、奴隷制度に反対の声を上げたのは、国教会の福音主義者であり、下院議員であったウィルバーフォースらであった。彼らは人道的な立場から熱心に奴隷制反対を主張し、まず1807年には奴隷貿易禁止法を制定させることに成功し、それを実質的なものにするためには奴隷制度そのものの廃止が必要と考えられるようになった。ウィルバーフォースらはついで1823年に奴隷制度反対協会を結成し、本格的に奴隷制度の廃止に取り組み始めた。
 イギリス国内では奴隷制度は否定され、国内での黒人奴隷は存在しなくなっていたのに奴隷制度が問題になったのなぜか。それはイギリス領植民地西インド諸島のジャマイカなどでは黒人奴隷を使役する砂糖プランテーションが存在しており、その農場主(プランター)の中には有産階級としてロンドンに住み、議員となっている者もいたからだった。

奴隷廃止運動の新しい動き

 奴隷貿易禁止法の成立以降も、国教会福音主義派や非国教会のクウェーカー教徒などを中心とした奴隷制廃止論者(アボリショニスト)の運動は続いていたが、すぐには盛り上がらなかった。それは、植民地の重要性が増すなか、奴隷貿易が禁止されたため、奴隷の待遇をよくすることによって段階的に解放されるであろうという見方が強く、政治課題とはなりにくい背景があった。
 それでもウィルバーフォースらは粘り強く運動を継続、1823年には新たにロンドンで反奴隷制協会を設立した。協会には新しい世代の人びとも加わり、しだいに活発になっていった。同年8月イギリス領ガイアナの砂糖プランテーションで奴隷反乱が起こり、未だに植民地では非人道的な奴隷労働が行われいることが伝えられると、世論は再び活発となり、次第にウィルバーフォースのような漸進的解放ではなく、即時解放すべきであるという声が、とくに女性の中から起こった。このときも、「イギリスの住民の10分の1が砂糖消費をやめたならば、80万人の抑圧された人びとが自由になれるではないか」という呼びかけが行われた。
 さら1831年末にジャマイカで黒人奴隷の大反乱が起き、6万もの奴隷が立ち上がり、本国から軍隊を派遣して鎮圧したものの、540人もの死者を出すという事件が起き、奴隷解放への同上が高まったことが影響した。

奴隷制度廃止の実現

 1832年の第1回選挙法改正によって、議員構成の中で西インド諸島で大農園を経営しているような有産者層が後退し、自由貿易を望む産業資本家のウェイトが大きくなったことが功を奏し、翌1833年グレイ内閣(ホイッグ党)の時に奴隷制度廃止法が成立した。これは一連の自由主義的改革の一つであった。
 奴隷制度廃止の内容は、本土以外にもインドやアフリカのイギリス領を含むイギリス帝国全体における奴隷制度を廃止するもので、奴隷所有者に賠償金200万ポンドを払う有償方式で実施され、38年までに完了した。これによってイギリス帝国内の西インド諸島の砂糖プランテーションの経済的比重は小さいものとなり、ブラジルなどからの砂糖が自由に輸入されるようになった。
 アフリカのケープ植民地では黒人奴隷を使役して大農園を経営していたブール人(ボーア人)といわれるオランダ系白人入植者が、奴隷制廃止などに反発し、イギリスの支配から脱しようと、グレート=トレックといわれる大移動を開始するきっかけとなった。
 なお、奴隷制度廃止が決定された1833年は、一般工場法も制定されており、いずれも自由主義改革の重要な内容である。

