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スペイン継承戦争

1701~13年、フランス・ルイ14世が孫フェリペをスペイン王の継承者としたことを巡って起こった、フランス・スペイン連合軍とイギリス・オランダ・オーストリア(神聖ローマ皇帝)・プロイセンなどの連合軍との戦争。またフランス・イギリス両国はアメリカ大陸においてもアン女王戦争で衝突した。一連の英仏の覇権をめぐる戦争の一つ。フランス・スペイン軍が劣勢となり、仏英間は1713年のユトレヒト条約で戦争終結、仏墺間は翌14年のラシュタット条約で講和した。結果としてフェリペのスペイン王位は認められたが、実質的にはイギリスが領土を拡張、アシエント(奴隷供給権)の獲得などで繁栄の足場を築いた。

スペイン王位継承問題

スペイン継承戦争 三国王家の関係系図

スペイン継承戦争系図
 スペイン・ハプスブルク家の当主カルロス2世は病弱であったが、王位継承者が無かった。その王位継承をめぐって、ヨーロッパを二分する戦争となったのは、次のような事情があった。
フランス王ルイ14世 フランスブルボン朝ルイ14世は王妃がカルロス2世の姉マリア=テレサであり、母もスペイン・ハプスブルク家出身のアンヌ=ドートリッシュであったのでスペイン王位継承権を主張、孫のアンジュー公フィリップ(スペイン語読みでフェリペ)にスペイン王位を継承させようとした。ルイ14世は親政を開始してから一連の対外戦争を続けていたが、直近のファルツ戦争(アウクスブルク同盟戦争)の結果として1697年に締結したライスワイク条約ではフランスとして得るものは少なかったため、国民の不満が高まっていた。そのルイ14世が、孫をスペイン王位に就けようとしたのは、失われつつあった栄光と権威を復活させる最後のチャンスと考えたからであった。またもしスペイン王位がオーストリア=ハプスブルク家のものとなったら、フランスは挟撃されることになるので、かつてのフランソワ1世の苦悩が再現されることだけは避けなければならなかった。
神聖ローマ皇帝レオポルト1世 それに対して神聖ローマ皇帝であるオーストリア=ハプスブルク家レオポルト1世はそのころ第2次ウィーン包囲の危機を脱し、1699年カルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリーを獲得して勢いを強め、フランスのルイ14世には強い対抗心を燃やしていた。レオポルト1世はカルロス2世の妹マルガリータ=テレサと妃とし、かつ母もカルロス2世の父フェリペ4世の妹であるので、スペインの王継承権を主張し、次男(母親はマルガリータ=テレサではない。系図参照)のカール(スペイン語読みでカルロス。後の神聖ローマ皇帝カール6世マリア=テレジアの父)をスペイン王にしようとした。つまり、血縁関係ではフランス王ルイ14世も神聖ローマ皇帝レイポルト1世も、スペイン王家ハプスブルク家との間に同じような深い関係があった。
スペイン王カルロス2世の死 他にもルイ14世の甥のオルレアン家のフィリップ、バイエルン選帝侯、サヴォイア公、ポルトガル王がそれぞれスペイン王室との血縁関係を理由に王位継承権を主張した。1700年10月、死期の近づいたカルロス2世が署名した遺言書で後継に指名されたのは、フランス王位継承権を放棄することを条件にフランスのアンジュー公フィリップであった。その1ヶ月後にカルロス2世は死去、1701年2月にフィリップはマドリードに入城してスペイン王フェリペ5世となった。カルロス2世は同じハプスブルク家ではあるが、レオポルト1世の子がスペイン王となれば、かつてのカール5世(カルロス1世)の時代に戻ってしまうことを避けなければならない、と考えたものと思われる。
戦争の開始 ブルボン家のフィリップがフェリペ5世として即位したことで決着がついたかに見えたが、問題が生じた。それは新国王フェリペ5世がフランス王位継承権を放棄していないことだった。このままだと、将来、フランスとスペインが一体となることもありうる。また、フェリペ5世はさっそくアメリカにおける黒人奴隷貿易の独占権(アシエント)をフランスの貿易会社に与えるという便宜供与を行った。これに対してイギリス・オランダが強く反発、1701年オーストリア(神聖ローマ皇帝)も加えて対仏大同盟(ハーグ条約)を結成してフランスに宣戦布告、スペイン継承戦争が始まった。<長谷川輝夫『聖なる王権ブルボン家』2002 講談社選書メチエ p.148>
英仏植民地戦争と併走 戦争はフランス+スペインの連合に対して、イギリス・オランダ・オーストリアの同盟というヨーロッパを二分する陣営で戦われたが、同時にフランスとイギリスはアメリカ新大陸の植民地での争いからアン女王戦争を戦っている。これは1815年まで続く第2次英仏百年戦争ともいわれる英仏植民地戦争の一環でもあった。
時代的背景と意義 なおスペイン継承戦争の当時、ヨーロッパでは北方戦争(1700~21年)でロシアとスウェーデンが戦っており、これらの絶対主義段階にある主権国家間の争いのなかから、イギリス・フランス・プロイセン・オーストリア・ロシアという五大国体制が成立していくこととなる。その中でもイギリスがやがて覇権(イギリス第一帝国)を握ることとなるきっかけはスペイン継承戦争の講和条約ユトレヒト条約であった。
重要 宗教的対立ではない 16~17世紀のヨーロッパの戦争は、カトリック国対プロテスタント国(諸侯)という宗教対立が軸となった宗教戦争を基本的な性格としていたのに対し、18世紀からの戦争は王位継承問題に伴う主権国家の領土をめぐる争いであり、宗教は対立軸ではなくなっている。このスペイン継承戦争はオーストリア=ハプスブルク家対フランスのブルボン朝の対立と植民地をめぐるイギリスとフランスの対立が軸となって展開する。プロテスタント国であるプロイセン公国はこのときカトリック国であるオーストリアを支援し、その功績で神聖ローマ皇帝からプロイセン王国となることを認められている。

