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第一次世界大戦

1914年7月28日から1918年11月11日の4年3ヶ月続いた、人類最初の世界戦争。帝国主義国家がドイツ・オーストリアを中心とした同盟国とイギリス・フランス・ロシアを中心とした協商国の二陣営に分かれ、ヨーロッパを主戦場として戦い、オスマン帝国が同盟国、日本が協商国側に加わって世界的規模となった。総力戦という戦争の性格や飛行機、潜水艦、毒ガスなど新しい武器が出現し、戦争の形態を一変させた。1917年のアメリカの参戦によって協商側の勝利となったが、戦争の過程でロシア革命が勃発、ソヴィエト=ロシアの労働者政権が出現し、各地の民族運動も激化した。この大戦によってドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・ロシア帝国・オスマン帝国などは消滅した。戦後のパリ講和会議の結果、1919年にヴェルサイユ条約が締結され、国際連盟が発足して集団安全保障を模索することとなったが、対立の根を残したため、20年後には第二次世界大戦が起こった。

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(1)第一次世界大戦の概要と世界史的ポイント

帝国主義間の集団的自衛権思想の破綻 19世紀末から帝国主義諸国はイギリスの3C政策、ドイツの3B政策に見られる世界戦略を推し進め、アフリカ、中東、南アジア、中国、太平洋地域で世界分割に狂奔していた。バルカン半島ではロシアの南下政策とオーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合による対立がバルカン問題として深刻化していた。当時は、帝国主義国が軍事同盟を結んでバランスを取ることによって抑止されるというビスマルク外交以来の集団的自衛権を根拠とした国際理念が通用しており、世界戦争は回避あるいは抑止されるとみられていたが、それは1914年6月28日、サライェヴォの一発の銃弾でもろくも破綻したといえる。
戦火の拡大と総力戦化 1914年7月28日、オーストリアがセルビアに宣戦布告したことから、ドイツ・オーストリアの同盟国側、ロシア・フランス・イギリスの協商国側との世界戦争に拡大した。ドイツは8月1日にロシア、8月3日にフランスにそれぞれ宣戦布告、8月4日に中立国ベルギーに侵攻した。それを受けて同日、イギリスがドイツに宣戦した。この日、アメリカは中立を宣言した。
 戦闘はほとんどヨーロッパのドイツの東西で東部戦線、西部戦線で展開されたが、他にオスマン帝国ブルガリアが同盟国側に参戦したので、バルカン半島から西アジアにかけての広い範囲に戦線がひろがた。さらにドイツ勢力圏の及んだアフリカでの戦闘や、中国・南太平洋のドイツ権益に対して日本が参戦して攻撃するなど、地球的規模で戦争が広がった。また、初期の想定に反して戦争は長期化し、各国とも戦闘力を維持する国内経済、産業、動員態勢の強化を迫られ、一部の専門的な職業軍人・軍隊だけが戦う戦争ではなく、国家を挙げた総力戦とならざるをえなくなった。
大量殺戮兵器の出現 また戦争の形態は高度に技術化され、飛行機潜水艦戦車毒ガスなど新しい武器を出現させ、戦争は戦闘員のみならず、一般市民をまきこみ、広範な犠牲を人的、物的に及ぼす戦争となった。このような戦争形態の変化は約百年前のナポレオン戦争に萌芽があったが、第一次世界大戦で徴兵制度、国民動員、科学技術の戦争利用、秘密外交などの現代の戦争の要素がさらに鮮明となった。
アメリカの参戦とロシア革命 戦争の長期化、戦線の拡大、国民生活への犠牲の増大は、次第に各国での厭戦気運を高めていったが、決定的な転換点となったのは、1917年4月6日アメリカの参戦1917年11月7日ロシア革命(第2次)であった。アメリカの参戦は西部戦線におけるドイツの前進を阻み、ロシア革命は東部戦線での単独講和の可能性を生み出した。ドイツ国内でも兵士・労働者のドイツ革命が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世が退位してオランダに亡命、1918年11月11日に停戦協定が結ばれ、戦争は終結した。
集団安全保障の理念への転換 翌年パリ講和会議が始まり、1919年にヴェルサイユ条約として講和条約が締結され、新たな国際的平和維持機構として国際連盟を発足させ、集団安全保障を新たな国際理念とする世界に転換した。しかし、ヴェルサイユ体制と言われる戦後体制は様々な問題点をかかえ、大戦後のファシズムの台頭、アジアの民族主義の台頭という新たな試練に耐えなければならなくなり、20年後の1939年の第二次世界大戦の勃発を防ぐことはできなかった。
民族独立の動き 一言で言えば第一次世界大戦は帝国主義国家間の領土的野心の矛盾が修復できない飽和点に達して起こったのであるが、帝国主義の犠牲となっていた植民地・被抑圧民族にとっては自立の好機となった。民族自決の理念の下に、ヨーロッパの旧帝国の抑圧を受けていた諸民族(東欧諸国など)は自立したが、インド、中国などの民族運動はさらに抑圧が続いた。中東ではオスマン帝国の崩壊に乗じてイギリス・フランスによって新たな勢力圏分割が行われ、さらにユダヤ人国家の建設が具体化することによって、現在に続く中東問題の原因を作った。

