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アシエント

スペイン国王が与えた奴隷供給契約(許可状)のこと。16世紀から、アメリカ大陸のスペイン領にアフリカの黒人奴隷を売り込む権利はポルトガル、オランダ、フランス、イギリスなどの商人とスペイン王室の間で結ばれていた。スペイン継承戦争の結果、1713年のユトレヒト条約でフランスからイギリスに奴隷貿易の権利が譲られ、それ以後はイギリス商人は大西洋の黒人奴隷貿易を独占した。

 アシエント asiento とはスペイン国王が、アフリカの黒人を黒人奴隷としてアメリカ大陸のスペイン領に送ることを認めた「奴隷供給契約(許可状)」。スペイン領のアメリカ大陸(西インド諸島を含む)の鉱山や砂糖農園などでの苛酷な労働や天然痘などの伝染病がもたらされたことでインディオの人口が急速に減少し、その埋め合わせとしてアフリカからの黒人奴隷の輸入が始まった。スペイン国王は奴隷貿易の特許状を与える代わりに税を納めさせ、請負契約を結んだ人は実際の奴隷貿易業務を奴隷商人にやらせた。奴隷貿易は「奴隷狩り」と大西洋航路での「中間航路」で奴隷を運ぶという危険な業務であったが、請負業者、奴隷商人は帰路で西インドの砂糖などをヨーロッパに運び、それぞれに大きな利益を得た。このように、大西洋で展開された黒人奴隷貿易はスペイン王国のアシエントという制度の枠組みの中で行われたことは重要である。

スペインはなぜアシエントを他国に売り渡したか

(引用)スペインは、19世紀にいたるまで、奴隷の供給を他国人に仰いでいた。スペインは教皇の裁定(教皇子午線)を遵守してアフリカには手を出さなかったからである。また、奴隷貿易に必要な商品および資本が不足していたこともその一半の理由である。アシエントと呼ばれるスペイン領植民地にたいする奴隷供給権は、ドル箱として渇望の的となり、国際外交の舞台でしのぎを削って争われた。イギリスの重商主義者は、合法、非合法を問わず、スペイン領植民地たいする黒人および自国製品の貿易を擁護した。スペイン人は、直接、貨幣で支払ったから、イギリスに流入する金銀はますます増大することが期待され、この点で対スペイン貿易は、独自の価値をもっていた。<エリック・ウィリアムズ/中山毅訳『資本主義と奴隷制』1944初刊 訳本1968初刊 ちくま学芸文庫版2020刊 p.60>
イギリスにとってのアシエントの意味 アシエントは複雑な経緯の後に、イギリスが1713年ユトレヒト条約によってフランスから譲渡されるが、それはスペイン領植民地への黒人奴隷供給であり、イギリスはそれ以外にも自国領の北米植民地、西インド諸島植民地(中心はジャマイカ)、フランス領へも奴隷を供給した。つまりアシエントを得ただけでイギリスの奴隷貿易が可能になったわけではないが、大西洋三角貿易が一段と活発になる契機にはなった。

アシエントの経緯

 「アシエント」はもともと、スペイン王室の公益事業またはその管理のために、王室と民間人との間でとりかわされた請負契約のことであったが、16世紀以降はアメリカ新大陸征服と植民地開発に伴う労働力不足を解決する目的で、黒人奴隷を導入するための請負契約を意味するようになった。アシエントは、規模(黒人奴隷数)、期間、供給先が決められていおり、奴隷数に応じて請負業者は王室に契約料と税を納める仕組みなっていた。<以下、布留川正博『奴隷船の世界史』2019 岩波新書 p.37-58>
 アシエントの最初の許可状は1513年に、スペイン王室によって発行された。そこでは契約者であるポルトガル商人は奴隷一人あたり2ドゥカートの税を王室に納めなければならなかった。カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール1世)は1518年に臣下の一人に褒賞として独占的許可状を与えたが、それは五年間に4000人の黒人奴隷をカリブ海諸島に運ぶことができるという内容であり、その権利はさらにジェノヴァ人商人に25000ドゥカートで売却されている。
 1528年には、フッガー家と並ぶドイツの大富豪ウェルザー家の代理人が2万ドゥカートを支払い、許可状が与えられた。この時は奴隷売却先にカリブ海諸島以外にもメキシコ地域が加えられた。1532年にはアシエントの許可状発行の権限が王室から新世界との貿易を統括するインディアス商務院に移された。
 1580年にポルトガル王のアヴィス家が断絶したためスペインに併合されると、ポルトガル商人がアシエント権を独占的に獲得し、新大陸への奴隷供給を支配した。

