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ユリアヌス

4世紀中ごろ、ローマ帝国末期の皇帝。ギリシア文化の影響を受け、多神教の復活をめざしキリスト教公認を改めた。キリスト教教会からは「背教者」といわれている。363年、ササン朝ペルシア遠征中に戦死した。

 ユリアヌス Julianus は4世紀中ごろのローマ皇帝で、361年に即位(在位は363年まで)、ローマ帝国の歴史の中でキリスト教が公認された後、ローマの多神教時代の神々への信仰を復活させ、キリスト教の公認を否定したことで有名で、後にキリスト教教会からは「背教者」the Apostate と言われた。
 ユリアヌスは宗教寛容令でローマ帝国の本来のギリシア・ローマの文化伝統を復興させ、皇帝の権威の回復を図ったが、その一環としてのササン朝ペルシア遠征に向かい、都クテシフォン近郊で戦死した。わずか在位3年目であり、その目標を達成することはできなかった。

皇帝となる

 337年のコンスタンティヌス大帝の死後、皇帝となったコンスタンティウス2世は、帝位を脅かす恐れがある大帝の兄弟とその子供たちを次々と殺害した。この時殺された大帝の弟ユリウスの子がユリアヌスで、幼少であったためか殺害を免れ、小アジアのマケルムに幽閉された。ユリアヌスはその地で育つうちに、ギリシアの古典や哲学に親しみキリスト教に疑問を持つようになった。コンスタンティウス2世は大帝の血を引くものとしてユリアヌスが成人するとその副帝に任命し、ガリアの統治をゆだねた。
 ユリアヌスはガリアの辺境ライン川を越えてゲルマン人との戦いを進めなければならなくなったが、彼が思索の人だけではなく、行動する軍人としてもすぐれた資質をもっていることが明らかになった。ガリアの軍団はつねに不利な状況に置かれていたが、ユリアヌスの巧みな戦術と勇気で、ストラスブールの戦いなどでゲルマン人を打ち破ることに成功したのだ。ルテティア(現在のパリ)に本拠を置いたユリアヌスはガリア軍団の兵士の心をつかんだが、こんどはコンスタンティウス2世はササン朝ペルシアとの戦いの援軍としてガリア軍団に東方への遠征を命じられると、一斉に不満の声が起こった。ガリア軍団の兵士はユリアヌスにコンスタンティウス2世への反逆と皇帝(アウグストゥス=正帝)となることを迫り、ユリアヌスもその声に押されて、皇帝となることを承認した。こうしてユリアヌスは皇帝を称し、ガリア軍団を率いてドナウ河を下ってコンスタンティノープルを目指した。途中、コンスタンティウス2世が死去、皇帝と認められて、361年にコンスタンティノープルに入城し正式に即位した。

参考 ユリアヌス像の変化

 ユリアヌスは、哲人皇帝と言われたマルクス=アウレリウス=アントニヌスを尊敬し手本としていた。彼と同じく哲学者としても多くの著作や手紙を残している。また4世紀の歴史家アンミアヌスの書物にもこの時代のことが伝えられ、それらによればユリアヌスは悲運、忍従の人で、専ら学芸を生きがいとしていたが、思いもかけず副帝としてガリアに赴いたとき、兵士から懇願されて心ならず皇帝となったとされていた。辻邦生『背教者ユリアヌス』も大筋そのような設定だった。ところが最近の歴史学者(アメリカのバワーソックら)の研究では、彼は自らの意志で皇帝となったのであり、受動的ではなかったという説が主流になっているという。<南川高志『ユリアヌスー逸脱のローマ皇帝』世界史リブレット人8 2015 山川出版社>

宗教寛容令を出す

 361年、ユリアヌスは単独皇帝となると、矢継ぎ早にコンスタンティヌス帝及びコンスタンティウス2世の基本政策の転換を図り、肥大化した宮廷の削減(なかには宦官もふくむ)したり、冗費の削減などを行った。その一環として、313年のミラノ勅令によるキリスト教の公認を取消し、帝国による教会や教父に対する支援を打ち切った。ユリアヌスは自らギリシア・ローマの神々への信仰に復帰し、神殿の再建と神々への祭祀の再開、ギリシアの文芸や美術の保護などを命じた。それはキリスト教を禁止することではなく、古来の神々への寛容と崇敬を求めたものであった。

