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東清鉄道/中東鉄道

1896年、露清密約により清がロシアに敷設権を与えた、満州を横断する鉄道。シベリア鉄道で迂回せずウラジヴォストークと結ぶ、ロシアの東方進出の大動脈となった。ロシアは1898年に租借した旅順・大連と東清鉄道中間点のハルビンを結ぶ南満支線の敷設権も獲得した。東清鉄道全線と南満支線は1903年に開業した。日露戦争後のポーツマス条約で日本は南満支線の長春以南の営業権を獲得、南満州鉄道として営業し満州進出の動脈とした。中華民国では中東鉄道(または東支鉄道)という。その後ソ連、中国、日本が営業権をめぐって争い、満州事変以降の戦争の要因となる。

満州の鉄道概略

シベリア鉄道・東清鉄道・南満州鉄道
原田勝正『満鉄』p.57の図をもとに作成

ロシアの東アジア侵出

 ロシアは18世紀以来、南下政策を展開してきたが、クリミア戦争で敗れたことで、19世紀後半からはその膨張をシベリアから東アジアに向けるようになり、ロシアの東アジア侵出を開始した。1858年アイグン条約、ついで1860年北京条約で清との国境を画定し、日本海方面へ進出を狙い、ウラジヴォストーク港を建設した。

シベリア鉄道の建設

 さらに1891年にシベリア鉄道の建設に着手した。しかし、シベリア鉄道は黒竜江の北側を大きく湾曲し、しかも凍土地帯であることから工事が難航、その建設は順調には進まなかった。そこでロシア政府の蔵相ウィッテは、シベリア鉄道から分岐した支線を、清国領の満州を横断してウラジヴォストークと結ぶ路線の建設を構想した。そのためには清政府にそれを認めさせることが必要なので、その機会を待った。1894年、日清戦争が起こり、清は敗れて下関条約で遼東半島割譲などを認めると、ロシアはフランス、ドイツとともに日本に対して三国干渉を行い、遼東半島を還付されることに成功した。

露清密約

 ニコライ2世の戴冠式に参列するためにロシアに赴いた李鴻章は、1896年にロシア外相ロバノフとの間で露清密約を結んだ。その内容は、将来日本が清国・朝鮮への侵略を行うような場合は、清国とロシアは相互に援助すること、その代償として、清国はロシアに黒竜江・吉林省を通って満州を横断しウラジヴォストークに連結する鉄道の敷設権を与えることなどであった。この鉄道が東清鉄道であり、この密約がそれをロシアが敷設・経営する根拠となった。それはロシアの三国干渉によって日本が遼東半島を還付したことに対する清からの見返りであったが、密約の存在はロシアが鉄道敷設に着手したことによって日本も知るところとなり、警戒を強め、日露対立へと向かう第一歩ともなった。
 露清密約は、1896年、李鴻章とロバノフの間で締結され、露清同盟、李=ロバノフ条約ともいう。各条の要点は次のとおり。<歴史学研究会編『世界史史料9』p.135>
  1. 日本国がもしロシア・中国・朝鮮の領土を侵略占領した場合は、両国は陸海軍を派遣して相互に助け合う。
  2. 両国は単独で敵国と講和条約を締結しない。
  3. 開戦した後、緊急の必要あれば、中国のあらゆる港湾をロシアの艦船が利用できる。
  4. 将来、ロシアが兵や武器を迅速に移動できるように、中国は黒竜江と吉林においてロシアが鉄道を敷設し、ウラジオストックに連結させることを認める。ただ、この鉄道敷設によって中国の領土を占領してはならず、清国皇帝の権利を侵害してはならない。また、本件は中国政府から露清銀行※に委託し、敷設、経営を行う。
  5. ロシアは敵と戦う際に、第4条にある鉄道を利用して兵や食糧、武器を運ぶことができる。平時においても同様であるが、運行上の暫時の停留の他は中国に停留してはならない。
  6. この密約は、批准・発効してから15年間を期限とする。
※露清銀行は下関条約締結前の1895年2月、フランス4大銀行の指導のもとに設立されていた。
この条約は、日本を仮想敵とした軍事同盟という面と、満洲における鉄道敷設権および経営権を露清銀行に与えるという面を持ち、期間は15年とされた。この条約は、日露戦争には適用されなかったが、民国期の学者蔣廷黻しょうていふつは李鴻章の最大の失策であったと否定的に評価している。ロシアの満洲侵出を招来しただけでなく、日本の満洲、朝鮮への警戒と侵出を惹起したからであり、満洲事変に至る満洲問題はこの条約が生み出したものだというのがその理由である。<川島真『近代国家への模索』シリーズ中国近現代史② 2014 岩波新書 p.12-13>

