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ガリバルディ

19世紀後半のイタリア統一運動(リソルジメント)で活躍した軍事指導者。青年イタリアの影響を受けながら各地で蜂起に参加。1848年ミラノ蜂起、ローマ共和国、サルデーニャ王国の対オーストリア戦争などに義勇兵を率いて戦うも敗れる。1860年に千人隊を率いてシチリアと南イタリアを征服し、その地をサルデーニャ国王に献上したことでイタリア統一がほぼ達成され、翌年イタリア王国が成立した。

ガリバルディ
Giuseppe Garibaldi
1807-1882
 ガリバルディは、ニース生まれの船乗りで、イタリアの統一を目指す運動(リソルジメント)が展開される中、マッツィーニ青年イタリアに加わって、共和主義に傾倒し、たびたびの蜂起に加わり、失敗して南米への亡命生活を送りながら、軍事的才能を発揮するようになった。
 1848年のミラノ蜂起や翌年のローマ共和国成立でも活躍したが、それらが弾圧された後、統一運動の主流がサルデーニャ王国に移り1859年4月にイタリア統一戦争が始まると最前線で戦った。しかしその戦争がサルデーニャと同盟したフランスのナポレオン3世が途中でオーストリアと講和したため中断され、ガリバルディ軍も撤退せざるを得なかった。

シチリアと南イタリアを征服

 翌1860年5月、独自の判断で義勇兵千人隊(赤シャツ隊とも言われた)を組織してシチリア島遠征を敢行、パレルモに入城してシチリア占領に成功、さらイタリア半島南部のナポリも征服し、その軍事的成功で一気にイタリア統一運動の英雄となった。カヴールはガリバルディに主導権を握られないようにシチリア・南イタリアで住民投票を行ってサルデーニャ帰属を決めさせた上で、1860年10月26日、ガリバルディと国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世と会見させ、ガリバルディは征服地の献上に応じた。
 これによって、翌1861年3月、イタリア王国が成立した。しかし、それより前、カヴールがニースをフランスに割譲したことから両者は対立しており、ガリバルディは新生イタリア王国の中枢には入れなかった。
 その後、イタリア領になっていなかったローマやヴェネティアの併合を目指した戦いに参加したり、普仏戦争ではフランス軍を支援して戦ったり、生涯を軍事指導者としてすごした。その間、イタリアを統一に導いた英雄として常に耳目を集めながら、1882年に死去した。マッツィーニ、ガリバルディ、カヴールは現在もイタリア統一の三傑としての名声を保っている。<藤澤房俊『ガリバルディ』2016 中公新書/同『「イタリア」誕生の物語』2012 講談社選書メチエ、北村暁夫『イタリア史10講』2019 岩波新書 などをもとに構成。以下同じ>