(2)第一次世界大戦の原因

戦争の原因

 根本的な要因としては、列強の領土・植民地・勢力圏をめぐっての対立から起こった帝国主義戦争である。列強は19世紀末から各地で衝突を繰り返していたが、主としてバルカン問題におけるオーストリアとセルビアの対立に、それぞれ背後についているドイツとロシアが応援する形となり、またヴィルヘルム2世世界政策として展開した3B政策などが西アジアやアフリカにおいてイギリスの3C政策やフランスの植民地政策が衝突したことなどから二大陣営が形成されることとなった。さらにヨーロッパの帝国主義列強がアジア・アフリカに植民地を所有していたことから、植民地における情勢が複雑に関係した。ドイツ側についたオスマン帝国に対して領内のアラブ人勢力をイギリスが支援して西アジアにも戦争は拡大し、東アジアでは日英同盟を口実とした日本が中国や太平洋のドイツ権益を攻撃した。こうしてこの戦争は人類最初の「世界戦争」となった。

戦争目的の宣伝

 本質は帝国主義列強が進めた、秘密軍事同盟による勢力均衡による平和維持という国際政治が破綻したために起こった戦争であったが、アメリカ合衆国が参戦すると、専制政治に対する民主主義(デモクラシー)の維持のための戦いという戦争目的が宣伝されるようになった。 (引用)連合諸国は、この戦争を“カイザー(ドイツ皇帝)の専制政治”に対するデモクラシーの戦い、世界支配をめざすドイツ軍国主義を打倒して国際正義を維持し小国の権利を擁護するための戦争であると称したが、アメリカの参戦後はアメリカ大統領ウィルソンが唱えた“デモクラシーが栄え得る世界にするための戦争”、“戦争をなくすための戦争(a war to end war)”という標語が高く掲げられるにいたった。これに対して、独墺側諸国は、戦争をもって民族的対立を防衛するための戦いであると宣伝したが、次いでやがて、反動的なロシア・頽廃したフランス・偽善的なイギリスの打倒をその戦争目的として標榜するにいたった。<岡義武『国際政治史』1955 再刊 2009 岩波現代文庫 p.167>

交戦国

 帝国主義の列強が同盟国側と連合国側の二陣営に分かれ、それに周辺諸国が利害関係の対立、領土的野心などの思惑からいずれかの陣営に加わり、世界が大きく二分されることとなった。

反戦運動とその挫折

 各国では戦争反対の声も多かった。特に労働組合と社会主義政党は、帝国主義戦争に反対の立場を取っていたので、第2インターナショナルもただちに戦争反対の声明を出した。フランスではジョレスがもっとも熱心に戦争反対を叫んだ。しかし彼は、開戦直後に暗殺されてしまった。実際に戦争が始まると、各国の社会主義政党も次第に自国の戦争を支持する側に回るようになり、国際連帯による反戦運動は崩壊した。またドイツでは社会民主党も戦争支持の主流派であるシャイデマンやエーベルトが優勢となり、あくまで反戦を主張したカウツキー、リープクネヒトローザ=ルクセンブルクらは独立社会党を結成して分裂した。ロシアでもメンシェヴィキエスエルは戦争支持を表明し、戦争反対を主張したボリシェヴィキは少数派となり、弾圧された。こうして第一次世界大戦は労働者の国際連帯を目指した第2インターナショナルの運動を崩壊させることとなった。

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(3)第一次世界大戦の経過

1914年7月にオーストリアがセルビアに宣戦布告して開戦となる。続いてオーストリアと結んだドイツ、オスマン帝国、ブルガリアが同盟国、セルビアと結んだロシア、フランス、イギリスなどが連合国として世界が二つの陣営に分かれ、ヨーロッパの東西の戦線が主戦場となった。日本も日英同盟を理由に協商側に参戦。アジアにも戦火が拡がり、各国が総力戦で闘う世界戦争となった。1916年ごろから長期戦の様相となった。

開戦

宣戦布告 1914年6月28日サライェヴォ事件を受けて、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世とその政府は、セルビア人の実行犯の背後には大セルビア主義の民族団体とそれを支援するセルビア政府がいるとして、ドイツ帝国ヴィルヘルム2世とその政府から白紙委任を取り付けた上で、最後通牒を発し、セルビアが拒否したことを受けて同1914年7月28日、セルビアに宣戦布告した。これが世界戦の勃発であり、続いてロシア帝国ニコライ2世はセルビアを支援するため軍隊に動員をかけ、それを知ったドイツがロシアに最後通牒を発すると、ロシアがそれに答えて8月1日にドイツに宣戦布告した。ドイツとロシアの開戦は必然的にフランスを巻き込むこととなり、ドイツはフランスに対して中立を要求したがフランスはそれを拒否して3日に宣戦布告した。こうしてバルカンの地域紛争は、ヨーロッパの列強が連鎖的に加わる世界戦争に転化し、「八月の砲声」がヨーロッパにとどろくこととなった。

