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西インド諸島/カリブ海域

大西洋・カリブ海・メキシコ湾にかこまれた多くの島々。15世紀末、コロンブスは到達した島々をインドの一部と考えインディアスと呼んだ。後にインドと区別するため西インド諸島と呼ぶようになった。カリブ海周辺の島々と大陸海岸部を含めてカリブ海域ともいう。最大の島はキューバ島で、他にエスパニョーラ島、ジャマイカ島、プエルトリコ島などからなる。多くがスペイン領、一部がイギリス領、フランス領であったが、現在は多くが独立国となっている。19世紀からはアメリカ合衆国との関係が強まった。

コロンブスの到達

西インド諸島

西インド諸島 Googleによる

 15世紀のヨーロッパでは「インド」(スペイン語でインディアス)という概念は、現在のインドのことではなく、それより東のすべての地域を含んでいた。コロンブスはその広い意味のインドに西回りで到達したと信じ、その地を西インドと名づけた。現在では西インドはコロンブスが到達し、探検した島々を含む、カリブ海に浮かぶ島々の総称となっている。主な島は、西からキューバ島(西インド諸島の中で最大)、ジャマイカ島、エスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)、プエルトリコ島が並び、その東に小アンティル諸島のマルティニク島やバルバドス島、グレナダ島などがある。またキューバ島の北には、コロンブスの到達したサン=サルバドル島(現ワトリング島)を含むバハマ諸島がある。 → ラテンアメリカ

Episode コロンブス、ジパングに到達?

 コロンブスの航海記を読むと、彼は自分の到達した地がインド(現在のインドではなく、その東に広がる大陸全体で、シナなども含んでいた)の一部であると信じ、さらに探検したクーバ島(キューバ)がマルコ=ポーロの伝えるジパング(つまり日本)であると考えていたことが判る。コロンブスは国王への報告でこう言っている。
(引用)それから、私の連れているインディオ達がコルバ(クーバ島のこと)と呼んでいる最も大きな島へ向かおうと思いますが、この島は、彼らの手真似から察するに、チパングに違いないと考えます。彼らの話では、この島には船もあれば、非常に立派な船乗りも大勢居るということであります。・・・勿論、私はさらに進んで大陸へと赴き、キンサイ(マルコ=ポーロの伝える杭州のこと)の都へ行って、両陛下(スペイン王フェルナンドとイザベル)の御親書を大汗王に渡し、その返書を求め、これを持ち帰る決心をかためているのであります。<ラス=カサス編/林屋永吉訳『コロンブス航海誌』 岩波文庫 p.62>

コロンブス以後

 コロンブスの来航以来、この地にはスペイン人が次々と渡来した。彼らは黄金を求めてさらに新大陸に進出、インカやアステカの富を収奪した。西インド諸島は新大陸と本国スペインを結ぶ中継地となり、また黄金を狙う海賊船が横行する地帯となった。やがてインディオは過酷な労働やヨーロッパから持ち込まれた病気で急減していった。その惨状は、スペイン人宣教師ラス=カサスインディアスの破壊についての簡潔な報告に詳しく述べられている。

砂糖ブランテーション

 サトウキビはコロンブスの第2回航海の時にカナリア諸島から苗木がエスパニョーラ島に持ち込まれ、栽培が始まった。スペイン人たちは探し求めた金鉱が見つからなかったので、次第に砂糖の栽培を主力にするようになり、ジャマイカ、キューバにも広がった。砂糖プランテーションの原料のサトウキビを栽培する大農園で、始めインディオの奴隷労働、白人年季奉公人などが労働力としていたが、ポルトガル商人によって運ばれてくる黒人奴隷がやがて主力になっていった。

海賊の横行と西インド諸島の分割

 1520年代からカリブ海域にはスペインの衰退に乗じて海賊が横行するようになった。海賊はスペイン商船を襲撃し、植民都市を略奪した。1530年代にはフランス、60年代にイギリス(ホーキンズやドレイクが私掠船の船長として活躍)、17世紀に入ってオランダのものが活発だった。他にもデンマークやスウェーデンも海賊行為をしながらカリブ海域に進出した。
 海賊はやがて国家的な承認を受けてそれぞれ拠点を支配するようになり、スペイン領として残ったキューバ島とイスパニョーラ島東部(現ドミニカ共和国)を除き、イギリスはアンティグア、バルバードス、トリニダード=トバゴ、ジャマイカなど、フランスはグァダループ、マルティニク、イスパニョーラ島西部(サンドマング。後のハイチ)その他を、オランダはキュラソー、セント=クロアなどをそれぞれ領有し、西インド諸島は分割されていった。
 イギリスはクロムウェルの「西方計画」によって1655年にジャマイカを征服し、西インド諸島支配の足場とした。またオランダは1621年に、フランスは1664年にそれぞれ西インド会社を設立して、西インド諸島を含むアメリカ新大陸への植民地支配に乗り出していった。