ガリバルディの生涯のハイライト

マッツィーニとの邂逅 ガリバルディは船乗りとなった後、1831年に青年イタリアが結成されたことを知って感激し、1834年にマッツィーニに会って、二人は固い握手をした、とされている。この話はいくつかのガルバルディの伝記には取り上げられているが、本人の回想録には出てこない。どうやら1834年に二人が会ったというのは後日の創作らしく、二人が顔を合わせたのは1848年のミラノにおいてだった。ガリバルディは運動の先駆者マッツィーニを常に高く評価していたが、どうやら人間的にはその禁欲的で理性的な感じは、思想よりは心情と行動の人であったガリバルディとは合わなかったらしい。<藤澤房俊『ガリバルディ』2016 中公新書 p.23-28>
ウルグアイでのガリバルディ 1834年、青年イタリアが崩壊してガリバルディもサルデーニャ海軍を脱走、イギリス人船員になりすまして1835年、マルセイユから乗船してブラジルのリオ=デ=ジャネイロに向かった。南米での亡命生活は28歳から40歳までの13年間に及んだ。ブラジルに着いた頃、南部のリオ・グランデ・ド・スール地方で分離独立運動が起こっていた。ガルバルディはただちに運動に加わり、私掠船の船長となってブラジルと戦った。その大義名分は黒人奴隷制を続けているブラジルで、奴隷を解放することだった。しかし、独立運動は内紛のために失敗に帰し、1841年、拠点をウルグアイに移し、首都モンテビデオでウルグアイ軍に投じてイタリア人移民を組織して「イタリア軍団」をつくり、アルゼンチンとの戦争を指揮した。ガリバルディのイタリア軍団は各地でアルゼンチン軍を破り、その報道はイタリアにももたらされ、知られるようになった。
 この南米での亡命生活中、ガリバルディは三つの貴重なものを得た。一つはゲリラ戦の戦術であり、これは後のイタリアでの戦闘に大いに生かされた。もう一つはブラジル人の妻アニータを得たことであった。アニータとの間には二人の男の子が生まれ、やがて母子を伴ってイタリアに帰り困難な闘いをともにすることとなる。最後の一つが「赤シャツの誕生」だった(後述)。
ミラノの蜂起 1848年革命の嵐がヨーロッパに巻き起こると、ガリバルディは直ちに帰国、6月23日にニースに着いた。奴隷から解放された黒人アギャールが副官として付き添っていた。彼は生涯をガリバルディの側で活動している。他に200人足らずの義勇兵が従った。ただちに激しい「ミラノの五日間」を戦ってオーストリア軍を撃退していたミラノ蜂起に加わり、マッツィーニと面会、サルデーニャ軍とともにその戦いに加わり1500名を率いて戦った。この第1次イタリア独立戦争とも言われる戦いでは、サルデーニャ軍が敗れたため、ミラノが孤立し、間もなく臨時政府も崩壊した。しかしガリバルディは戦いを止めず、孤独な戦いを続け、各地を転戦した。
ローマ共和国の戦い 翌1849年正月、ローマでも革命の動きが高まり、教皇ピオ9世が逃亡したとの知らせを受け、ガリバルディの赤シャツ隊は厳冬のアペニン山脈を越えてローマに向かった。2月9日にローマ共和国が成立、ガリバルディも議員として共和政議会に参加した。しかし、再び立ったサルデーニャ王国軍は3月のノヴァーラの戦いで敗れ、国王カルロ=アルベルトは退位したため、ローマ共和国は危機に陥った。マッツィーニがローマに迎えられ、三頭政治を開始したが、今度はフランスで大統領となったルイ=ナポレオンが国内のカトリック勢力の支持を得ようとしてローマ教皇救済に乗り出し、4月にフランス軍がローマ共和国攻撃を開始した。ガリバルディはローマ共和国防衛の戦いでも奮闘し、一時はフランス軍を撃退したが、追撃を主張するガリバルディに対し、マッツィーニはフランスとの妥協を図るなど対応が分裂し、ついにフランス軍の総攻撃によって陥落し、ガリバルディはヴェネツィアを目指して逃避行に入った。
逃避行 身重の妻アニータが一緒に行動したが、過労のため、途中のラヴェンナで力尽きて息絶えた。墓穴を掘る間もなくいたいに土をかけただけで急いで立ち去らなければならなかった。オーストリア軍とフランス軍の追跡は厳しく、ヴェネツィアに入ることはできず、荷馬車に隠れてトスカーナに逃れた。この悲劇的な逃避行も、後にガリバルディ神話の一つになる。
 ジェノヴァに逃れたガリバルディは、1850年にはニューヨークに亡命、51年にかけて船乗りとして中国の広東やオーストラリアなどに出かけている。54年にジェノヴァに戻り、サルデーニャ島近くの小島カプレーラ島を購入して隠棲生活に入った。

イタリア統一戦争

 この間、情勢は大きく転換、1852年にサルデーニャ王国の首相となったカヴールクリミア戦争に参戦し、巧みな外交でフランスのナポレオン3世の信頼を得てプロンビエールの密約を結んだ上で、1859年4月、オーストリアに宣戦、イタリア統一戦争が始まった。
 サルデーニャ・フランス同盟軍はミラノを解放し、ソルフェリーノの戦いでは大規模な戦闘となり大きな犠牲をたしたが辛勝した。ガリバルディは熱烈な共和主義者であったので、カヴールの進めるイタリア統一には初め反対であったが、オーストリアからの解放の戦いが始まると積極的に参加、アルプス猟騎兵隊を率いてオーストリア国境でゲリラ戦を展開した。
 しかし、突如ナポレオン3世がヴィラフランカの和約でオーストリアと単独講和したため、戦争は中断されることになった。ガリバルディもやむなく戦闘を中止した。その結果、ロンバルディアはサルデーニャに併合されたが、ヴェネツィアはオーストリア支配下にとどまることとなった。
シチリア遠征 1860年3月にはカヴールがトスカーナなど中部イタリアを併合を認めさせるため、フランスにサヴォイアニースを割譲(住民投票で帰属を決めたが事実上の割譲)したことにガリバルディは激怒し、関係は悪化した。ガリバルディは独自に事態打開のため行動を開始、1860年5月、「千人隊」(南米以来の赤シャツ隊ともいわれた)を率いて、海路シチリア島に向かい、西岸に上陸して両シチリア王国のブルボン朝軍と戦い、パレルモに入城、シチリア島を占領した。さらにガリバルディと千人隊はメッシーナ海峡を渡りイタリア本土に侵攻、9月7日にナポリに入城した。ガリバルディは市民から大歓迎を受け、国王フランチェスコ2世は退去した。こうしてブルボン家の支配する両シチリア王国は消滅、ガリバルディによって征服された。ガリバルディの優れた軍事的指導力に驚愕したカヴールは、急きょシチリアと南イタリアで住民投票を実施、サルデーニャへの併合を可決させた。
 ガリバルディは更にローマの教皇国家を解放することをめざし北上しようとしたが、それは教皇を護衛しているフランスとの決定的な対立となるので、カヴールはそれを阻止しようとし、またマッツィーニなども段階的な統一が現実的と考え、ガリバルディの北上に反対した。ガリバルディは軍事的には成功したが政治的には主導権を握ることはできなかった。
ガリバルディと国王

