ウマル
イスラーム教団の第2代カリフ。オマルとも表記。聖戦を展開し勢力を拡大、シリア・エジプト・イランを征服した。
イスラーム教教団の正統カリフ時代、第2代カリフ(在位634~644)。初代アブー=バクルと同じくクライシュ族のアディー家出身で、はじめメッカでムハンマドを厳しく迫害したが、後に改悛してムスリムとなり、イスラーム国家の建設に尽くしたので、「イスラームのパウロ」といわれる(パウロは初めイエスに敵対し迫害していたが改心して使徒となった)。娘はムハンマドの妻の一人となる。
さらに637年にはカーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍に勝利し、その都クテシフォンを攻略した。翌638年にはさらに西に転じてイェルサレムを征服、その時すでにローマ時代の建物はなくなり荒廃していたが、ウマルはその遺跡の中から巨岩を見つけ、そこがムハンマドの「昇天の旅」の出発地であるとして聖域に指定し、「ウマルのモスク」とよばれるようになった。この地には後のウマイヤ朝時代のカリフアブド=アルマリクによって岩のドームが建立されることになる。
641年、ウマルはエジプトを征服、さらに再び東進して642年にニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアに勝利して、イラン高原に進出した。
また広大な征服地を統治するため、徴税官を派遣し、アラブ戦士にはその税収入から一定の俸給(アター)を支払うこととし、またその業務のためにメディナに官庁(ディーワーン)を置いた。さらにイスラーム暦を定められたのもウマルの時である。
またウマルの時代までにアラブの征服活動が進行し、多くの異教徒がその支配下に服することになった。抵抗した異教徒は武力で制圧していったが、その支配を受け容れた異教徒に対してはジズヤ(人頭税)の支払いなどの義務を果たすことを条件に、その信仰と一定の自治を与えた。特にユダヤ教徒やキリスト教徒などは「啓典の民」としてそのような保護民=ジンミー(ズィンミー)として処遇する制度が成立した。
644年、カリフ・ウマルの死により、生前の指名によってウスマーンが第3代カリフの地位に就いた。
イスラーム帝国の拡大
ウマルの時代はジハード(聖戦)が展開され、まずシリアに進出して635年にダマスクスを包囲して降伏に追いこみ、次いで翌636年8月、ヤルムークの戦いでビザンツ帝国のヘラクレイオス1世の軍隊12万を、4万の軍勢で攻撃し、兵員数で劣ったものの奇襲攻撃などでビザンツ軍を壊滅させ、シリアをイスラーム帝国に併合した。さらに637年にはカーディシーヤの戦いでササン朝ペルシア軍に勝利し、その都クテシフォンを攻略した。翌638年にはさらに西に転じてイェルサレムを征服、その時すでにローマ時代の建物はなくなり荒廃していたが、ウマルはその遺跡の中から巨岩を見つけ、そこがムハンマドの「昇天の旅」の出発地であるとして聖域に指定し、「ウマルのモスク」とよばれるようになった。この地には後のウマイヤ朝時代のカリフアブド=アルマリクによって岩のドームが建立されることになる。
641年、ウマルはエジプトを征服、さらに再び東進して642年にニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアに勝利して、イラン高原に進出した。
また広大な征服地を統治するため、徴税官を派遣し、アラブ戦士にはその税収入から一定の俸給(アター)を支払うこととし、またその業務のためにメディナに官庁(ディーワーン)を置いた。さらにイスラーム暦を定められたのもウマルの時である。
またウマルの時代までにアラブの征服活動が進行し、多くの異教徒がその支配下に服することになった。抵抗した異教徒は武力で制圧していったが、その支配を受け容れた異教徒に対してはジズヤ(人頭税)の支払いなどの義務を果たすことを条件に、その信仰と一定の自治を与えた。特にユダヤ教徒やキリスト教徒などは「啓典の民」としてそのような保護民=ジンミー(ズィンミー)として処遇する制度が成立した。
644年、カリフ・ウマルの死により、生前の指名によってウスマーンが第3代カリフの地位に就いた。
Episode 「スンナ派の名前、殺害の的となる」
ウマル(一般にはオマルと表記することが多い)は、アラブではありふれた名前であるが、2003年のイラク戦争勃発後、イラクではこの名前を改名する人が続出しているという。それは、スンナ派とシーア派の宗教対立が続くイラクで、シーア派民兵が「オマル(ウマル)」という名の人を次々と殺害するという事態が起こったためだ。シーア派は「抑圧者」としての第2代カリフのオマルと同名のものを殺害し、宗教的憎悪をかき立てている。スンナ派はイスラーム世界全体では多数派であるがイラクでは少数派であり、サダム=フセイン時代には権力を握っていたが、現在は形勢が逆転した。「スンナ派とシーア派の対立はイスラーム草創期の歴史までが憎悪をかりたてる手段に用いられ、抜き差しならない状況に陥っている。」<2006年4月14日 朝日新聞>