東清鉄道本線の建設

 露清密約で東清鉄道の敷設権を獲得したロシアは、同1896年9月8日、露清銀行と清国政府の間で東清鉄道敷設契約を結び、その中で東清鉄道のゲージをロシアの鉄道と同じ広軌とすると定めた。つまりシベリア鉄道からそのまま車両を乗り入れることができ、東清鉄道はシベリア鉄道の支線となった。これは、中国内で標準軌の建設を進めていたイギリス、さらに日本にとって大きな脅威となった。1897年、ロシアはフランスの資本援助を受けて資本金500万ルーヴルにより清国との合弁の東清鉄道会社を設立、翌年5月28日、中間点のハルビン(哈爾賓)から東西両方向に向けて建設を開始した。
 ハルビンから東方の綏芬河すいふんが(ポグラニチチャ)までは1901年までに、ハルビンから西方の満州里までは翌1902年に完了、さらに綏芬河とウスリー鉄道(未完のシベリア鉄道の一部)の連絡線と満州里とザバイカル鉄道の連絡線も建設され、東清鉄道は1903年7月1日に開通し営業を開始した。これによってロシアは、黒竜江北側を大きく迂回するシベリア鉄道の本線部分は未完成であったが、チタから分岐し、満州地方の西北の満洲里から東南の綏芬河の間を同じ広軌の東清鉄道で横断し、再びシベリア鉄道の最東端の部分(ウスリー鉄道)に乗り入れ、ウラジヴォストークに達することができるようになった。首都ペテルブルクと極東の軍港ウラジヴォストークが直接繋がれたことはロシアの極東進出の大動脈が、日露戦争開始前に出来上がったことを意味していた。これは中国の鉄道ではあるが、敷設権・経営権さらに周辺の鉱山などの開発権をも外国に譲り渡すという、帝国主義による中国分割(半植民地化)を意味していた。。

ロシア、旅順・大連の租借と南満支線の敷設権獲得

 ロシアにとってウラジヴォストークは冬季の間使用が制限される問題があり、さらに南方に一年を通じて常時利用できる完全な不凍港を求めた。そこで目を付けたのが満州から延びる遼東半島の先端の大連と旅順であった。
 1897年11月、ドイツが9月に起こったドイツ人宣教師殺害事件を口実に艦隊を膠州湾に派遣、占領、翌年3月、膠州湾租借条約を結び山東半島を勢力下に置くと、ロシアは露清密約に基づき、長崎に停泊中の東洋艦隊を黄海に派遣、翌年3月、旅順・大連の租借と、東清鉄道ハルビンから奉天を経由して大連に至る南満支線の敷設権を要求した。この1898年の列強による中国分割に乗じたロシアの圧力に対して、清朝政府李鴻章は1898年3月27日、北京においてロシアとの間で関東州租借条約に調印、その要求に応じ、旅順・大連はロシアに租借された。さらに同年5月5日、ペテルブルクで締結された関東州租借条約追加協定で、清国は東清鉄道本線と、ハルビンから遼東半島先端の大連・旅順を結ぶ南満支線の敷設権をロシアに認めた。
 遼東半島は下関条約で一旦は日本に割譲されたが、ロシア・フランス・ドイツの三国干渉によって清に返還した地域であり、その地をロシアが租借し、しかもシベリア鉄道から伸びる鉄道が南端の大連・旅順に伸びることは、日本にとって不満が残るとともにロシアに対する敵意が強まることになった。そのロシアの脅威の最先端である東清鉄道南満支線工事は1903年1月に完了し、いよいよその脅威が現実のものとなった。日露戦争開戦1年前であった。