西部戦線

 ドイツ軍はベルギー領内を破竹の勢いで突破、ついにフランス国内に侵入した。それをイギリス軍の飛行機が発見して陸上のフランス軍に連絡、ジョッフル将軍麾下のフランス軍がドイツ軍を捕捉し、9月5日、マルヌの戦いでその進軍を阻止した。
ドイツ軍のベルギー侵攻 ドイツは8月2日、ベルギーに対しドイツ軍の通過を要求、拒否されると4日に侵入を開始した。中立国ベルギーが侵犯されたことを理由にイギリスは参戦した。ベルギーは予想に反して激しく抵抗したが、ドイツ軍は6日にリエージュを包囲して列車輸送式の大砲で大量の砲撃を加え、さらに飛行船ツェッペリン号による空爆を加えた。大量の砲撃と空爆という近代戦がリエージュ攻撃から始まった。しかしリエージュはよく抵抗し、8月16日まで持ちこたえた。このベルギーでの戦闘については<バーバラ・タックマン『八月の砲声』1962 山室まりや訳 ちくま学芸文庫 上 p.59-60>に詳しい。
マルヌの戦い 1914年9月、ドイツ軍はシュリーフェン計画に基づき、大軍をベルギーから侵入させ、パリの西方に向かわせた。しかし、現地指揮官クルック将軍は大回り過ぎて補給が途絶えることを避けたか、進路を変えパリの東側に向かった。移動中のドイツ軍をイギリスの偵察飛行機が発見、フランス軍が急襲し、好機を作った(このときパリのタクシー600台が兵員輸送に活躍した)。こうしてパリ東方のマルヌ川付近でのマルヌの会戦となったが、ドイツの総司令官モルトケは、当時東部戦線でロシア軍が予想以上に迅速に国境に迫っているとの知らせを受け、兵力を一部移動させるためドイツ軍は戦線を後退させたのである。こうして当初の6週間でパリを陥落させるというドイツの戦略がくずれ、長期戦の様相を呈することとなり、いわゆる西部戦線での膠着した塹壕戦に移行していった。

Episode 「マルヌのタクシー」

 9月5日、フランスの第六軍(総司令官ジョッフル)はマルヌでドイツ軍を迎え撃った。だが、フランス軍は手薄であり、この戦線に新鋭部隊を投入することがどうしても必要になった。
(引用)そのころ、パリの街を走るタクシーはルノー製のものがほとんどだったが、フランス軍はそれらを大急ぎでかき集め、前線への兵員輸送に当たらせた。その数は600台と伝えられる。その作戦はみごとに成功し、マルヌ会戦はフランスの勝利に終わり、ドイツ軍は退却をよぎなくさせられ、以後は塹壕戦/陣地戦の膠着状態に入り、これがドイツ敗北の遠因となった。パリ陥落の危機は救われた。そいてルノー製のそれらの車は、後々までも、”マルヌのタクシー”として歴史に名を留めている。現在もその一台は、パリのルノー博物館に誇らしげに展示されている。なおこれらのタクシーは、使用のたびごとに通常の料金を払ってもらった。”タクシーに乗って”戦場に、そしてあるいは死へとおもむいたことになるが、そこにはどこか20世紀ならではのブラック・ユーモアが見え隠れしている。<折口透『自動車の世紀』岩波新書 1997 p.94>
長期の塹壕戦へ こうしてドイツが当初の戦略である短期決戦策は失敗し、独仏国境線にそって西部戦線が形成され、両軍とも塹壕を掘って対峙する長期戦に突入した。ドイツ軍は塹壕戦での新戦術として毒ガスを開発、1915年4月22日イープルの戦いで初めて使用し、戦争は陰惨な様相を呈していった。

Episode 「西部戦線異常なし」

 西部戦線に実際に参加したドイツのエーリッヒ=レマルクは、1927年にそのときの戦場体験をもとに『西部戦線異常なし』を発表した。これは過酷な戦場の現実を告発した反戦文学として、世界的な反響を呼んだ。早くも翌1930年にアメリカのルイス=マイルストンが映画化し、第3回アカデミー賞を受賞して日本でも評判となった。その後も何度か映画化されているが、やはり最初のこの作品が鮮烈だ。華やかな歓声に送られ、戦場に向かった若い兵士たちを待ち受けた現実。塹壕の中に閉じこもる主人公の頭上に・・・。一人の兵士は死んだが、前線から本部に送られた報告は〝西部戦線異常なし〟という電文だった。<エーリッヒ=マリア=レマルク/秦豊吉訳『西部戦線異常なし』新潮文庫>

東部戦線

 第一次世界大戦でドイツ・オーストリア=ハンガリーの東部に形成された戦線を東部戦線という。1914年8月、ロシア軍がタンネンベルクの戦いでドイツ軍に大敗したため戦線を後退させた。
タンネンベルクの戦い ドイツの東側の東部戦線で、1914年8月17日、ドイツ領東プロイセンに進撃したロシア軍が、タンネンベルクでドイツ軍に敗れた。ロシア軍は当初、ドイツの予想を上回る速さで進撃してきたが、次第に補給と通信の不備が露呈してきて、進撃が停滞した。ドイツの戦線立て直しに派遣された新司令官ヒンデンブルク大将とルーデンドルフ参謀長は、ロシア軍の無線を傍受してその進路を知り、列車で大軍を移動させて、タンネンベルクのロシア軍を急襲して勝利を収めた。このときの戦闘で25万人のロシア兵のうち、12万5千が戦死か捕虜になり、ドイツ側の損害は1万にすぎなかった。タンネンベルクでのロシア軍の敗北は、ツァーリ政府の威信を著しく落とし、ロシア革命の勃発の警鐘となった。

Episode ドイツ軍の復讐の地、タンネンベルク

 第一次世界大戦でドイツがロシアに大勝したタンネンベルクは現在のポーランド、ワルシャワの北方約150kmほどのにあり、グルンヴァルトという。この地は1410年、ドイツ騎士団団がリトアニア=ポーランド王国軍と戦い、撃破されたところであった。ドイツ騎士団が大敗を喫したこの闘いは、ドイツ人にとって屈辱的なものであったので、今度の勝利をあえてタンネンベルクの戦いと呼んだ。グルンヴァルトはその後20世紀にいたるまでポーランドとの対決と復讐を象徴する地となったわけだ。<志摩園子『物語バルト三国の歴史』2004 中公新書 p.61>