戦争の経過

 同盟国側はイギリスのウィリアム3世を中心にオランダ・オーストリアが共同して軍事行動を開始した。ヨーロッパではネーデルラント・ドイツ・北イタリアが戦場となり、フランス・スペインは孤立して戦ったが、強大な陸軍と海軍を有していたので、当初は優位に戦った。しかし国内ではプロテスタントの武装蜂起があり、またオイゲン公(オーストリア軍)やマールボロ伯(イギリス軍)など同盟軍の指揮官の活躍もあり、次第に押されていった。1704年イギリスはジブラルタル占領。フランス軍はプロヴァンス地方やフランドルで敗北し、さらに1709~10年には飢饉に悩まされるようになった。さらに1702年からはアメリカ植民地でもイギリス・フランス間のアン女王戦争(1702年にウィリアム3世が事故死し、アン女王に代わった)が展開され、フランスは劣勢に陥った。
スイス人傭兵同士の戦い スペイン継承戦争はフランスのルイ14世と、神聖ローマ皇帝・オランダ・イギリスが結んだハーグ大同盟との間の戦争であった。スイス盟約者団はただちに中立宣言をした。しかし、フランス陣営には2万3000人もの、大同盟側には2万人のスイス人傭兵が働いていた。この戦争の実態は、スイス人傭兵同士の戦いであった。<森田安一『物語スイスの歴史』2000 中公新書 p.135>

二つの講和条約

 戦争中、神聖ローマ皇帝レオポルト1世は次男をスペイン皇帝カルロス3世として擁立、ここにスペイン王が同時に二人存在することになった。レオポルト1世は1705年に死去して長男ヨーゼフ1世が皇帝となったが、1711年に今度はヨーゼフ1世が急死した。となれば弟スペイン王カルロス3世が皇帝を兼ねることになる。これではかつてのカール5世のように、ヨーロッパで強大な権力が生まれることになり、列国のバランスがくずれる。そこで急きょ各国はフェリペ5世をスペイン王と認めることに傾き、1712年7月に休戦した。対フランス戦の足並みが乱れた各国は別々な講和交渉を行い、1713年、フランスとイギリス・オランダ・プロイセン・ポルトガル・サヴォイア(つまりオーストリアを除く諸国)との間のユトレヒト条約が成立、オーストリアとフランスの講和は1714年にずれ込み、ラシュタット条約が成立した。なお、カルロス3世は後に神聖ローマ皇帝カール6世となるが、その娘がマリア=テレジアである。
 これによってフェリペ5世はスペイン王と認められ、スペイン・ブルボン朝が始まった。しかし、フランスとスペインの合同は永久に禁止された。またイギリスとのアン女王戦争でも敗れたので、北アメリカ大陸の海外領土(現在のカナダの一部)をイギリスに奪われた。表面的な勝利者はオーストリアのハプスブルク家であったが、実質的に最も大きな利益を得たのはイギリスであり、その植民地帝国の基盤を築いたと言える。
 → オーストリア継承戦争
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