イギリスの奴隷制度廃止の意味

 錯覚しないようにしよう。1807年の「奴隷貿易禁止」や1833年の「奴隷制廃止」で、世界中の奴隷貿易と奴隷制がなくなったわけではない。これはあくまでイギリス、およびイギリス植民地でのことである。年代を頭に入れておけばわかるとおり、アメリカでの黒人奴隷制度の廃止は30年後の1863年、奴隷解放宣言によってであったし、ハイチを除いたラテンアメリカでも1880年代までかかっている。つまり、イギリスとイギリス領で奴隷による生産はなくなったが、イギリスの綿織物工業原料の綿花はアメリカ南部の綿花プランテーションでの黒人奴隷労働で生産されていたし、多くのイギリス人が消費している砂糖は黒人奴隷によるプランテーションが続いているスペイン領のキューバやポルトガル領ブラジルから輸入されていた。これらの現実には目をつぶって、イギリスだけで奴隷制を止めたとしてもそれは欺瞞ではないのか?という批判は当時からもあって、事実、奴隷が生産した輸入品は買わないようにしようと運動もあった。しかし、18世紀の三角貿易で貯えられたイギリスの資本主義は、すでに本格的な産業革命を終えた19世紀前半には、原料の供給地と市場を世界中に拡げており、自由貿易による利潤拡大の前には他国の奴隷制度の存在は無視されたのだった。このことについて、次のような辛辣な指摘がある。
(引用)アフリカからの黒人の残忍非道なる強制移住は、1833年以降にもなお少なく見積もって25年間はつづいた。移住先はブラジルとキューバの砂糖プランテーションだった。ブラジル及びキューバの経済は奴隷貿易に依存していたのである。筋を通すという点からだけいっても、イギリスの廃止論者は、右の貿易に反対すべきだった。しかし、そうすれば、ブラジルとキューバの開発は遅滞し、その結果はイギリスの貿易にもはね返ってくるだろう。1833年以降は、奴隷制にたいする嫌悪感も安価な砂糖という声に圧倒されてしまった。かつては鞭をふりまわす英領西インド諸島の奴隷監督の姿にかきたてられたあの厭悪(えんお)の情も消えてしまった。鞭、短剣、あいくち、ピストルで武装し、ブラッドハウンド犬をひきつれたキューバの奴隷監督にたいして、廃止論者はこれっぱかしの口もはさもうとはしなかった。イギリス人道主義の殿堂・エクセター会館は、マンチェスター学派にイギリス自由貿易の先兵の役を譲った。

各国の奴隷制度廃止

フランスの奴隷制度廃止

 フランスでもその植民地である西インド諸島の砂糖プランテーションでは広く黒人奴隷が使役されていた。フランス革命で自由・平等・博愛の精神が標榜されたことから、1791年にその植民地である現在のハイチに及びトゥーサン=ルヴェルチュールらが指導する黒人奴隷反乱が起こった。それを受け、国民公会は1794年に奴隷制度廃止を宣言した。しかし、権力をにぎったナポレオンは1802年に奴隷制度を復活させ、奴隷労働を合法とした。再び奴隷制度が用いられるようになった事に対して奴隷反乱が再燃、ナポレオンは弾圧を強化してトゥーサン=ルヴェルチュールを逮捕した。トゥーサンはフランスに連行されて獄死した。しかし、フランス軍は配置に厳しい気候に順応できずに撤退し、1804年ハイチが独立を達成した。
 フランスではその後、1820年に奴隷貿易を禁止し、ようやく1848年に二月革命で王政が倒され、共和政政府が成立したことで最終的に奴隷制度は廃止された。この第二共和政には当初、労働者代表も加わり、失業や貧困などの社会問題に積極的に取り組んだので、その一環として3月にヴィクトル=シュルシェールの起案した奴隷制廃止の政令が制定された。このとき奴隷主には1人60フランを賠償した。5月にはフランス領の西インド諸島マルティニーク、グアドループで実施に移された。

