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コンスタンティヌス

4世紀初頭のローマ帝国皇帝。帝国の分裂、混乱を克服し専制君主政を確立し、313年にキリスト教を公認。コンスタンティノープルに遷都し、強大な帝国を再建したが、その死後、再び帝国は分裂傾向に陥った。

コンスタンティヌス大帝

コンスタンティヌス大帝
ローマ カピトリーニ美術館

 ローマ帝国の皇帝で在位は306~337(副帝時代含む)。帝国後半期の最も重要なローマ皇帝であり、正式にはコンスタンティヌス1世、「大帝」といわれる。3世紀中頃の軍人皇帝時代の混乱を収拾したディオクレティアヌス帝に次いで、その創始した専制君主政を確立したが、一方ではその四分統治による対立の中で勝ち抜き、単独帝政に戻した。ローマ帝国の皇帝専制政治を再建したが、新都コンスタンティノープルを建設して支配の重点を東方に移した。また、313年にはキリスト教を公認するという大転換を図り、325年のニケーア公会議では教義の統一をはかった。しかしその死後、皇帝位は再び分裂し、キリスト教公認も一時期撤回されるなど混乱の時期を経て、4世紀末には帝国の東西分裂が明確になり、西の帝国は476年に滅亡する。

ローマ帝国の統一の再現

 ディオクレティアヌス帝の四分統治の際に西の副帝となったコンスタンティウス1世の子。父はドナウ沿岸属州の下層農民出身の軍人で、母ヘレナは小アジアの同じく下層民出身でキリスト教徒だった。父が西の副帝になると、人質のようなかたちで東の正帝ガレリウスのもと、都ニコメディアで幼年時代を過ごした。その後、父の統治するガリアに行き、父と同じく軍人として頭角を現した。ディオクレティアヌス帝の死後、父コンスタンティウスは西の正帝となったが、306年に死去、コンスタンティヌスは配下の軍隊に推されて正帝と称した。しかし、他にも正帝を称したものが三人あり、西の帝国には激しい内戦が生じた。コンスタンティヌスは、ローマで皇帝を称していたマクセンティウスを攻め、312年にミルウィヌス橋の戦いで勝ってローマに入城し、元老院から西の正帝として承認された。そのときに建てられたのが有名なローマのコンスタンティヌス帝の凱旋門である。

キリスト教公認と帝国統一

 コンスタンティヌスは、その翌313年、もう一人西の正帝を名のっていたリキニウスとミラノで会談し、同盟関係を結ぶとともにキリスト教を公認することを取り決めた。リキニウスはただちに東方に向かい、東の皇帝を攻撃して退位させ、東の正帝として即位したので、これが世に言う「ミラノ勅令」である。しかし、リキニウスはまもなくキリスト教の否定に転じ、キリスト教徒を迫害するようになった。そのため西の皇帝コンスタンティウスと東の皇帝リキニウスは対立することとなり、幾度か講和が試みられたものの結局決裂し、324年、バルカン半島のアドリアノープルで激突、コンスタンティヌスが勝利してローマ全土にキリスト教は公認されることとなった。
アドリアノープルの戦い 現在のトルコの西端、バルカン半島側のエディルネは、ローマ帝国最盛期の皇帝ハドリアヌスが造った都市ハドリアノポリスが起源で、後にアドリアノープルと言われる。324年7月3日、この地で古代史の中でも最大の戦争が行われた(アドリアノープルの戦い。なお、378年にはローマ皇帝とゴート人の戦争もこの地で起こっている)。相対したのはいずれもローマ皇帝を名のる二人、一人は帝国の西半分を統治していたコンスタンティヌス1世で12万の歩兵と1万の騎兵を動員し、もう一人は東半分を統治していたリキニウスで歩兵15万、騎兵1万5千を擁していた。長時間にわたった戦闘は、自らも傷を負いながら奮戦したコンスタンティヌスの勝利となった。退却したリキニウスはビザンティオンから西へボスポラス海峡を渡りクリュソポリスに陣を布いた。コンスタンティウスは放棄されたビザンティオンを確保するとクリュソポリスへ向かい、9月18日の決戦で決着をつけ、リキニウスは捕らえられた後処刑された。こうしてコンスタンティウスはローマ帝国の単独皇帝となった。また、リキニウスはミラノ勅令を発した後、キリスト教徒迫害に転じていたから、コンスタンティヌスの勝利は、キリスト教公認が確定した意味ももっていた。<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.51-52>