バルカンでの戦線

 第一次世界大戦の直接の引き金となったバルカン半島では、大戦の最初の当事国であったセルビアではペータル1世が復位して国民に結束を呼びかけ、当初はオーストリア=ハンガリー軍の侵攻に対して各地で善戦し、一方のオーストリア=ハンガリーは多民族国家の弱点を露わにして、敗北することが多くていった。危機感を持ったドイツは盛んにブルガリアに働きかけ、様子を見ていたブルガリアもガリポリでのイギリス・フランス軍の敗北を見て同盟国側につくことを決意、秘密軍事同盟を締結した上で1915年10月にセルビアに宣戦布告し、北方からのドイツ・オーストリア=ハンガリー軍と同時に東側からセルビアに侵攻し、首都ベオグラードを占領した。そのためセルビア軍は国王政府とともに首都を放棄して撤退、多くの避難民とともに西方のアルバニアに向けて厳しい冬の時期の山越えを行い、多くの犠牲者を出した。セルビア政府は一時ギリシア領のコルフ島に亡命した。その後もバルカン半島ではドイツ・オーストリア=ハンガリー・オスマン帝国・ブルガリアの同盟国側とセルビア・モンテネグロ・ルーマニア・ギリシアの連合国側が各所で交戦が続いた。
ガリポリの戦い また東部戦線には入らないが、オスマン帝国が1914年10月に参戦したため、ガリポリの戦いなど、中東でもドイツ・オスマン帝国軍とイギリス・フランスなどの連合軍が闘った。ダーダネルス=ボスフォラス海峡がドイツ海軍に押さえられることとなった。これは、ロシアにとって致命的な危機であり、イギリスにとってもスエズ運河の防衛にも大きな障害となる。そこでイギリスの海軍大臣ウィンストン=チャーチルは、英仏軍とロシア軍が連絡をつけることができるようにするため、ダーダネルス海峡の入り口にあたるオスマン帝国のガリポリ要塞を攻撃・占領する作戦を立てた。その作戦に基づいて、1915年4月25日、イギリス・フランスの連合軍にオーストラリア連邦ニュージーランドは連合軍(ANZAC)をつくって参戦した。イギリス帝国会議を構成するドミニオンとして参戦した。オーストラリアでは、4月25日をアンザック・デー(A=Australia NZ=New Zealand A=Army C=corps)として戦死者を追悼する日としている。
 しかしガリポリの戦いではオスマン帝国軍の守備隊長ムスタファ=ケマルが指揮して善戦し、容易に陥落しなかった。攻防が続く間、1915年10月14日にブルガリアが同盟国側に参戦し、12月にはセルビア軍がオーストリア軍に敗れたためドイツ・オーストリア軍とオスマン帝国軍が直接連絡を取ることができるようになり、連合国軍のガリポリ作戦は失敗に終わって翌16年1月に撤退した。その代わりに15年10月にギリシア領のサロニカに上陸し橋頭堡を築き、ギリシアを説得して連合国側に参戦させた。

戦争の長期化

ヴェルダンの戦い ヴェルダンは、現在のフランスのロレーヌ県北部、ベルギー国境の近くの地点。かつて、ヴェルダン条約が締結されたところ。第一次世界大戦では1916年2月~6月、フランス軍のヴェルダン要塞に向けて、ドイツ軍が総攻撃を行って、大戦最大の戦闘が行われたところである。ヴェルダンの戦いでは莫大な量の砲弾が使用され、フランスは31万5千、ドイツ軍は28万1千の死傷者を出した。結果的にフランス軍は防衛することに成功し、司令官ペタンの名声が上がった。
ソンムの戦い 第一次世界大戦で1916年6月~11月、北フランスのソンムでドイツ軍に対するイギリス・フランス連合軍の総攻撃が展開された。イギリス軍のヘイグ将軍は、まだ実験段階だった戦車を初めて実戦に投入した。戦闘は全くの消耗戦となり、イギリス軍に42万、フランス軍に20万、ドイツ軍に45万の犠牲者を出し、勝敗無く終わった。
(引用)理想主義はソンムで滅んだ。熱狂した志願兵たちは、もう熱狂しなくなった。かれらは、戦友への誠実さ以外は、大義名分とか指導者とか、あらゆるものへの信頼を失った。戦争は目的をもつことを止めた。戦争はただそれだけのために、いわば根気くらべとして続いた。<A.J.P.テイラー『第一次世界大戦』新評論 P.145-148>