ポルトガル商人のアシエント独占

 このように16世紀にはアシエントの特許状は、王室と特別な関係にあった商人や王の側近、新大陸征服に功績のあったものなどに与えられていたが、直接奴隷貿易業務に当たったのははじめはポルトガル人の奴隷商人だった。例えば、1595年にはポルトガル人のペドロ・ゴメス・レイネールに、年間4250人の黒人奴隷を9年間、カルタヘナ(現在のコロンビア)に供給することを、年間10万ドゥカート支払うことで認められた。
 スペイン王室は1595年には新大陸の自国領への奴隷貿易に関し、従来の許可制に代わって独占的請負制を導入した。スペイン王室は契約料と税を得たが、請け負った商人はアフリカ西岸から黒人奴隷を西インドに運び、西インドの砂糖をヨーロッパにもたらした。

オランダ、フランス、イギリスの進出

 16世紀を通して、西インドでインディオ人口が減少し、黒人奴隷の需要が多くなったので、大西洋奴隷貿易は大きな利益を生むことが見込まれ、各国はアシエントの獲得を目指して熾烈な競争をするようになった。
 1640年にポルトガルが独立を回復すると、スペインがアシエント権を与える先は動揺し、それを機に新たにオランダ、フランス、イギリスがその獲得に乗り出し、それらの国の奴隷商人がアフリカに拠点を設けるるようになった。さらにジェノヴァ商人やスペイン商人でアシエント権を認められた者もあり、このころからオランダ、イギリス、フランスがアフリカ沿岸、カリブ海域に進出し奴隷貿易に食い込んできて、盛んに黒人奴隷の密貿易を行うようになった。ポルトガルは17世紀に急速に衰え、1685年にはそれまで「裏道」から奴隷をスペイン領に運んでいたオランダ商人が、アシエント権を「落札」し、正式にアシエント貿易に携わることとなった。

イギリスによるアシエント奴隷貿易

 1700年にはフランスのルイ14世の孫フェリペ5世がスペイン王になったことから、フランスのギニア会社がスペイン領アメリカへの奴隷貿易を独占することとなったが、1701年に王位継承をめぐってスペイン継承戦争(アメリカ植民地では同時に英仏間のアン女王戦争)が起こったため奴隷供給が阻害される事態となった。
 その結果、有利な戦いを進めたイギリスが、講和条約の1713年ユトレヒト条約で、それまでフランスが持っていたアシエントの権利を譲渡された。イギリスは黒人奴隷貿易業務のためにイギリス南海会社を設立、スペインとの条約の一部としてアシエント、つまり黒人奴隷貿易の権利を認めさせた。
 イギリスの南海会社によるアシエント奴隷貿易では、契約で年間4800の奴隷を供給することになっていたが、1715~18年は年平均で3200人、1722~26年は4650人、1730~38年は3890人という数字が知られている。スペイン領アメリカに導入された黒人奴隷は、金・銀などの鉱山の他、アシエンダといわれた大農園、砂糖、タバコ、綿花、コカなどのプランテーションでの主要な労働力として使役された。
 これによってイギリスの黒人奴隷貿易が本格化させ、折からの国内の工業生産の展開を受けて、本国からはアフリカに工業製品を輸出し、アフリカから黒人奴隷を北米大陸・西インド諸島に運び、帰りに新大陸産の綿花や穀物、ラム酒などをもたらすといういわゆる大西洋三角貿易を展開するようになる。
注意 スペインの中南米植民地における大農園経営を意味するアシエンダ hacienda とは異なることに注意。また、似ているものに、アジェンダ Agenda があるが、これは最近よく耳にするようになったが「会議の議題」とか「行動計画」といった意味の普通名詞。もうひとつ、アジェンデ Allende は、もとのチリ大統領。

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書籍案内

布留川正博
『奴隷船の世界史』
2019 岩波新書

最近明らかになった奴隷船の記録データベースをもとに黒人奴隷制を分析。わかりずらいアシエントについても詳しく解説している。


池本幸三/布留川正博
下山晃
『近代世界と奴隷制』
1995 人文書院

大西洋奴隷貿易を詳しく論述。アシエントについて詳しく知りたい人向け。資料、図版が豊富。

E.ウィリアムズ
中山毅訳
『資本主義と奴隷制』
初刊 1944
ちくま学芸文庫 2020

文庫本化で手近に読めるようになった。西インド諸島出身の黒人歴史家による鋭い指摘に富んだ奴隷貿易論。