コンスタンティノープルへの遷都

 324年にローマ帝国の統一を再建したコンスタンティヌス帝は、330年には新都をビザンティオン(ビザンティウム)の地に建設、コンスタンティノープルと命名した(実質的な首都移転はテオドシウスの時)。コンスタンティノープル(コンスタンティノポリスとも言う)は「第二のローマ」といわれ、後には東ローマ帝国の都として長く継承されることになる。
 また、租税収入の安定を図って、332年に「コロヌスの土地緊縛令」を出し、その移動を禁止して身分を固定化し、コロナトゥスを強化した。これによって、奴隷制大農園(ラティフンディウム)にかわる生産方式が確定することになった。その一方で、地中海交易を活発にするために基軸通貨としてソリドゥス金貨を鋳造発行し、帝国の経済的統一を維持しようとした。

キリスト教政策

ミラノ勅令 西正帝としてローマに入った翌年の313年、東正帝リキニウスとミラノに会見して、ミラノ勅令を出し、宗教の自由を認めキリスト教を公認した。これによって帝国によるキリスト教迫害は終わり、教会には経済的援助も与えられた。
ニケーア公会議 キリスト教は長い迫害の時代を経て、ようやく公認され、迫害されることはなくなったが、すでにイエス=キリストが去ってから300年以上が経過し、その教えは使徒たちを通して伝承されてきたものの、狭義の解釈をめぐって異なる意見も生まれていた。特にイエス自身の神性を認めるかどうか、が重大な争点として浮かび上がっていた。そこで、コンスタンティウス帝は、自らその問題の解決に乗り出し、325年ニケーア公会議を主催して、キリスト教の教義の一本化を図り、父なる神と子なるイエスは同質であるとするアタナシウス派を正統とし、子(イエス)が父(神)に従属するとするアリウス派を異端とした。コンスタンティヌス帝は、ネロ帝の時に殉教した使徒ペテロの墓所(礼拝所)に教会を建設することを命じ、それがサン=ピエトロ教会(大聖堂)の基となった。

コンスタンティヌス帝の政治の意義

 歴代皇帝で最も長い30年(副帝時代を含む)の在位期間であったが、ローマ帝国の皇帝の性格はすでに帝政前期の元首政とはまったく違ったものになっていた。政治形態では共和政の伝統は形だけとなって皇帝に独裁的な権限が集中し、専制君主政(ドミナートゥス)が確立した。また、キリスト教が新たな国家理念とされるようになり、何よりも「ローマ帝国」といいながら、都が東方のコンスタンティノープルに遷ったことによって帝国の基盤はギリシア、東地中海、小アジアなどの東方に比重が動いた。

Episode この印によりて汝は勝つ

 312年、コンスタンティヌス帝がマクセンティウムとローマのミルウイヌス橋で戦った時、天に燃える十字架の影と、「この印によりて汝は勝つ」という4語が空中に浮かぶのを見て、十字架を押し立てて戦ったところ、勝利を得た。このことがコンスタンティヌス帝がキリスト教の信仰に入るきっかけとなったという。
 この伝説に対して、イギリスの歴史家ギボンは『ローマ帝国衰亡史』の中で詳しく論じ、疑問を呈している。彼は最初のキリスト教皇帝とされるが、彼自身が洗礼を受けたのは死の直前であり、ミラノ勅令の頃は明確な信仰を持つにはいたっていなかった。事実、その凱旋門には、信仰の力とは記されてはおらず、むしろ太陽神が描かれている。ギボンも言う通り、後の教会史家エウセビオスの『コンスタンティヌス大帝伝』などで述べたのであり、それまで罪人の死刑に使われていた十字架が皇帝の勝利を導いたと当時考えらるというのは無理がある。<ギボン、中野好夫訳『ローマ帝国衰亡史』3 p.225~ など>

