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コロンブス

1492年、大西洋を横断した航海者。イタリアのジェノヴァの人だがスペイン王の事業として実施。数回にわたり新大陸の東岸を探検したが、彼は生涯、その地をインドの一部と信じた。

コロンブス
Christopher Columbus 1446-1506
増田義郎『コロンブス』より
大航海時代を代表する航海者の一人で、イタリアのジェノヴァ生まれ、イタリアではクリストフォロ=コロンボといい、英語でクリストファー=コロンブスと表記する。なお、スペインではクリストバル=コロンといわれる。
 マルコ=ポーロなどの書物からインド、中国、ジパングなどに興味を持ち、トスカネリの世界球体説を知って西回りでアジアに到達することを考えた。はじめ(1483年)、ポルトガルジョアン2世に提言したが、ポルトガルは東回りに力を注いでいたのでその提案は拒否された。ついでスペインに渡り、1486年にイザベル女王に面会し、自説を訴えた。イザベルはコロンブスの提案に興味を示したが、当時イスラーム勢力の拠点グラナダ攻撃に費用がかかり、財政的に余裕がなかったので取り上げられなかった。そうするうちに1492年グラナダを陥落させ、レコンキスタを完了させた直後にイザベルはコロンブスと再び会って、一旦は断ったが、翻意して帰る途中のコロンブスを呼び戻し、そのプランを実施することに決めた。4月17日に契約が成立した。

コロンブスの第1回航海

 1492年8月3日、ポルトガルのパロス港の近くサルテス川の河口から、三隻の船で出航した。主船はサンタ・マリア号という大型にしたカラック船(またはナオ船)という形で100トン以下と推定され、あとの二隻はニーニャ号とピンタ号というカラベル船(15世紀に生まれた三本マストの帆船)で約60トン程度。困難な航海の末、1492年10月12日、未知の島に上陸した。その時の航海は、同行したラス=カサス神父の記録の抜粋が伝えられており、上陸の様子は次のようであった。

資料 コロンブスの航海

(引用)上陸してみると青々とした樹木が見え、水もふんだんで、いろんな種類の果物が実っていた。提督(コロンブス)は、二人の船長をはじめ、上陸した者達、および船隊の記録官である、ロドリゴ・デ・エスコベート、ならびにロドリゴ・サンチェス・デ・セゴビアを呼んで、彼が、いかにしてこの島をその主君である国王ならびに女王のために、並居る者の面前で占有せんとし、また事実、この地において作成された証書に委細記されてるように、必要な宣言を行ってこれを占有したかを立証し、証言するようにとのべた。そこへ早速、この島の者達が大勢集まってきた。‥‥彼らは力ずくでよりも、愛情によって解放され、キリスト教徒に帰依する者達だと見て取りましたので、幾人かに、赤いボンネット帽と、首飾りになるガラス玉や、その他たいして値打ちのないものをいくつか与えました。すると彼らは非常に喜び、全くすばらしいほど我々になついてしまったのであります。‥‥彼らは武器を持っていませんし、それがどんな物かも知りません。私が彼らに剣を見せましたところ、刃の方を手に持って、知らないがために手を切ってしまったのであります。鉄器は全然持っておらず、その投げ槍は、鉄の部分がない棒のようなもので、尖きに魚の歯などをつけております、‥‥彼らは利巧なよい使用人になるに違いありません。‥‥私は、彼らは簡単にキリスト教徒になると思います。‥‥私は、神の思し召しにかなうなら、この地を出発するときには、言葉を覚えさせるために、六人の者を陛下の下へ連れていこうと考えております。<ラス=カサス『コロンブス航海誌』林屋永吉訳 岩波文庫 p.36~38>
サン=サルバドル島への到達 1492年10月12日に到着した島をサン=サルバドル島と名付けたコロンブスはこの地をインディアスの東のはずれにある半島状の土地であると確信し、現地人をインディオと呼んだ。その地の王との面会を求めたが実現できず、付近のキューバ島エスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ)などを探検、残留の乗組員をおいていったん帰国した。これらの島々は、現在でも西インド諸島といわれている。

第2回航海

 スペイン王イザベルはコロンブスを提督に任命し、新領土の植民を許可したので、翌1493年9月25日、1500名の入植者を乗せて再びエスパニョーラ島に向かった。到着してみると、残留部隊の39名は全滅していた。またエスパニョーラ島の奥地まで進んだが、黄金も見つからず、開拓もままならなかった。コロンブスは1494年、カリブ海域を探検、キューバが島であることを確認し、ジャマイカ島を発見した。1496年に帰国した。第2回以降の航海については<コロンブス『全航海の報告』林屋永吉訳 2011 岩波文庫>に詳しく載せられている。

第3回航海 コロンブス逮捕される

 1498年5月、サンルーカル港を出発、8月にサンドミンゴに入港したが、留守中、コロンブスの代理で残っていた弟バルトロメウに対する入植者の中に思ったほどの富が無く、食糧も不足して不満が高まっていた。弟にはそれを収める力が無く、反乱状態となっていた。その状態は本国にも知らされ、国王は99年に現地調査官としてポバディリャを派遣した。ポバディリャは提督の館に乗り込みコロンブスを逮捕し、コロンブス兄弟は鎖に繋がれて1500年に本国に送り返された。コロンブスの必死の訴えで西インドに戻ることは許されたが、提督の地位は剥奪され代わりにオバンドが任命された。

