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スペイン=ハプルブルク家

1556年、カール5世を最後にハプスブルク家が分裂した後、スペイン王として分かれた家系。フェリペ2世の全盛期の後、オランダの独立から衰退が始まり、1700年に断絶、スペイン継承戦争が起こった。

 ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世(スペイン王としてはカルロス1世)は、1556年、皇帝位を退くにあたり、広大はハプスブルク帝国の支配、管理は困難と考え、帝国を分割、その子フェリペ2世にスペイン、ネーデルラント、南イタリアなどを統治させた。これがハプスブルク家の分裂であり、フェリペの子孫の家系をスペイン=ハプスブルク家という。その本国であるスペイン1561年に都をマドリードに定め、16世紀に「太陽の沈まぬ国」と言われた全盛期を迎えた。ただし、オーストリア=ハプスブルク家との関係は、基本的には対立・抗争することなく、その勢力範囲を分担し、フランスのブルボン朝を共通の敵としていた。

全盛期から衰退期へ

 フェリペ2世の1568年、その支配地域であったネーデルラントの北部7州で、カトリック信仰の強制などに対するカルヴァン派新教徒の反乱がはじまり、81年に独立を宣言した。
 地中海の制海権をめぐっては、オスマン帝国海軍を1571年レパントの海戦で破り、スペイン艦隊は無敵艦隊と言われたが、ただちに地中海の制海権を獲得したわけではなかった。無敵艦隊は、ネーデルラント独立戦争で、独立軍を支援しているイギリスを討つために派遣されたが、1588年にイギリス海軍に敗れてしまった。

オランダ・イギリスの台頭

 ネーデルラント独立戦争は長期にわたって続いたが、1609年にはネーデルラントと講和して、事実上その独立を認めざるを得なくなった。オランダがスペインから独立し、またイギリス海軍がスペイン海軍を破ったことは、オランダとイギリスが新興勢力として「太陽の沈まない国」といわれたスペインを脅かす勢力となったことを意味していた。同時に、オランダ・イギリスはともにプロテスタント国家であり、カトリック教国であるスペインとの戦争は宗教戦争の意味ももっていた。17世紀には、ヨーロッパのドイツで始まった宗教戦争である三十年戦争に対してもカトリック国側として参戦したが、ついに主導権を握ることはできず、1648年ウェストファリア条約では最終的にオランダの独立を承認しなければならなかった。この間、フェリペ3世・4世と続いたスペイン=ハプスブルク家は急速に衰退していった。 → スペインの衰退
 スペイン=ハプスブルク家の衰退の背景には、新大陸からもたらされた銀などの富を、巨額な軍事費に浪費し、ヨーロッパの他の領土や植民地からの資源に依存するのみで毛織物以外の国内産業を育てるなどの努力を怠ったためであると考えられている。

スペイン継承戦争

 スペイン=ハプスブルク家はカルロス2世を最後に1700年に断絶した。その王位継承をめぐってフランス王ルイ14世が介入し、孫のフィリップを王位につけようとした。それに対してオーストリア=ハプスブルク家レオポルト1世も次男カールをスペイン王としようとしたためヨーロッパを二分する対立が生じた。イギリスやオランダはフランス王がスペイン王都一帯になることを警戒、オーストリアと結んで、翌1701年からスペイン継承戦争が始まった。その結果、ユトレヒト条約によってフィリップがフェリペ5世としてスペイン王位を継承することが承認され、スペイン=ブルボン王朝が成立した。 → スペイン
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