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ラテラノ条約

1929年、イタリアのムッソリーニ政権とローマ教皇庁の間の条約。ヴァチカン市国の独立を認めた。

 1929年2月、イタリア政府(ムッソリーニ政権)とローマ教皇庁(教皇ピウス11世)の間で締結された条約で、ラテラノ協定とも言う。ラテラノ(ラテラン)とはヴァチカン宮殿以前にローマ教皇の住居となっていた建物で、ローマのサン=ジョバンニ=イン=ラテラノ大聖堂に隣接している(ヴァチカン宮殿から5kmほど離れている)。そこで条約が調印されたので、ラテラノ条約という。
 この条約では、イタリア王国が1870年にローマ教皇庁から奪ったいわゆるローマ教皇領に対しては賠償金を支払ってイタリア領であることを確定し、ローマ市内のサン=ピエトロ大聖堂のある地域を、ローマ教皇を元首とするヴァチカン市国として独立させることを認めた。また付属の協定で、イタリアはカトリックを唯一の宗教とすることで合意し、学校教育などでの宗教教育を復活させることを約束した。 → イタリア(7)

ファシストとカトリックの協定

 これによって、1870年以来のイタリア王国とローマ教皇庁の対立、いわゆる「ローマ問題」が解決され、ヴァチカン市国という世界で最も小さな主権国家が成立した。このことは、ムッソリーニのファシスト党政権が独裁権力を維持するためにはカトリック勢力を和解した方がいいという打算で行われた。そしてムッソリーニの読み通り、ラテラノ条約締結はムッソリーニの英断と評価され、イタリア国内及び世界中のカトリック教徒に歓迎され、その権威を高めることになった。
ファシスト政権の信任 ラテラノ条約を調印するとファシスト政権はただちに国民投票を実施し、国会を審議会として400人の議員候補者リストを承認するかどうか投票で答えさせた。教会勢力が全面的に同調したことによって賛成票は850万、反対票はわずか13万6000票という「目を疑うような大差」でファシスト政権は国民から信任された。<ダカン『イタリアの歴史』2005 創土社 p.318>
 ラテラノ条約の締結は1929年2月であったが、その年10月にはニューヨークの株式が大暴落し世界恐慌が始まり、まもなくイタリアにも不況の波が押し寄せてくることとなる。

ヴァチカン市国の成立

(引用)1870年ローマがイタリア軍に占領されて、法王はバチカンにたてこもってしまってから、いわゆるローマ問題は未解決のままおかれたが、1929年2月11日法王庁とイタリア政府との間で締結されたラテラノ条約によって、このローマ問題もやっと解決を見た。この条約は、バチカン市国の創立、およびコンコルダート(政教条約、学校・青少年運動・結婚などの政治と宗教とのいわゆる政教混合問題についての協定)という方法によって長年にわたるローマ問題(「神をイタリアに、イタリアを神に」というのが目標語)を解決し、法王庁の主権確保という目的を達成したものである。‥‥ラテラノ条約締結後「バチカン市国基本法」が公布され、その第1条において、「バチカン市国の主権者たる法王は、立法司法行政の全権を有す」と宣しているが、これは従来の事実に法的形式を与えたまでであって、‥‥ラテラノ条約は、いままで外からの圧力で十分な発揮を妨げられていた法王主権を、正常に発揮できるようにしたところに意義があったわけである。<小林珍雄『法王庁』岩波新書 p.26-28>

戦後のラテラノ条約

 第二次世界大戦でムッソリーニ独裁が倒されても、ラテラノ条約(協定)は解消されず継続された。つまり、ヴァティカン市国はそのまま存続することが認められた。しかし、カトリックを唯一の宗教とする点には、国民の多くの不満が残った。次第に世俗教育の要求が国民の間で強まり、ようやく1984年に改正され、カトリックを唯一の宗教とする点は解消された。
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