海上の戦い

 大戦前、イギリスとドイツは建艦競争を繰り返し、巨大な艦隊を有していたが、開戦当初はイギリスが制海権を握り、ドイツ海軍はバルト海から出られず、「宝の持ち腐れ」状態だった。唯一、ドイツ東洋艦隊は太平洋を縦横に活動して、イギリス海軍・フランス海軍と戦っていた。しかしホーン岬を回って大西洋を北上したところで1914年12月、イギリス海軍に敗れ撃沈された。
潜水艦の使用 ドイツ軍は食糧を輸入に依存しているイギリスをたたくための戦略的な海上決戦を挑んだ。それが1915年5月のユトランド沖海戦であった。ドイツ艦隊は善戦し、イギリス艦隊により多い損害を与えたが、海上封鎖網を打開するまでには至らなかった。ドイツ海軍は主力艦ではイギリス海軍より優位に立つことは困難であったので、Uボートといわれた潜水艦による攻撃を多用するようになった。無防備の商船に対する攻撃は、1915年5月のルシタニア号事件のように第三国、特にアメリカ人を犠牲にしたことから批判が強まったため、ドイツは一端は潜水艦作戦を停止した。
無制限潜水艦作戦 1916年頃から陸上の戦いが膠着状態に陥ると、戦局を打開するために考えられたのが、無制限潜水艦作戦であった。イギリスに向かう船に対しては警告なしに商船に対しても魚雷攻撃をするというものであるので、中立国が反発すること、特にアメリカが参戦することが想定されるので反対意見もあったが、ドイツ軍首脳のヒンデンブルクやルーデンドルフは強くその実施を主張、1917年2月1日をもって実行された。それは想定どおり、アメリカ合衆国の参戦を誘発し、結果的にドイツにとって大きなマイナスとなった。イギリスは潜水艦攻撃から商船を守るため、ロイド=ジョージが「護送船団方式(コンボイ=システム)」を考案し、それからは被害を激減させることに成功した。

ヨーロッパ以外での戦闘

 第一次世界大戦はほとんどがヨーロッパの、独仏と独露国境、バルカン半島、イタリアとオーストリアの国境付近が戦場となった。しかし、オスマン帝国や日本が参戦したため、アジアにおいても戦場となるところがあった。
中東の情勢 オスマン帝国が同盟国側で参戦したためイギリスはいち早く1914年にエジプトの保護国化をオスマン帝国に通告してスエズ運河を確保し、カイロを拠点にパレスチナへの進出を図った。1916年6月、アラビアの紅海沿岸のヒジャーズ地方でアラブの族長フセインが反乱を起こしたので、イギリス海軍の情報将校トーマス=ロレンスが派遣され、ロレンスはアラブ軍の顧問格となってゲリラ戦を指導した。ロレンスはアラブのゲリラを率いてオスマン軍の鉄道を破壊するなど後方攪乱に飛び回り、1918年9月まで活動した。これが有名な〝アラビアのロレンス〟である。ところがその一方でイギリス・フランスは1916年5月、サイクス=ピコ協定で戦後のオスマン帝国領分割について協定し、さらにイギリスは1917年11月にバルフォア宣言を出しユダヤ人のパレスチナ建設を承認するなど、矛盾する外交を展開した。

日本の参戦

 開戦直後の1914年8月、イギリスは日本に対して東シナ海のドイツ艦隊を攻撃してほしい」と要請した。日本は日英同盟にもとづいてただちに出兵を決定したが、日本の中国・太平洋方面への進出を警戒するアメリカがイギリスに要請を中止するよう申し入れたたため、イギリスはそれに従ってドイツ艦隊攻撃要請を取り消した。
青島攻略と南洋諸島占領 しかし日本は第一次世界大戦への参戦を強行、8月15日にドイツに対する最後通牒を出し、回答がないとして1914年8月23日にドイツに宣戦布告、9月2日に山東半島の北側渤海湾に面した竜口に上陸、一ヶ月ほどで山東省の省都済南に入り、ドイツが管理していた山東鉄道を支配下においた。さらに1914年11月7日膠州湾入口のドイツの青島要塞を陥落させた。この時、日本の飛行機が初めて実戦に参加した。さらにドイツ領太平洋諸島のマーシャル、マリアナ、パラオ、カロリン諸島を占領した。
二十一カ条要求 こうしてドイツの中国・太平洋の利権を接収した日本は、1915年1月、中華民国の袁世凱政府に対し、二十一カ条要求をつきつけ、欧米諸国が世界大戦で動きが取れない中、ドイツ利権の継承を中心として多く権利得ようと試み、中国本土への帝国主義的侵略を開始した。日本の露骨な大陸での利権拡張にはイギリス・アメリカは警戒したが、日本を対ドイツ戦争にとどめておく必要から、その中国に対する要求を黙認し、抗議しなかった。 → 山東問題
日本海軍、地中海へ 地中海ではドイツ海軍とフランス・イギリス海軍が交戦し、さらに黒海ではロシア海軍とオスマン海軍が戦っている。ドイツ海軍の無制限潜水艦攻撃に大きな被害が出るようになると、1917年2月にイギリスは日本海軍の地中海への派遣を要請した。日本は要請に応えて、海軍は巡洋艦3隻、駆逐艦12隻を派遣した。このとき、日本政府はイギリスに条件を出した。それは戦後の講和会議において、山東半島に関する日本の権益を支持する確約であった。イギリスはただちに同意する旨の覚え書きを日本に送ると、日本はロシア、フランス、イタリアに対しても同様の要求を極秘で行い、それぞれの諒解を得た。これらの連合国との秘密協定によって日本海軍の地中海派兵は実行された。日本側の被害は駆逐艦1隻の他数隻が撃沈され、78名が戦死したが、Uボート4隻を撃沈、イギリスの要請に応えた。
 この密約は、後にパリ講和会議に際して、アメリカが日本の山東権益を認められないとしたのに対し、イギリス・フランスが日本を支持したことで、結局日本の山東権益が認められた伏線となっている。<NHK取材班編『日本の選択1 理念なき外交「パリ講和会議」』1995 角川文庫 p.128/戦死者数などは三野正洋他『20世紀の戦争』朝日ソノラマ p.36による>