ガリバルディとヴィットリオ=エマヌエレ2世の会見

サルデーニャ王との会見 ヴィットリオ=エマヌエーレ2世も急きょ半島を南下し、1860年10月25日、ナポリ北方のテアーノで両者は会見し、ガリバルディはシチリアとナポリの統治権を無条件で国王に献上した。これによってサルデーニャ王国主体のイタリアの統一が大きく進んだ。
 ガリバルディは、熱心な共和主義者であったが、マッツィーニのような原理的なものではなく、政治的見識よりも「イタリアの統一」という民族意識を優先した。シチリア遠征を開始するにあたっての千人隊への演説でもこの戦いは「ヴィットーリオ・エマヌエーレとイタリア」のためだとしてそれを標語にした。イタリア統一のためには共和政の理念よりも国王の権威が必要と考えたものと思われる。
その後のガリバルディ ガリバルディはさらに1年間の南部イタリアの支配、千人隊の正規軍への編入などを求めたがカヴールの反対で却下された。かわりに正規軍の将軍の地位や大勲章の授与、貴族の称号、城や船の供与などが国王から提案されたが、ガリバルディはそのすべてを拒否、11月にナポリを離れカプレーラ島に帰った。これが事実上のガリバルディによるイタリア統一運動の終焉であった。
 1861年3月、サルデーニャ王国は新たにイタリア王国として正式に発足した。ガリバルディの名声は衰えることなく、一時はイタリア王国の議会に議員として迎えられたが、激しくカヴールを批判して孤立し、国内では厄介者扱いされる状態となった。その後も残されたローマ遠征と共和政の実現に意欲を燃やしたが、共和政は実現することなく、1882年に生涯を閉じた。

Episode ガリバルディと赤シャツ隊の真相

 ガリバルディの代名詞でもある「赤シャツ隊」が、最初に現れたのは南米亡命中のウルグアイでのイタリア軍団だった。しかしその真相は次のようなことだった。
(引用)イタリア軍団の制服は、後にガリバルディ伝説とも深くかかわる赤シャツであった。シャツといっても、ウールの長上着で、ベルトで締めるものである。赤は政治的な意味をもつものでも、革命をさすものでもない。いかにも派手で、人目につく、ガリバルディの義勇兵部隊の象徴となる赤シャツの誕生は、イタリア軍団の資金不足の結果であり、そこにはドラマもなにも存在しない。
 血がついても汚れが目立たない、ブエノス・アイレスの食肉加工職人用の赤いシャツが戦争で出荷できずに、モンテビデオの倉庫に山積みになっていた。それを安く買いとって、イタリア軍団員の制服にしたというものである。<藤澤房俊『ガリバルディ』2016 中公新書 p.44>
 ガリバルディのシチリア遠征は急に決まったのでジェノヴァの近くの港を出たときの人数は1089名にすぎなかった。そこから「千人隊」の名称が付けられた。またガリバルディの赤シャツ姿はすでに有名だったので「赤シャツ隊」とも言われたが、全員のユニフォームだったわけではなく、実際に赤シャツは50着しか用意されず隊員は普段着のまま参加した。ガリバルディの赤シャツは目立ちすぎて標的になたため、隊員はできるだけ彼の前に立ちはだかるようにした。<『世界の歴史』22 1999 中公論新社 北原敦執筆 p.250>

Episode リンカーンに招聘される

 イタリア王国が正式に成立した1861年、アメリカ合衆国で南北戦争が始まった。大統領リンカンは、ガリバルディの軍人としての能力を高く評価していたので、北軍の司令官就任を要請した。しかしガリバルディは北軍の最高司令官に就任することと奴隷制の廃止という二つの条件を出した。リンカンは、軍隊の最高地位を外国人に与えることは不可能であり、奴隷制廃止には時間がかかるとして返答した。南米では自ら奴隷制廃止のために戦い、1860年にはロシアで農奴解放令が出されたことを知っていたであろうガリバルディは、結局リンカンの要請を断った。<藤澤房俊『ガリバルディ』2016 中公新書 p.168>
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藤澤房俊
『ガリバルディ』
2016 中公新書

藤澤房俊
『「イタリア」誕生の物語』
2012 講談社選書メチエ

北村暁夫
『イタリア史10講』
2019 岩波新書