ラテンアメリカの奴隷制度廃止

 イギリスは自国及び植民地での奴隷貿易を禁止、さらに奴隷制度そのものを廃止したことで貿易収益に差が出ることを恐れ、他の奴隷貿易継続国の奴隷貿易を妨害すべく、盛んに海軍が活動した。フランス領西インド諸島では非合法の奴隷貿易が行われていたがイギリス海軍は次々とフランスの奴隷船を拿捕したので、実質的に消滅した。フランス領ではハイチが已に独立、奴隷制も廃止されていたが、グアドループとマルティニークで奴隷制砂糖プランテーションが続いていた。1848年の二月革命で成立した臨時政府は4月27日に奴隷制廃止の法令を承認した。その知らせが届くとマルティニークで奴隷反乱が起こり、それが西インドのオランダ、デンマーク植民地に波及し、いずれも奴隷制度廃止が実現した。これによってカリブ海域で奴隷制が残っているのはスペイン領のキューバとプエルトリコだけとなった(プエルトリコは1873年に廃止)。
 南アメリカのスペイン領植民地は1810~20年代に独立を達成したが、奴隷制は残されており、1851年のコロンビアに続き、その後2.3年のあいだにアルゼンチン、ベネズエラ、ペルー、エクアドル、ボリビアで奴隷制廃止が実現した。このように南北アメリカ大陸では1860年代中ごろになっても奴隷制を維持しているのは、アメリカ合衆国・キューバ・ブラジルだけとなった。キューバは砂糖、ブラジルはコーヒーという商品作物生産のプランテーションに依存したからである。

アメリカの奴隷制度廃止

 アメリカ合衆国では、独立宣言の草稿には奴隷制度廃止が入っていたが実現せず、黒人奴隷制問題は大きな課題となった。1787年の北西部条令によって北部諸州では奴隷制が廃止され、1808年には合衆国全体で奴隷貿易は禁止されたが、南部の奴隷制度そのものは廃止されず残っていた。
 なぜアメリカ合衆国南部では奴隷制度が残ったか。それは、「綿花」という新たな作物がプランテーションで採用され、急速に需要が高まったからであった。そこで生産された綿糸はイギリスに送られ、イギリス産業革命の原料となったのであり、イギリス産業革命がアメリカ南部の奴隷制プランテーションを必要としたという歴史的背景があった。アメリカ人ホイットニーが綿繰り機を発明(1793年)したこともあって、綿花生産能力が高まり、同時に綿花需要が高まって綿花プランテーションの奴隷労働は拡大し、アフリカからの奴隷密貿易も続いていた。
 1833年にギャリソンらがアメリカ反奴隷制協会を設立し、奴隷解放運動が始まり、国論を二分した争いはついに南北戦争の勃発となり、その最中の1863年にリンカン大統領が奴隷解放宣言を発表し、大きな転換が図られた。アメリカの奴隷制廃止は南北戦争終結後、1865年のアメリカ合衆国憲法修正13条で正式に廃止された。しかし制度としての奴隷制は廃止になったとは言え、様々な面での黒人差別が続き、現在にいたるまで深刻な問題として続いている。

最後の奴隷制度廃止 ブラジル

 1820年代に相次いでスペインからのラテンアメリカの独立が相次いだ。1822年にポルトガル領から独立したブラジル帝国では、1850年には奴隷貿易は禁止されたが、奴隷制度は廃止されなかった。それは、ブラジルでは独立前から砂糖プランテーションは黒人奴隷労働によって支えられており、このころからコーヒーに切り替えられつつあったが、そこでも奴隷労働は不可欠とされたからであった。しかし、1865年にアメリカ合衆国で奴隷制度が廃止されると、世界でも数少ない奴隷制を維持する国家となった。国内でも奴隷制廃止(奴隷解放)論が強まり、1871年には奴隷を母親とする新生児の解放令が出され、1885年には65歳以上の奴隷が条件付きで解放された。最後に1888年に即時無条件での奴隷解放令が公布された。  その背景には、1870年に帝国がパラグアイとの戦争に敗れて近代化の遅れが明確になり、共和主義が力を付けていたことがあげられる。帝国が奴隷制廃止に踏み切ったことは保守派の大土地所有層も離反させ、翌1889年にブラジルは共和政革命が起こって帝政は終わった。
印 刷
印刷画面へ