(4)第一次世界大戦の終結

1917年、4月のアメリカの参戦と、11月のロシア革命(ソヴィエト政権の成立)によって転機を迎え1918年3月、ドイツとソヴィエト=ロシアが単独講和で合意してブレスト=リトフスク条約を締結、東部戦線で戦闘がなくなり、1918年10月にドイツで革命が起こり皇帝が退位して西部戦線でも敗北を受け入れ、11月11日に停戦となった。

戦局の転換

 開戦当初、列強の首脳は短期に決戦を挑んで、適当な時期に収束させるつもりであったが、1914年9月のマルヌの戦い以降、その目論見は崩れ、引くに引けない膠着状態に陥ってしまった。そのまま一進一退が続いたが、1917年に入りロシア革命とアメリカの参戦によって一挙に情勢が変化した。
ロシア革命 その新情勢の一つはロシア革命(第2次)の勃発である。二月革命(三月革命)でツァーリ政府が倒され、臨時政府とソヴィエトの二重権力となると、臨時政府は連合国との関係を重視して戦争継続を表明し、ソヴィエトはそれに反対した。ドイツは密かにスイスに亡命中のソヴィエトの指導者レーニンがドイツ領内を通行できるように手配(封印列車)し、それによって4月に帰国したレーニンは四月テーゼを提示して、ボリシェヴィキを指導した。レーニンの指導のもとで始まった反戦・反臨時政府の武装蜂起に対しては、臨時政府は前線から軍隊を呼び寄せてそれを弾圧した。7月に権力を掌握したケレンスキーも戦争続行を表明したが、前線の兵士の中には戦争忌避の動きが強くなり、戦線から離脱する兵が多くなった。そのような中、ボリシェヴィキが武装蜂起して十月革命(十一月革命)が成功し、ケレンスキー内閣は崩壊、11月8日、レーニンは平和についての布告を発表して、交戦国すべてに対し無併合・無償金による即時平和を提唱した。連合国からはすべて無視されたが、ドイツは好機と考えてソヴィエトとの交渉に応じ、1918年3月、両者はブレスト=リトフスク条約を締結して単独講和を成立させ、ソヴィエト=ロシアはポーランドの独立その他の大幅な領土縮小を認めた。
アメリカの参戦 もう一つの動きはアメリカ合衆国の参戦である。アメリカは、伝統的な孤立主義の外交原則を守り、大戦勃発当初は中立を表明した。その一方、イギリス・フランス・ロシアには盛んに武器や物資を援助し、実質的には連合国に大きく肩入れしている状態であった。ただ国内にヨーロッパの戦争でアメリカの青年の血を流すべきでないという声も強く、ウィルソン大統領も戦争には踏み切れずにいた。ところが、1915年5月のルシタニア号事件を機にドイツの潜水艦を使った無差別攻撃に非難が強まった。その後も次第に参戦の声が強まり、1917年2月にドイツが無制限潜水艦作戦を宣言したのをうけて、ウィルソン大統領は、1917年4月に議会の決議を得てアメリカ合衆国の参戦に踏み切った。これ以降、アメリカ軍がヨーロッパ戦線に派遣されたことによって戦局は決定的に連合軍有利に転換した。またウィルソン大統領は、1917年11月、ロシア十月革命を成功させたレーニンが「平和についての布告」を発表すると、それに対抗して戦争目的の明確化と戦後処理の原則を示す必要に迫られ、翌1918年1月8日に十四カ条を発表した。
シベリア出兵 社会主義を掲げるソヴィエト政権の成立は資本主義諸国にとって脅威であり、またその戦争からの離脱は特に西部戦線でドイツと戦っているフランス・イギリスにとって痛手となる。そこで連合国はロシア革命への干渉を計画し、1918年3月には英仏米三国軍がムルマンスクに上陸、反革命政権を支援する対ソ干渉戦争を開始した。4月には日本軍は単独でシベリアのウラジヴォストークに上陸した。5月にはロシア領内に捕虜となっていたチェコスロヴァキア軍団がシベリア経由で西部戦線に移動する途中でボリシェヴィキと衝突したことを受け、その救援を口実に英仏米日は共同して1918年8月にシベリア出兵に踏み切った。

戦争の終結

 ドイツ軍はロシアとの単独講和によって東部戦線の兵力を西部に振り向けようとしたが、それが順調に進まないまま、1918年8月8日、北フランスのアミアン付近で、アメリカ軍が参加した連合軍によって撃破され、それを機に後退が始まった。バルカン方面でも、ブルガリアが9月末に停戦に応じ、オーストリア軍はサロニカからの連合軍の北上とイタリア軍の攻勢に対して戦意を失い、オスマン帝国軍もイギリスのパレスティナ進出とアラブの反乱で苦しむ中、10月にそれぞれ停戦に追いこまれた。
ドイツ革命の勃発 1918年11月3日、ドイツで無謀な出撃命令を拒否した海軍兵士がキール軍港の水兵反乱を起こし、それがきっかけで各地で兵士・労働者が蜂起するドイツ革命が勃発して、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命、帝政が倒された。ドイツ共和国の臨時政府の権力を掌握した社会民主党のエーベルトは、1918年11月11日、フランスのコンピエーニュの森で連合国と休戦協定を結び、第一次世界大戦を終わらせた。