参考 「ヨーロッパの闘技場」としての西インド諸島

(引用)金と砂糖と奴隷――このカリブ海地方の三種の神器は、膨大な富と権力をもたらす打ち出の小槌であった。してみれば、スペイン帝国と激しい権力闘争を展開していた他の列強がその分け前を要求したのも、けだし当然であった。カリブ海の諸島は、はじめて近代社会との接触をもった瞬間から、ヨーロッパの権力政治の手足として機能したのである。いいかえればカリブ海地方は、ヨーロッパの闘技場となったのである。そこには熱い戦争であれ、冷たい戦争であれ、ヨーロッパにおけるすべての対立がそのまま反映されたのであった。<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 2014 p.91>
 これは西インド諸島の一つトリニダード=トバゴ出身の歴史家で、同国の首相をつとめたこともあるエリック=ウィリアムズ(1911~1981)が述べている言葉である。スペインに始まり、そのスペインの弱点を突くように、イギリス、フランス、オランダ、はてはデンマーク、プロイセンなどのヨーロッパ諸国が殺到して植民地分割が行われたカリブ海域=西インド諸島の島々の15世紀末から19世紀までの歴史をみごとに言い表している。

砂糖プランテーション

 スペインはエスパニョーラ島を放棄してからはキューバで、イギリスはジャマイカ、バルバドス、グレナダなどで、フランスはサンドマング(旧エスパニョーラ島)なで入植者がサトウキビを栽培してヨーロッパに輸出するために砂糖を生産する砂糖プランテーションを経営するようになった。
 カリブ海地方における砂糖戦争は、世界砂糖市場をめぐる争覇戦を誘発した。各国はなるべく安価に砂糖を生産することを競った。その結果、西インド諸島のプランテーションは砂糖のみに特化されて行き、他の穀物などは輸入に依存するモノカルチャー化していった。また、砂糖の価格が下がりすぎるのを防ぐため、生産を制限するようになり、他の地域が砂糖生産に参入することに反対した。
 またプランターは実際には現地で生活せず、本国で優雅な生活を送る「不在プランター」であったので、現地人の待遇改善や子弟に対する教育には関心を持たず、環境は劣悪のままに置かれた。<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで』1970 岩波現代新書 2014 p.163-207「王様の名は砂糖」>
 西インド諸島が独立を果たした現在も、小さな国が小さな島に分かれたままでいる背景には、植民地時代の砂糖プランテーションの構造が島同士が価格競争を強いられていたため協力共同する素地がなく、また「教育は不要」という観念が根強かったためだったことをE.ウィリアムズの論考が教えてくれている。
西インド諸島のイギリス領 七年戦争およびフレンチ=インディアン戦争の講和条約である1763年のパリ条約では、イギリスはグアドループ、マルティニク、キューバ、セント・リュシアを返還し、ドミニカ島、セント・ヴィンセント、グレナダ、トバゴの総計700平方マイルにのぼる土地を併合した。イギリスが返還したのは砂糖を作っている島で、併合したのは大部分が砂糖の作れない山岳地だけの島だった。イギリスはこのとき大陸ではカナダ、フロリダを獲得している。この選択は、すでに砂糖を生産している英領西インドのプランターが、砂糖生産地の併合に反対したためである。<E.ウィリアムズ『前掲書』p.198>
 なぜイギリスがこのような細かな島々の交換をしたのか、これで理由が明確になった。

黒人奴隷によるプランテーション

 西インド諸島の島々では、タバコ砂糖コーヒーというヨーロッパ向けの商品作物を黒人奴隷を使役して生産するプランテーションが増加して行き、労働力としてのアフリカから多数の黒人奴隷が移入され、生産物は白人の商人に収奪されたため、植民地に富が蓄積されることはなかった。西インド諸島の人びとは三角貿易に組み込まれ、19世紀まで収奪が続き、貧困が定着する社会となった。その社会は、少数の入植者である白人と現地生まれの白人(クリオーリョ)、白人とインディオの混血(メスティーソ)、白人と黒人の混血(ムラート)、さらにインディオと黒人という複雑な人種構成を持つこととなるが、圧倒的多数は奴隷の子孫である黒人たちである。

