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ヴィラフランカの和約

イタリア統一戦争の最中の1859年、フランスのナポレオン3世がオーストリアと単独で講和した条約。サルデーニャ王国のイタリア統一は頓挫した。

 1859年7月8日、イタリア統一戦争(第2次イタリア=オーストリア戦争)のさなか、フランスのナポレオン3世がオーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世との間で結んだ単独講和。同盟国サルデーニャ王国の首相カヴールに通告なしに行われた。 → イタリア

フランスとオーストリアの講和

 北イタリアのヴェローナの近くのヴィラフランカで会見したナポレオン3世とフランツ=ヨーゼフ1世は休戦に合意し、ロンバルディアはいったんフランスに与えられた後、サルデーニャ王国に譲渡することとし、ヴェネツィア地方はオーストリア領として残すという条件で講和した。また、戦争勃発ともに君主たちが逃亡して臨時政府ができていた中部イタリアの諸公国では君主が復帰し、戦争以前の体制に戻すことも約束された。
 講和成立によりフランス軍は北イタリアから撤退、サルデーニャ軍も戦闘を中止せざるを得なかった。アルプス猟騎兵隊を率いてオーストリア国境地帯で戦っていたガリバルディもやむなく後退した。

ナポレオン3世の意図

 ナポレオン3世は戦争の長期化と、サルデーニャ王国による統一が実現した場合、ローマ教皇領が併合されればフランス国内のカトリック勢力が反発して、自らの人気にもマイナスだと考えた。また、直接的にはソルフェリーノ戦いではフランス兵約8500人以上の戦死者を出し、国内で戦争反対の世論が強くなっていたこともあげられる。さらに、このまま戦争が続けば、もう一つの強国プロイセンが、フランスの拡張を恐れてオーストリア側について参戦する可能性が高まり、全面戦争になる危惧もあった。これらを考慮し、戦争から手を引いた方がよいとナポレオン3世は判断したのであろう。

カヴールの反応

 ナポレオン3世が一方的にオーストリアと講和したことはプロンビエール密約に反する裏切りであるので、同盟国サルデーニャ王国の首相カヴールは激しく怒った。国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世が、ロンバルディアのみの併合で講和を受諾すると、抗議して首相を辞任した。

イタリア統一の新展開

 こうしてイタリア統一戦争は中断され、カヴールの構想したヴェネツィアまでの北イタリアの解放は頓挫した。しかし、粘り強い外交が身上のカヴールはフランスとの関係を断つことは不利と考えて間もなく首相に復帰、翌1860年3月にはサヴォイアニースを割譲(形式的には住民投票で帰属を決めたが)、その代わりに中部イタリア併合をナポレオン3世に認めさせた。  一方このような外交手段ではなく、実力でイタリア統一を目指したガリバルディは同年5月、シチリア遠征に向かい、新しい展開へと進んでいく。
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