コンスタンティヌス帝の権力基盤

 コンスタンティヌス帝は324年にアドリアノープルの戦いでリキニウスを破り、ビザンティオンに拠って帝国を統一し、330年に新都コンスタンティノープルとしてその統治の比重を東に移したが、それ以前の306年から帝政の前半の基盤としていたのはガリア(現在のフランスとドイツ西部)の地であった。その統治の拠点としたのは、ライン川の支流モーゼル川流域のトリーア(ローマ時代のアウグスタ=トレウェロルム市)は、当時7万の人口を数え、ニームやロンドニウムよりも大きな都市であった。トリーアには現在もコンスタンティヌス時代のバシリカや円形闘技場、公共浴場が残っており、世界遺産に登録されている。
 父の代からガリアを拠点としていたコンスタンティヌスは、周辺に遠征軍を送ると同時に、フランク族やアラマンニ族などを帝国軍に加え、軍事力としていた。その一方で軍制改革を行ってローマ軍の常時兵力を削減し、騎兵・歩兵からなる野戦機動軍を創設した。
 コンスタンティヌスはガリアの有力者や人材を、ローマの元老院とは関係なく「元老院格」として引き立て、帝国の公職に就けていった。彼らは帝国東半の皇帝権力を支える直属の官僚となっていった。しかし帝国西半には大土地所有者や帝国公職保有者などの有力者が強い力を保持しており、それが大帝死後の帝国西半の衰退の遠因になったと思われる。<南川高志『新・ローマ帝国衰亡史』2013 岩波新書 p.66-70>

大帝の晩年と死後

 コンスタンティヌスは身体も大きく、他を圧する風貌(上のローマ、カピトリーニ美術館に遺された巨大な像の一部である頭部を参照)があって、文字どおり「大帝」といわれる強大な力をふるったが、その晩年は意外なほど猜疑心につつまれ、悲惨なものがある。また、その死後には、いわば反動のような事態もおこっている。
 まずキリスト教公認に関連して、ニケーア公会議ではアリウス派を異端として断定したが、その晩年にいたってエウセビオスの影響を受け、次第にアリウス派の教義を信じるようになり、335年にはアリウスの追放処分を取り消し、アタナシウスを追放している。大帝は臨終に際して洗礼を受けたが、それもアリウス派のエウセビオスの手によるものだった。
 また肉親との関係でも、326年には先妻との間の長男クリスプスと、妻のファウスタを立て続けに処刑している。この事件の真相は不明と言うほかないが、激情に駆られた大帝の粗暴な一面が現れている。
 晩年に大帝はファウスタとの間に生まれた三人、コンスタンティヌス2世、コンスタンティウス2世、コンスタンス(なんとややこしい三人の名前だが)をそれぞれ副帝にして帝国を分割統治する態勢をとった。また二人の異母弟のユリウスとフラウィウスらにも高い地位を与えた。しかしこの不分明な分治制度によって、337年に大帝が死ぬと、たちまち混乱が生じ、子供たちや一族の間で激しい、そして複雑な争いが生じた。この後継者争いの中で、結局コンスタンティウス2世が生き残ることとなるが、その中で子どもだったために危うく命拾いをしたユリウスの子のユリアヌスが、やがて父を殺したコンスタンティウス2世を倒し皇帝となり、キリスト教公認を取り消すといういわば反動の時代となる。<南川高志『同上書』 p.83-105 / 小説であるが辻邦生『背教者ユリアヌス』(上)にはこのあたりが詳しく物語られている。>