ハイチの独立

 アメリカ合衆国の独立、フランス革命は、大陸のラテンアメリカ地域だけでなく、西インド諸島にも大きな影響を及ぼした。まずフランス革命中ハイチで黒人反乱が起きると、ジャマイカでも黒人暴動が起き、白人支配者の苛酷な弾圧が行われた。しかし、ハイチは1804年にこの地域で最も早く独立を達成し、最初の黒人共和国となった。しかしその後、エスパニョーラ島の東半分が1844年にドミニカ共和国としてスペインから独立したに留まり、その他の西インド諸島の独立は遅れ、ようやく1902年にキューバが独立、その他のイギリス領西インド諸島は1960~80年代と大幅に遅れた。

カリブ海域の奴隷制廃止

 イギリス国内で黒人奴隷貿易や奴隷制度に対する人道主義の立場からの批判が強まり、1807年には奴隷貿易が禁止され、さらに1833年には奴隷制度廃止が実現し、イギリス領西インド諸島での奴隷制度も廃止された。カリブ海域の奴隷制は19世紀のうちに次々と廃止されたが、まとめると次のような経過となる。<エリック=ウィリアムズ/川北稔訳『コロンブスからカストロまで(Ⅱ)』1970 岩波現代新書 2014 p.1>
 1794年 フランス革命政府、植民地奴隷制度を廃止。
 1801年 ハイチの独立を宣言。奴隷制廃止。
 1802年 ナポレオン、フランスの奴隷制を復活。
 1803年 デンマーク、奴隷貿易廃止。
 1807年 イギリス、奴隷貿易禁止
 1817年 フランス、奴隷貿易を廃止。
 1818年 オランダ、奴隷貿易廃止を宣言。
 1824年 スウェーデン、奴隷貿易廃止を決断。
 1833年 イギリス、西インド諸島も含め、奴隷制度廃止
 1846年 スウェーデン、奴隷制度を廃止。
 1848年 フランス第三共和政政府、奴隷制度を廃止。
 1863年 オランダ、奴隷制度を廃止。
 1873年 スペイン領プエルトリコで奴隷制度廃止。
 1880年 スペイン領キューバで奴隷制度廃止。
 なお、アメリカ大陸では、アメリカ合衆国で1863年にリンカンの奴隷解放宣言が出され、1865年に憲法修正第13条で確定した。ラテンアメリカ諸国は独立とともに奴隷解放を宣言したところもあったが、多くはすぐには実現できず、19世紀後半にずれ込んだ。ブラジルが最も遅れ、1888年にようやく奴隷制度廃止を実現した。
 ということは、イギリスで奴隷貿易が禁止された1807年、イギリス領で奴隷制度が廃止になった1833年以降にも、キューバ(まだ独立していない)とブラジル(独立はしていた)では奴隷制砂糖プランテーションが行われ、アフリカからの黒人奴隷の供給も、密貿易という形で盛んに行われていた。またアメリカ合衆国南部の綿花プランテーションでも1865年までは奴隷制度が続けられていたわけである。
西インド諸島での奴隷反乱と独立 ハイチ以外の西インド地域はその後も長く植民地支配を受け、アメリカ南北戦争の時にも1865年に西インド全域で黒人の武装蜂起が起こったが、本国スペインの派遣した軍隊によって鎮圧された。スペイン領キューバ島では19世紀末にようやく独立の気運が高まったが、アメリカ合衆国の介入を受けることとなり、アメリカ=スペイン戦争後は、アメリカがカリブ海政策と称して支配を強めることとなる。ジャマイカ島は1953年にようやくイギリスが自治を認め、1958年には他の西インドのイギリス自治領とともに「西インド連邦」を結成して独立したが、諸島・諸地域間の歩調が合わずに62年に解散し、同年8月、ジャマイカとトリニダード=トバゴが分離独立した。
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書籍案内

ラス=カサス/林屋永吉訳
『コロンブス航海誌』
 岩波文庫

エリック=ウィリアムズ
/川北稔訳
『コロンブスからカストロまで(Ⅰ)』カリブ海域史1942-1969 初刊 1970
岩波現代文庫 2014

エリック=ウィリアムズ
/川北稔訳
『コロンブスからカストロまで(Ⅱ)』カリブ海域史1942-1969 初刊 1970
岩波現代文庫 2014

国本伊代
『概説ラテンアメリカ史』
2001 新評論

浜忠雄
『カリブからの問い
ハイチ革命と近代世界』
世界歴史選書
2003 岩波書店