Episode 〝背後からの一刺し〟

 この時、ドイツ陸軍はまだ西部戦線のフランスでとどまっており、連合国軍がドイツ国内に進撃していたわけではなかった。参謀総長ルーデンドルフは冷静にアメリカ軍の兵力を計算してドイツ軍に勝ち目がないと停戦を判断したが、軍の大物ヒンデンブルクをはじめ軍人はまだ負けていないという見方が強かった。にもかかわらず降伏することになったのは国内での革命騒ぎによって〝背後から一刺し〟されたためだという意識が彼らには強く残った。この意識は、ヴェルサイユ条約での敗戦国ドイツに対する過酷な要求に対する反発とともに、後にドイツに再び軍国主義が燃えさかる火種となって残った。
ドイツ革命の失敗 ドイツでは旧社会民主党左派の結成したドイツ共産党が1919年1月に蜂起し、一気に社会主義革命への転換を目指しドイツ革命をめざしたが、臨時政府によって鎮圧され、2月に資本主義・議会主義を掲げるヴァイマル共和国が成立した。

犠牲者と記念日

 第一次世界大戦の戦死者は802万人、負傷者が2122万人、民間人死者は664万人とされている。戦場は主としてヨーロッパ大陸であったが、初めての世界大戦として、重い数字を残している。
 大戦が休戦(後のパリ講和会議で講和が成立)となった11月11日は、交戦国であったフランス、ベルギーなどでは現在は終戦記念日として祝日となっている。アメリカ合衆国では、この日は退役軍人の日=ベテランズデー(ベテランとは退役軍人のこと)として祝日とされ、大統領がアーリントン国立墓地で無名戦士の墓に花を捧げる習わしとなっている。

「スペイン風邪」の大流行

 第一次世界大戦の末期の1918年春から、ヨーロッパの戦線で「スペイン風邪」と言われたインフルエンザが大流行し、戦争の終結が早まったとされる。この大流行は日本も含めて全世界に及んで、約15万の死者を出した。最初に症状が出たのは1918年3月、アメリカ・カンザス州の陸軍キャンプで、4月中に全米に広がっていた。アメリカは前年の4月に参戦を決め兵士をヨーロッパ戦線に送っていたが、新たにヨーロッパ戦線に送った部隊の中に感染者が含まれていたためフランスに持ち込まれ、5月にポルトガル・スペイン、6月にドイツ・イギリス・スカンジナビア諸国に流行が広がった。ドイツ軍は当時、100万という大軍でパリに迫っていたが、7月にはその進軍がストップ、病気の蔓延と補給路が断たれたことで兵士の体力、気力が急激に衰え、そこに連合軍が新たな兵士を投入して反攻に出たため、11月に休戦条約が締結されて戦争は終わった。アメリカ軍の参戦が、はからずも「スペイン風邪」の参戦というかたちで戦局に大きな影響を与えたことになる。
 この感染症は、現在ではインフルエンザで「スペイン風邪」といわれている。2020年の新型コロナの世界的流行(パンデミック)で、にわかにスペイン風邪の記憶がよみがり、人類と感染症の歴史の一つとして注目を浴びた。ただし、これはスペインが発生源だったのではなく、中立国であったスペインだけが報道規制をしていなかったので、スペインで流行した風邪だと誤解されたものである。<岡田晴恵『感染症は世界史を動かす』2006 p.212-214>

(5)第一次世界大戦の結果と影響

パリ講和会議が開催され、講和条約としてヴェルサイユ条約が締結して正式に第一次世か大戦は終結した。の第一次世界大戦の結果とそのもたらした影響の要点をあげると次のようになる。

第一次世界大戦のもたらしたこと

 パリ講和会議1919年1月18日から始まり、6月28日にヴェルサイユ宮殿でヴェルサイユ条約が締結されて一段落した。この会議には日本を含む連合国代表が参加したが、イギリス・フランス・アメリカの三国が主導権を握り、敗戦国ドイツなどは参加できず、また革命直後のロシア・ソヴィエト政府も参加できなかった。
 第一次世界大戦は連合国(協商国)側の勝利として終わったが、直接的な被害だけでなく、戦勝国・敗戦国を越えて大きな影響を及ぼした。人類最初の世界大戦によってもたらされた変化をまとめると次のようになる。

旧帝国の消滅

 第一次世界大戦の結果として、ドイツ帝国(ホーエンツォレルン家)、オーストリア=ハンガリー帝国(ハプスブルク家)、ロシア帝国(ロマノフ家)という専制君主制国家が崩壊した。また、オスマン帝国でも大戦後にトルコ革命が始まり崩壊した。そのため、オーストリア=ハンガリー帝国、ロシア帝国、オスマン帝国に支配されていた東ヨーロッパやバルカン半島の諸民族は独立を達成し、それぞれ国民国家としての主権を持つに至る。ただし、オスマン帝国の支配地ではトルコ共和国以外はただちに独立することはできなかった。

イギリスの没落

 第一次世界大戦の結果、イギリスは戦勝国ではあったが、戦争のために疲弊し、また植民地でも反英独立運動が活発になってその統制は弱まり、19世紀中ごろからの「大英帝国」の繁栄、第二帝国またはパックス=ブリタニカといわれた状況は終わりを告げることとなった。

社会主義国の出現

 第一次世界大戦の末期に、ロシア革命が勃発し、世界最初の社会主義国家としてロシア(ソヴィエト=ロシア。ソ連の成立は1922年)が出現した。一方で資本主義を繁栄させたアメリカ合衆国を中心とした陣営は、「自由主義」を掲げて、社会主義勢力の拡大や革命の伝染を警戒するようになった。

