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ウラジヴォストーク

1860年、ロシアは北京条約で獲得した沿海州の日本海に面した港ととして建設開始。「東方を征服せよ」という意味で、文字どおりロシアの東アジアへの勢力拡大の拠点とされ、1891年建設が始まったシベリア鉄道の終点であり、ロシアの東方の入口でもある。

ウラジヴォストーク GoogleMap

日本の地図ではウラオジオストックと書かれ、かつては浦塩などの漢字が当てられたが、正しくはウラジ=ヴォストークで、ロシア語で”東方を征服せよ”を意味する。
 18世紀以来、ロシアの東アジア侵出は、清朝との国境確定を進め領土を東方に拡げていった。アロー戦争に際しては、清とイギリス・フランスの講和を仲介したことで譲歩を引き出し、1860年北京条約を結び、沿海州を獲得した。同1860年、東シベリア総督ムラヴィヨフは、日本海に面した港を建築、ウラジヴォストークと命名した。ロシアにとってはウラジヴォストークが冬季も凍結せず、ほぼ年間を通じて使用できる不凍港であったので、念願を達成したことになる。
 1871年にはウラジヴォストークは軍港となって、日本海から太平洋方面に勢力を拡大するための基地として機能するようになった。やがて、開国を遂げた日本が、急速に東アジアで台頭するが、ロシアの膨張主義的傾向は、この後も続けられ、中国・朝鮮方面に向かっていき、日本との衝突がもたらされることになる。
 またウラジヴォストークは不凍港ではあったが、厳冬の年には凍結することがあり、ロシア艦隊は、完全な不凍港を目指し、満州・朝鮮から日本海南部や黄海方面を視野に入れるようになっていく。

シベリア鉄道の建設

 ロシアはウラジヴォストーク港を建設すると、首都モスクワに直結する鉄道の建設を次にめざした。 そのシベリア鉄道の極東の起点として、1891年にウラジヴォストークで皇太子ニコライ(後のニコライ2世)を迎え、起工式が行われた。しかし、長大で条件の悪いシベリアでの鉄道建設は困難が予測され、また、清の領土を通らなければ、黒竜江の北側を大きく湾曲しなければならないことから、ロシアは日清戦争後の三国干渉の見返りとして、シベリア鉄道の支線として直接満州を横断してウラジヴォストークに繋がる路線の敷設権を要求した。清の李鴻章はその交渉に応じ、1896年に東清鉄道の敷設権をロシアに与えた。この東清鉄道はシベリア鉄道を経由してモスクワとウラジヴォストークを直接、鉄道で結ぶこととなった。さらにロシアは、1898年に旅順・大連の租借と、東清鉄道のハルビンから旅順に至る南満支線の敷設権を獲得した。この南満支線の完成は1904年の日露戦争開戦の直前であった。シベリア鉄道本線の完成は、日露戦争開戦後の1905年であったが、このロシアの東方への膨張政策は日本にとって大きな脅威であったため、両国は日露戦争で衝突した。

シベリア出兵

 ロシア革命が起こると、日本などの資本主義列強は、革命政権を倒すことを目的に、1918年3月、シベリア出兵を行ったが、日本軍などはこのウラジヴォストークに上陸し、そこからシベリア内陸に侵攻、ボリシェヴィキ革命軍と戦った。
 ウラジヴォストークはソ連時代には軍港として外国船の入港はできなかったが、1992年に開放され、現在もロシア海軍の基地として重視されているとともに、ロシアと日本との交易の玄関口としての働きを持っている。

参考 イギリス女性の見たウラジヴォストーク

イザベラ・バード
/時岡敬子訳
『朝鮮紀行』
1998 講談社学術文庫

 『朝鮮紀行』や『日本奥地紀行』などで知られる19世紀末のイギリス人女性旅行家イザベラ・バード(1831-1904)が1894年にウラジヴォストークを訪れている。満洲の奉天に滞在していたバードが日清戦争の勃発によって退出しなければならず、牛荘から海路、長崎を経て、ウラジヴォストークに入ったのだった。彼女は朝鮮とロシアの国境地帯を見たいと思って赴いたのだが、その旅行記には詳細な見聞が記されている。そのいくつかを紹介しよう。
(引用)はじめて目にしたウラジオストクの眺めは、その建造者の芸術に対する無知が森林という天然の芸術的な背景を損ねてしまっているとはいえ、心を奪うものだった。それ以外の点では、紫色がかった陸の色調と透き通った海の青さはカナダ、ノヴァスコシア州の港を思い出させた。この太平洋岸の首都の眺めにアジア的なものはなにもなく、まさしくヨーロッパ的と言うよりも北米的である。湾が深く入りこみ、見るからに陸地に囲まれた港を前に据えて、ウラジオストクの市街はその海外線沿いに三マイル以上も広がり、はげて不規則な形の山々のはげた側を大胆にものぼっている。高くそびえたはでなファザードの総督官邸、クンツ&アールバス商館(注・ドイツ人の経営する商社)、ドームの輝くギリシア正教会、ルーテル派教会、政府行政官庁、海軍本部、海軍工廠、兵学校、海軍クラブ、移民収容所、そしてシベリア鉄道終着駅の堂々として頑丈な建物。こういったものが味気ないでこぼこした丘陵に建っていて旅行者の目を引く。<イザベラ・バード/時岡敬子訳『朝鮮紀行』1998 講談社学術文庫 p.275-277>
 ここはまた海軍の町でもある。任務に就いて出港する、あるいは任を終えて帰港する軍艦、真新しい海軍本部の建物、海軍造船所、浮きドック、完成したばかりの豪壮な乾ドック、ウラジオストクで最も美しい建物に数えられる海軍クラブハウス。たとえ大自然がクリスマスから三月末までの期間港を閉ざそうとも、ウラジオストクは海軍の町である! 科学は勝利をものにし、この二年間の冬は強力な砕氷船で氷を割り、軍隊が出動して氷塊を湾外へ引くという方法で港を閉鎖せずにいる。「義勇艦隊」の大型汽船が月ごとまたは隔週ごとにオデッサとウラジオストクを出港する。シベリア横断鉄道の東側終着地点としてウラジオストクが望んでやまないのは、極東のジブラルタルでもありオデッサでもある存在、すなわちアムール河以南の広大な豊穣地帯の交易「集配点」としての重要な商業中心地となることで、その望みは確実に達せられると思われる。朝鮮咸鏡道のシェスタコフ港にいたる支線がもしできれば、政府は砕氷船を出動させなくてもすむ!<イザベラ・バード『同上書』 p.282>
 → シベリア鉄道  沿海州
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