印刷 | 通常画面に戻る |

バビロン

メソポタミア南部、バビロニアで栄えた古代都市。バビロン第一王朝、新バビロニアの都として繁栄した。

バビロン第一王朝の都

バビロン遺跡 GoogleMap

古代オリエントメソポタミア地方の南部、バビロニア地方の中心地で、最も繁栄した都市の一つ。ユーフラテス川中流、バグダードの南方にあった。もともと「神の門」を意味するマルドゥク神の神殿があった宗教都市であったが、アムル人バビロン第1王朝(古バビロニア)の都となってから繁栄した。『旧約聖書』に出てくるバベルの塔はバビロンのジッグラトのことだと言われている。その後、ヒッタイトの支配が及んだ後、前15世紀後半にはカッシート(バビロン第3王朝)の支配を受けた。前8世紀の終わりごろ、アッシリア帝国に征服され、その支配のもとで、都ニネヴェに劣らない都市として栄えた。

新バビロニア時代

 前625年、新バビロニア(カルデア)が成立すると再び都となった。その最盛期の前6世紀、ネブカドネザル王(2世)は、イェルサレムのユダ王国を滅ぼし、ユダヤ人をバビロンに連行した。これはユダヤ人にとってバビロン捕囚という苦難の歴史として旧約聖書に伝えられている。  また、ネブカドネザル王は、アッシリア帝国滅亡時に破壊された都市バビロンを復興させた。特に、イシュタル門は釉薬をかけた彩色煉瓦でバビロンの主神マルドゥク神のシンボル動物などを造形し、青く光る巨大な門であった。またバビロンの王宮には「空中庭園」があったという。その仕組みはよく判っていない。また、ネブカドネザル王は、パレスチナに遠征してイェルサレムを占領してユダ王国を滅ぼし、ヘブライ人をこの地に連行した。これは「バビロンの捕囚」として旧約聖書が伝える出来事で、ヘブライ人はこの頃からユダヤ人として自覚するようになった。

バビロンの衰退

バビロンのイシュタル門

バビロンのイシュタル門。実物はベルリン博物館に移築されている。これはフセインによって復元された物で、実際の大きさの半分にすぎない。 (トリップアドバイザー提供)

 新バビロニアの後、ペルシア帝国の支配を受けていたが、前331年、アレクサンドロス大王が東方遠征の途上に入城した。大王はその後ペルシア帝国を滅ぼし、中央アジア、インドまで進出した後、この地に戻り、前323年にバビロンで死去した。その後は次第に衰退し、特にササン朝ペルシアではチグリス川中流に都クテシフォンを造営し、繁栄はそちらに移り、バビロンは寒村となった。さらにイスラーム勢力がこの地を征服してアッバース朝が新たな都市バグダードを建設してからは、砂漠に埋もれてしまった。1899年から1917年まで、ドイツ隊による発掘が行われ、遺跡として脚光を浴びることとなった。その時発見されたイシュタル門は、ドイツに持ち去られてベルリン博物館で復元されている。

Episode フセインによるバビロンの復元

 現代イラクの独裁者サダム=フセインは自らをネブカドネザル王になぞらえ、1978年に国家的事業として新バビロニア時代のバビロンの復元事業を行った。ドイツのベルリン博物館に持ち去られた有名なイシュタル門もバビロン(現在はアル=ヒッラという)に再建したが、その大きさは実物の半分にとどまったという。サダム=フセインは2003年にアメリカ軍によって捕らえられ、失脚したが、イラク情勢が依然として混迷するなか、バビロンの遺跡がどうなったか、心配なところである。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

大貫良夫/前川和也/渡辺和子/尾形禎亮
『人類の起源と古代オリエント 』
世界の歴史1 2009 中公文庫

小林登志子
『古代メソポタミア全史』
2020 中公新書