第4回航海

 失意の中、1502年僅か140人でカディス港を出港、最後の航海に向かった。サンドミンゴへの入港は禁止されていたので、さらに西に向かい、大陸へのルートを探り、現在のコスタリカとパナマ沿岸を探検、一時はパナマ地峡にも上陸したが、ついに新大陸であることは気づかなかった。嵐や座礁など難航を続けてジャマイカを経て帰途につき、1504年11月に帰国した。その直後にイサベル女王が亡くなり、その後にコロンブスと面会したフェルナンド王は冷たい態度だった。コロンブスは、国王に裏切られた思いを抱きながら、1506年、54歳で持病の痛風が悪化し死去した。

アメリカとコロンビア

 コロンブスは、自分の到達した土地はアジアであり、現在のインドよりも広い概念としてのインド、つまりインディアスと信じていた。しかし、同じころスペイン王・ポルトガル王の派遣した船団で何度かこの地を探検したアメリゴ=ヴェスプッチは、この地がアジア大陸とは別な大陸であると主張し、1507年にはこの地はアメリカ大陸といわれるようになった。しかし、大陸の発見者はコロンブスであるという認識も強く、アメリカ大陸のことをコロンビアということも多い。なお、アメリカの首都をワシントンD.C.Washingon District of Columbia というのもコロンブスの名に由来する。またシモン=ボリバルが建国した南米の国家にも大コロンビアという名が付けられた。

コロンブスとユダヤ人改宗者

 コロンブスの航海実現の背景には、イサベル女王の周辺にいたユダヤ人のキリスト教改宗者(コンベルソという)が存在していた。しかしイサベル女王は同じ1492年、ユダヤ教徒追放令を発している。コロンブスが航海に出発する時、改宗を拒んでスペインを去る多くのユダヤ人が同じパロスの港から船出していく光景が見られた。この事情については、<増田義郎『コロンブス』岩波新書のp.136-163>を参照。

Episode コロンブス、死んで大西洋を往復

コロンブスの墓

セビリア大聖堂のコロンブスの墓
Tripadvisor 提供

 コロンブスは1502年の第4次航海で中米海岸を探検した。しかし、そこからわずか50km足らずの向こう側に太平洋があり、そのさらに向こうに彼が求めたジパングがあることは遂に気づかずに終わった。航海の途中、船が航行不能になり、彼自身も病に臥し、さらに部下の叛乱に遭い、総督府からも見放され、空しくスペインのセビリャに戻った。
 1506年、王室との交渉のためスペイン北部のヴァヤドリドまで出かけたが、そこで亡くなり、遺体はセビリャに移された。ところが、1544年、長男ディエゴの未亡人が新世界入植初期の中心地、エスパニョーラ島に移住したとき、一緒に大西洋を渡り、その地で250年間の眠りについた。しかし、1795年、同島がフランスに割譲された時、コロンブスの遺体はスペインの戦艦に乗せられてスペイン領キューバのハバナに移された。
 現在、彼の遺体はセビリャ大聖堂にある。世にも珍しい、青銅の棺は4人の男性に担がれて空中にある。四人の担ぎ手はスペインの各地方を象徴する王たちという。そのすぐそばの床には次男フェルディナンドの墓がある。コロンブスは遺体となってからももう一度大西洋を往復したのだった。<笈川博一『コロンブスは何を「発見」したか』1992 講談社現代新書 p.64-65>

コロンブス 受難の時代

 1992年は、コロンブスの新大陸到達から500年に当たる年で、それを記念する行事がアメリカでも行われたが、しかし時代はかつてのような大航海者にして新大陸の発見者として礼賛されるだけではなかった。コロンブスの新大陸到達によって始まったことはスペインによるインディオの土地の略奪とその虐殺だった、さらにアフリカからの黒人奴隷の大量の強制移住をもたらした、という側面を忘れるな、という声が各地で起こったのだった。その後も、白人側に立ったこれまでの「世界史」の見直しを迫る声も断続的に続いていた。

NewS コロンブス像の首が落ちる

 2020年5月、アメリカのミネアポリスで起こった白人警官の暴力によって黒人容疑者が死亡した事件は、6月に黒人差別に抗議する大規模な黒人暴動に発展した。さらに世界各地で、黒人差別の頑強である黒人奴隷制、さらにその歴史的出発点となったコロンブスの新大陸「発見」などの歴史評価に対して、従来の白人、ヨーロッパから見た歴史の見直しを迫る運動として、さまざまな記念碑の破壊へと転換した。アメリカのリッチモンドでのジェファソン=デヴィス(南部連合大統領)、リー将軍(南軍指揮官)の銅像が倒されただけでなく、6月10日にはボストンでとうとうコロンブス像の首が落とされるという事態となった。 → AFP bb ニュースサイト
 さらに動きはヨーロッパに飛び、イギリスではブリストルで奴隷商人の銅像が倒されて海に投げ捨てられ、オックスフォード大学ではセシル=ローズ像撤去の動きがあり、ロンドンではチャーチル(インド人に対する人種差別的な言動で知られる)像が破壊される恐れがあるので鉄板で覆われたという。さらにベルギーでは国王レオポルド2世(今後を植民地化し、過酷な黒人弾圧を行った)像にも被害が及んでいるという。現在の人種差別思想は、ヨーロッパ白人の世界征服過程の始まりである15世紀末のコロンブスに遡るのだ、という主張が正しいかどうかさておき、私たちアジアの民族として世界史を学ぶ意味が問われているとも言えるだろう。
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書籍案内

ラス=カサス/林屋永吉訳
『コロンブス航海誌』
 岩波文庫

コロンブス/林屋永吉訳
『全航海の報告』
岩波文庫

増田義郎
『コロンブス』
1979年 岩波新書

笈川博一
『コロンブスは何を「発見」したか』
1992年 講談社現代新書