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国民公会

1792~95年、男性普通選挙で成立したフランス革命最盛期の議会。王政廃止、共和制樹立、封建制の無償廃止などを実現した。

 フランス革命の過程で最も高揚した時期、パリの民衆が蜂起した1792年の8月10日事件の結果、王権は停止され、翌9月に男性普通選挙(財産制限のない選挙)が実施された。このフランス最初の男性普通選挙によって成立したのが国民公会 Convention Nationale である。コンヴェンションというアメリカ流の呼び名を用い、新たな憲法の制定をめざす議会そして発足し、1795年10月までの3年間続いた。 → フランス

王政廃止を決議

 革命が最も高揚した時期であるが、同時に干渉戦争の苦戦が続き、革命の危機でもあった。一方フランス国内では反革命派が外国干渉軍を呼び込んでいるという不信が増幅し、9月2日にはパリで反革命派と目された1300人が虐殺されるという事件(九月虐殺)も起こった。しかし1792年9月20日ヴァルミーの戦いでフランス軍がプロイセン・オーストリア連合軍を破り、革命の勝利とされ、一挙に共和政の実現に向かい、翌9月21日に国民公会が開催され王政の廃止を決議した。ついで翌9月22日、フランスは初めて共和政国家となって第一共和政が始まった。

ジロンド派と山岳派

 ジロンド派は、共和政政府のもとで自由経済、自由競争が実現したこの段階で革命を終わらせ、ブルジョワや地主層の利益を守ろうとした。また、対外戦争はブルジョワの利益につながるので、さらに継続しようとした。それに対して山岳派(モンターニュ派)は都市の下層市民(小ブルジョワ)への利益配分は不十分であるとし、物価騰貴に苦しんでいるとして最高価格制の制定など、一定の統制経済を主張し、対外戦争にも反対した。つまり、革命の進展を主張したわけではあるが、その基盤は職人や商店主、小農民などブルジョワ階級の中の下層にあった。この両派は「王政と貴族支配に対しては共にたたかったブルジョワ勢力のなかの二つの分派」であり、両派とも私有財産制とその経済関係は基本的に是認している。この両派とは別に、土地または財産の平等分配を実現する農地法の制定を要求する過激派(アンラーゼ)があった―後にバブーフに受けつがれる―が、それに対しては両派は共に反対している。<河野健二『フランス革命小史』1965 岩波新書 p.130-134>

Episode 山岳派だけでなく、平原派(沼沢派)もいた

 山岳派は国民公会の議場の最も高い席を占めたところからでた名称であることはよく知られているが、その他に、平原派(プレーヌ)または沼沢派(マレ)といわれる党派もあった。勢力分布は、ジロンド派が160人、山岳派が200人で、その中間の400人が平原派や沼沢派と言われた。ジロンド派はブリッソ、ヴェルニョ、ロラン、コンドルセ、ペチオン、ビュゾーらが中心、山岳派にはロベスピエール、マラー、ダントンを三巨頭とし、他にサン=ジュスト、ビヨー=ヴァレンヌ、コロー=デルボワなどがいた。この両派が議会で争ったが、どちらが議決されるかは常に揺れ動き、平原派・沼沢派がどちらにつくかによって決まったので、両派ともその取り込みに必死になった。なお、アメリカ独立革命に火をつけた『コモン=センス』の著者トマス=ペインがフランス市民権を認められ、国民公会議員に選出されいることが注目される。

国王処刑

 国民公会では、当初はジロンド派が優勢であったが、前国王の裁判を巡って両派は鋭く対立することになった。ジロンド派は前国王処刑が外国を硬化させることを恐れて死刑に反対したが、ロベスピエールなど山岳派は共和政にはルイ=カペー(王位を退いた前国王ルイ16世)は存在は許されないとして死刑を主張した。92年11月にテュイルリー宮殿の戸棚からルイ16世が外敵と通謀していた証拠が見つかって、一気に処刑が決定された。翌1793年1月には前国王ルイ16世は処刑された。

ジャコバン派の独裁

 国王処刑の前後から国民公会におけるジロンド派と山岳派(モンターニュ派)の対立は激しさを増したが、急速にジャコバン=クラブは山岳派に独占されるにいたり、山岳派自体がジャコバン派と言われるようになった。劣勢のジロンド派は、マラー、ロベスピエールの独裁的傾向、ダントンの汚職などを追及した。特にマラーを9月虐殺などの責任で革命裁判所に告発したが、サンキュロットが裁判所を武力で包囲してマラーが無罪になったことから形勢が悪化し、1793年の5月末、ジャコバン派支持のサンキュロットが武装して議場に突入する事態となった。ついに6月2日に国民公会からジロンド派が追放され、公安委員会を押さえたジャコバン派の独裁が行われることとなった。それを指導したのがロベスピエールであり、そのもとで国民公会は1793年憲法の制定(実施はされず)、封建地代の無償廃止黒人奴隷制の廃止などの革命政策を推進する決定を続ける一方、革命裁判所でマリ=アントワネットを初めとする国王一家や王党派の残党、さらにはジロンド派などを反革命の罪状で捕らえ、次々と処刑し、恐怖政治と言われた。

テルミドールの反動で解散

 その反対派を容赦なく処刑する恐怖政治は、次第に民衆の支持を失い、議会の多数も反ロベスピエールに転じたため、1794年7月テルミドールの反動でロベスピエールは殺害され、ジャコバン派の権力は倒された。その後、1795年10月に国民公会は解散し、総裁政府が成立する。
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書籍案内

五十嵐武士・福井憲彦
『世界の歴史21
アメリカとフランス革命』
1999 中公文庫