アメリカの繁栄

 途中から第一次世界大戦に参加したアメリカ合衆国は、戦後に債務国から債権国に転換し、世界の強国にのし上がった。戦後の1920年代は「永遠の繁栄」と言われる最盛期を迎える。アメリカ大統領ウィルソンはパリ講和会議で主導的立場につき、国際連盟の結成に尽力したが、国民のなかには世界大戦への参戦を疑問視した人々も多く、また伝統的な孤立主義に固執する共和党が議会で反対したため、アメリカ自身は国際連盟に加盟することはなかった。 → アメリカ合衆国の戦間期

東ヨーロッパ諸国の独立

 東ヨーロッパの大国に従属していた諸民族が、アメリカ大統領ウィルソンが十四カ条で提唱した「民族自決」の理念に沿って、戦後に独立を達成した。オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊に伴い、ハンガリーチェコスロヴァキアが独立、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロは新たにユーゴスラヴィア(当初はセルブ=クロアート=スロヴェーン王国)を建国した。またポーランドバルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)、フィンランドがロシア帝国から独立した。

植民地の民族主義運動の激化

 帝国主義国家間の矛盾が世界戦争に行き着いたことから、それまで植民地として支配されてきたアジア・アフリカの諸民族の中から、民族の独立を求める運動が本格化した。これらの地域には民族自決は適用されないとされていたが、期せずしてアジアの諸民族にも自立を求める運動が波及した。特にイギリスの支配を受けていたインドでは多くの兵士を戦場に送るなどでイギリスに協力しながら、戦後自治の約束が実現しなかったことから、ガンディーらによるインドの反英闘争が展開され、その過程でアムリットサール事件が起こった。同じ1919年には中国の五・四運動や朝鮮での三・一独立運動など大規模の民衆の決起が見られる。西アジアにおいてもオスマン帝国の解体とともにアラブ民族主義運動が高揚しアラブ人の自立の動きが強まった。しかしアラビア半島でヒジャーズ王国の独立が認められたものの、パレスチナ・シリア・イラクはイギリスとフランスの委任統治領として分割された。これらの大戦後の民族独立運動は、ロシア革命によって登場した社会主義運動とも結びついていく。

新たな武器と総力戦の始まり

 第一次世界大戦は戦争の規模がかつて無かっただけでなく、その質を大きく変化させ、戦争の犠牲が非戦闘員にも直接及ぶという現代の戦争形態の始まりとなった。特に、航空機毒ガス戦車潜水艦といった新しい武器の出現は大量殺戮と非戦闘員を巻き込む現代の戦争の特色を見ることができる。また、戦争が一部の職業的な軍隊によっておこなわれるのではなく、国家の経済や国内体制、世論の結束なども求められる総力戦となったことも、現代の戦争の特質であった。

勢力均衡論から集団安全保障へ

 今、第一次世界大戦から学ばなければならないのは、列強がそれぞれ軍事同盟を結んで、利害の対立する陣営との勢力均衡をはかる国際政治のあり方が破綻した、ということである。ヨーロッパのイギリス・フランス・ドイツ・イタリア・ロシア・オーストリアという大国がその帝国主義的な利害の対立の中から、バルカン問題という先鋭的な対立点が表面化した。そのとき各国が戦争回避のために採ったのがビスマルク時代に典型的に見られる勢力均衡論であった。しかも二国間の軍事同盟や領土・植民地分割協定は多くは秘密条約とされた。このような勢力均衡論、秘密外交が、サライェヴォの銃声によって破綻したのが第一次世界大戦であった。
 そして大戦後の新しい国際秩序は、ヨーロッパ列強以外のアメリカ合衆国が主導権を握った。ウィルソンの理念は、国際連盟という国家間の協議の場を作り、秘密外交を排して国家間の紛争を解決していこうという集団安全保障にあったが、その理念が現実のものとなった。これが、千数百万という犠牲を出した世界戦争という悲劇から人類が学んだことだ。ただ不幸にしてウィルソンの理念は、当のアメリカが議会が承認しなかったために加わらなかったこと、一方で新たに登場した社会主義国ソヴィエト=ロシアをその集団に加えなかったこと、また敗戦国ドイツも加盟させず、過酷な賠償金を主とする講和条件を押しつけたこと、などによって十分な効力を発揮できなかった。そのような欠点から、この戦争には「第一次」という名称が後につけられてしまうことになったが、集団安全保障の理念で世界平和を維持しようと試みたことは軽視すべきではない。そしてその後「第二次世界大戦」を防げなかったという失敗があったからこそ、現在、「第三次」の勃発を曲がりなりにも抑止することができている。間違えてはならないことは、「集団的自衛権」ではなく「集団安全保障」ということだ。
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書籍案内
第一次世界大戦 表紙
A.J.P.テイラー
/倉田稔訳
『目で見る戦史 第一次世界大戦』
1963 新評論

岡義武
『国際政治史』1955
再刊 2009
岩波現代文庫

バーバラ・タックマン
『八月の砲声上』
2004 山室まりや訳
ちくま学芸文庫

バーバラ・タックマン
『八月の砲声下』
2004 山室まりや訳
ちくま学芸文庫

エーリッヒ=マリア=レマルク/秦豊吉訳
『西部戦線異常なし』
新潮文庫

木村靖二
『第一次世界大戦』
2014 ちくま新書

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ルイス・マイルストン
『西部戦線異常なし』
1930 アメリカ映画

ジャン・ルノワール
『大いなる幻影』
1949 フランス映画

『THEY SHALL NOT GROW OLD』
2019 イギリス映画