ユリアヌスの宗教政策

 ユリアヌス帝は、コンスタンティヌス大帝のキリスト教公認を取消し、教会への保護を停止したが、キリスト教を禁止したり、迫害したわけではなく、いわば「宗教寛容令」をだしたものといえる。しかし、キリスト教の歴史では、後のテオドシウス帝の時にローマ帝国はキリスト教に復帰し、さらに国教となって定着していくこととなるので、ユリアヌス帝はその流れに逆らった「背教者」と烙印を押されている。しかしそれはあくまでキリスト教の立場に立った評価にすぎない。
ギリシア思想の影響 ユリアヌスは子供の頃、アリウス派の教父エウセビオスを傅育としていたのでキリスト教徒として育てられ聖書を諳んじることもできたが、青年になるまでにプラトンやホメロスなどのギリシア古典に親しむうちに、人間らしい自由の精神に関心が変わり、次第にキリスト教から離れていった。ユリアヌスの時代は「ガリラヤ人」といわれていたキリスト教徒に対しては、その信仰が独善的、排他的で、ギリシア・ローマの神々を疎んじる無神論者であると考えるようになった。またギリシア哲学から生まれた新プラトン主義の影響を強く受けるようになった。
宗教寛容の思想 ユリアヌスはコンスタンティヌス大帝に公認されたことによってキリスト教徒が皇帝の周辺にも多くなり、教会などにも特別の保護が加えられ、反面に神々が祀られる神殿などが疎かにされていることを嘆き、その復興を企てる必要を感じるようになった。コンスタンティノープルに入るまではそのような考えはあからさまにはしなかったが、361年、皇帝としてはじめて信仰は自由であるべきであるとして、いわば「宗教寛容令」(当時そう言われたわけではない)を発した。その内容は、古来の神々への信仰を認め、キリスト教以外の宗教、そして当時は主流を占めていたアリウス派だけではなく、アタナシウス派のキリスト教もふくめ、さらに当時兵士の中に広まっていた東方起源の信仰であるミトラ教などの信仰を認め、宗教への不寛容を戒めるものであった。
 ユリアヌスの宗教政策は、キリスト教を禁止するものではなかったが、キリスト教側は再び迫害の時代に戻るのではないかと危機感を持ち、ユリアヌスの意図とは反対に、各地でキリスト教徒による神殿破壊や、それに対する報復として教会焼き討ちなどが始まり、かえって宗教対立に火をつけてしまうことになった。

Episode 焼き肉の臭い、アンティオキアに充満

 ユリアヌスは皇帝として東方の安定、つまりササン朝ペルシアを制圧することは不可欠と考え、東方遠征に出発、その拠点としてアンティオキアに本拠をかまえた。その時、郊外のダフネにあるアポロン神殿があまりに荒廃し、さらにギリシアの神を祀る神域にキリスト教徒の殉教者の墓がつくられていたのを見たユリアヌスは、その撤去と神殿の復興を命じた。そして神々との交信に欠かせない犠牲獣として毎日、百頭の牛を献じ、内臓を抉り、肉は焼くことと命じた。それから毎日、アンティオキアの街中に殺される牛の鳴き声が響き、牛肉を焼く煙と臭いが充満し、街と周辺の農家の牛はすべていなくなってしまったという。そんなある夜、何ものかの放火で神殿が焼き落ちる事件がおこった。キリスト教徒の仕業に違いないとして将軍たちはこの際、キリスト教を禁止すべきだとユリアヌスに迫った。しかしユリアヌスは、ローマの正しい伝統は宗教の寛容にあるとして、キリスト教禁止には踏み込まなかった。そうではなく、彼は神殿の復興と前にも増して盛んに犠牲式を執り行い、神々の尊厳を復興するのが務めだと、自ら慰めたという。しかしアンティオキアの市民はユリアヌスを理解せず、神殿が焼けたのはユリアヌスがキリスト教を信仰しなかったからだと噂し合った。<このあたりは、辻邦生『背教者ユリアヌス』下(中公文庫)に詳しく描かれている。p.289-336>