英露のゲージ対立

 東清鉄道南満支線もシベリア鉄道と同じゲージの広軌(5フィート)であったので、シベリア鉄道から乗り入れた列車は遼東半島の先端の大連・大連まで直行できることとなり、ロシアの東方進出の拠点として重要な基地となった。この東清鉄道とその南満支線の開通によって、モスクワからウラジヴォストーク、または大連に2週間余りで到達でき、ロンドンからカイロで上海までおよそ3ヶ月かかるのに比べて、大いに有利な状況となる。これはイギリスにとって脅威であり、日本にとってはかつて下関条約で獲得しながら、三国干渉で清に返還した遼東半島がロシアの支配下に入ることになるので、強い反感が生じることとなった。
 一方、イギリスはすでに北京と満州の奉天を結ぶ京奉鉄道の敷設権を得ていた。そのゲージはイギリス本国と同じ標準軌(4フィート8インチ半)であったので、広軌である東清鉄道とその支線の南満支線が満州に伸びてきても、繋がることはできない。これ以降、イギリスとロシアは満洲における鉄道敷設をめぐり、標準軌と広軌というゲージの違いもあって、競合することとなる。日本は朝鮮半島の釜山から北上する鉄道の敷設権を朝鮮に認めさせ、それを北上させ満州方面と結ぶことを意図していたが、そのゲージは日本国内の狭軌とはことなり、イギリスと同じ標準軌を選んでいた。こうして、満州の鉄道敷設をめぐり、広軌のロシアと標準軌のイギリス・ロシアの対立は鮮明となり、ロシアの侵出を警戒するイギリスとロシアは利害が一致するところから急接近し、1902年日英同盟(第1次)締結へと向かう。<井上勇一『鉄道ゲージが変えた現代史』1990 中公新書 p.17->

日露戦争

 1903年に東清鉄道南満支線が完成し、ロシアが旅順・大連へ直接に軍を送ることができるようになったことは、日本は大きな脅威と捉えた。国内でも早期開戦論が強まり、1904年日露戦争の開戦となった。この戦争は、いわば東清鉄道とその南満支線をめぐる日露の戦いという一面を持っていた。

Episode 鉄道ゲージ付け替え作戦

 日露戦争開戦に当たり、日本の大本営はロシアの東清鉄道南満支線を最大限利用しようとしたが、そこでもゲージの違いが問題となった。東清鉄道は広軌であるが、そこを走る機関車や貨車、客車をロシアが引き上げてしまえば、中国本土の鉄道はイギリスと同じ標準軌なのでその車両を徴発しても使えない。日本から車両を運んでも、日本の鉄道は狭軌なので使えない。この問題は大本営でも激論となって決着がつかず、最終的には御前会議まで持ち越され、結局、占領した東清鉄道の路線を狭軌に付け替え、日本の車両を運んで走らせることになった。そこで日本国内の鉄道技術者を集めて野戦鉄道提理部を編制し、狭軌用の機関車2両と貨車50両と提理部員約900人を鹿児島丸と佐渡丸に分譲させ、遼東半島に送り込むもうとした。ところが1904年6月15日、提理部員の乗った佐渡丸がロシア巡洋艦によって砲撃されて損傷、148人の死者が出た。遅れて横浜港を出た鹿児島丸は無事にダルニー(大連)に着き、車両と技術者たちを上陸させることができた。<原田勝正『満鉄』1981 岩波新書 p.11-,17->
 このような苦労を重ねながら、野戦鉄道提理部は東清鉄道南満支線の広軌を狭軌に付け替える軌道改築作戦を急ピッチで進め、日本から運んだ機関車と車両を走らせ、北上するロシア軍を追撃する陸軍を運んで勝利につながった。

