クテシフォン
ティグリス川河畔、現在のバグダード近郊に作られたパルティア王国の新しい都。ササン朝でも首都となる。ホスロー1世当時の宮殿遺蹟が残る。
パルティアの都

クテシフォンの遺跡
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また、クテシフォンの重要性が増した結果、それまでメソポタミアの中心都市であったバビロンは衰え、ただの寒村になり、歴史の表舞台から消えることとなった。オリエントにおける都市の興亡の一例である。
パルティアは遊牧イラン人が建てた国で、ヘレニズム三国の一つセレウコス朝シリアの支配から自立し、はじめカスピ海東南部に建国した。東西交易の要地を抑えて次第に有力となり、メソポタミアからシリアに勢力を伸ばしたことによってローマ帝国と対立することとなった。前1世紀にはローマの将軍クラッススを敗死に追いこむなど、有利な戦いを進めたが、ローマ帝国の段階になるとたびたび派遣された大軍と戦った。114~117年にはローマ皇帝トラヤヌスの東方遠征が行われ、都クテシフォンもローマ軍に占領されている。またマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝の時もメソポタミアを奪われるなど苦戦が続いた。この戦いはローマとパルティアの双方を衰弱させ、間もなく講和したが、パルティアの国力は次第に衰えた。
ササン朝ペルシアの都
226年にパルティアを倒して成立したササン朝ペルシアもクテシフォンを首都とした。ササン朝は独自のイラン文化を発展させ、3世紀のシャープール1世の時に西アジア全域にその支配を及ぼした。363年にはローマ皇帝ユリアヌス帝が遠征軍を派遣してクテシフォンに迫ったが、シャープール2世のササン朝軍に敗れ、帝も戦死している。5世紀には中央アジアに興った遊牧民エフタルの侵入を受けて衰えたが、6世紀に力を盛り返し、550年にはホスロー1世は大宮殿を建設した。現在のクテシフォンでホスロー1世の宮殿跡と推定される遺跡には、「ホスローのアーチ」と言われる遺構が残されている。ササン朝ペルシアの都として繁栄したが、7世紀に入ると、ローマ帝国の後継であるビザンツ帝国との抗争が激しくなり、628年にはヘラクレイオス1世のビザンツ軍に占領されている。
しかし、ササン朝ペルシアを最終的に滅ぼしたのはイスラーム教勢力であった。クテシフォンもイスラーム軍に破壊され、ササン朝ペルシアは651年に滅亡する。現在のイラクのバグダード近郊のクテシフォンには、ササン朝時代の王宮跡が遺跡として残るのみである。