参考 教科書でのユリアヌス評価の変化

 山川出版社「詳説世界史」の古い版では、「4世紀後半にユリアヌス帝は古典文化と異教の復興を企て、キリスト教をおさえたが成功せず、」とあったが、改訂版では「4世紀後半に「背教者」とよばれたユリアヌス帝が異教復興をくわだてたが成功せず、」と変化した。現行版では「異教復興」の部分が「古来の多神教の復興」とされている。また、同社用語集では、1983年版では「はじめはキリスト教を奉じたが、ギリシア古典と密儀宗教のミトラ教に心酔し、突如改宗し、キリスト教を抑圧して“背教者”と呼ばれる。迫害は結局失敗。」とあるが、現行版(2013年)では、「ギリシア古典に通じ、古来の伝統宗教を尊重して宗教寛容令を出し、キリスト教優遇を廃止した。そのためキリスト教会からは“背教者”と呼ばれた。」とかなりトーンが変化している。
 旧版ではユリアヌスは「キリスト教を抑圧、あるいは迫害した、しかし失敗した」というトーンだったが、現在はユリアヌスは「キリスト教を国家宗教として公認したのを取消し、キリスト教以外の伝統宗教の信仰も認めた」という認識になっている。ユリアヌスは自らの著作で「ローマの神々を認めないキリスト教信者は無神論者である」と非難しているが、かつてのローマ皇帝のような弾圧や迫害はしていない、という事実が明らかになった結果であろう。またかつての教科書や用語集の書き方は、ユリアヌスを「背教者」というキリスト教会側の評価に引きずられすぎていた面がある。

東方遠征で戦死

 ユリアヌス帝は363年3月、東方遠征に出発した。当時はパルティアは既に亡び(226年)、ササン朝ペルシアの時代となっていたが、ローマでは東方は依然としてパルティアと呼ばれていたのでユスティニアヌスのこの遠征もパルティア遠征と言われるが、実際にはササン朝との戦いであった。ユリアヌスはパルティア人に対する勝利を意味する「パルティクス」という称号を欲し、またアレクサンドロス大王やトラヤヌス帝を理想としていたことが指摘されてるが、帝国領の安定のために東方を平定することはローマ皇帝の責務と考え、即位間もない時期に決行したものと思われる。
 ユリアヌスは6万以上の兵を率いてアレッポから東に進み、ユーフラテス川を下ってメソポタミア中心部に入り、ササン朝の首都クテシフォンに迫ったが、援軍と補給が遅れる中で苦戦に陥った。ユリアヌスはユーフラテスの船隊の船を焼き払って背後を断って戦ったが、ローマ兵は飢えと渇きに苦しみ、ティグリス川河畔のマランガ(現在のサマッラの付近か)で6月26日に起こった小競り合いの時、戦いの前面に出ていたユリアヌスは投げ槍を脇腹に受けて倒れ、間もなく亡くなった。投げ槍はササン朝の兵士が投じたのではなく、ローマ人のキリスト教徒だったという記録もあるが、真相は分からない。かわずか32歳、皇帝としては実質2年(361~363年)の在位期間であった。<南川高志『ユリアヌスー逸脱のローマ皇帝』世界史リブレット人8 2015 山川出版社 p.87-97>
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書籍案内

南川高志
『ユリアヌス
ー逸脱のローマ皇帝』
世界リリブレット 人8
2015 山川出版社

南川『新・ローマ帝国衰亡史』(岩波新書)と重複する記述も多い。

辻邦生
『背教者ユリアヌス』
1975 中公文庫

長編歴史小説。西洋ものの小説で堅苦しそうだが、そうでもなくユリアヌスの短い生涯をビビッドに描く。そのテーマはけして古代だけのことではなく、国家と宗教(あるいはイデオロギー)の問題として読める。