日本の南満州鉄道株式会社設立

 この後、日露戦争で勝利した日本は、1905年ポーツマス条約で、ロシアの遼東半島租借権を継承するとともに、東清鉄道の南満支線のうち、長春から大連・旅順までの鉄道の営業と沿線の鉱山開発などを行う権利を得た。この鉄道を営業する会社として南満州鉄道会社(満鉄)を1906年11月に設立した。

東支鉄道(中東鉄道)

 中国では1911年の辛亥革命で清が倒れて中華民国が成立したので、東清鉄道は日本では「東支鉄道」と言うようになったが、中国では「中東鉄道」と言われるようになった。さらに第一次世界大戦中にロシア革命が起こり、1917年にソヴィエト政権が権力を掌握すると、ロシアの権益である東支鉄道をどうするか、という問題が生じた。革命に介入して1918年8月にシベリア出兵を実行したアメリカと日本は、英仏伊とともにシベリア鉄道・東支鉄道の共同管理をとりきめたが、革命軍は反革命軍を破ったため介入に失敗、撤兵した。
カラハン宣言 1919年、ソヴィエト政権の外務人民委員代理カラハンはカラハン宣言でロシアが中国と結んだ不平等条約・秘密協定の撤廃を表明し、当然それによって東清鉄道のすべての権益は放棄すると約束した。しかしソ連(1922年成立)のカラハンは後に東清鉄道の返還については撤回し、1924年に中国の国共合作(第1次)をうけて成立した中ソ国交樹立に際して、東支鉄道の行政権は放棄するものの、経営権は譲らず、再び中ソ共同経営(実質的にはソ連)によって運行されることになった。ソ連は同年、奉天軍閥の張作霖とも協定を成立させ、東清鉄道は中ソ共同経営とすることに同意させた。
鉄道利権をめぐる抗争 1927年、第一次国共合作が破れて国共分裂となると、ソ連と中国国民党の関係が悪化し、さらに国民党蔣介石の北伐が完了したことで張作霖も動揺、中国は深刻な混乱に陥った。そのような状況のもとで満州での覇権確立をめざした日本の関東軍は1928年6月4日、北京から奉天に向かう京奉線を爆破して殺害(張作霖爆殺事件)し、その勢力の排除を狙った。しかしその子の張学良は同年12月に「易幟」を行って国民党政府への協力を表明し、関東軍の意図は実現しなかった。張学良は独自の政権樹立を目指し、1929年、東支鉄道の利権の回収を図って軍事行動を起こしたが、利権を守ろうとするソ連に敗れ、その意図も挫折、東支鉄道の権益はソ連が維持することとなった。

満鉄への統合

 1931年9月に日本の関東軍は満州事変を引き起こして満州全土の支配に乗りだし、ついに翌1932年3月には中国と分離した独自の国家として満州国を樹立した。その背景には南満州鉄道と競合する鉄道建設を中国が進めようとしていたことに危機感を持ったことがあげられており、満州国設立とともに、満州の鉄道を一括して運営する満州鉄道の設立に乗り出した。
 東支鉄道(中東鉄道)はなおもソ連が経営権を有していたが、1935年3月、ソ連と満州国で協定が成立し、ソ連は東支鉄道を満州国に売却した。中国政府はこれに抗議したが、売却は成立、これ以後は東支鉄道も南満州鉄道(満鉄)の経営に入った。なお、東支鉄道本線と支線のハルビンから長春までの間は、ロシア時代以来の広軌であったが、満鉄経営のもとに入ったことによってそれらを満鉄と同じ標準軌に改築する作業が必要であった。満鉄は1937年6月までに標準軌への付け替え工事を完了させ、中国本土と同じゲージとなった。 → 中国の鉄道

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