印刷 | 通常画面に戻る |

李鴻章

郷勇の淮軍を組織し、さらに北洋艦隊を私兵化した軍閥の代表的人物。漢人官僚として1860~70年代の洋務運動を進めた。日清戦争講和会議での清の全権大使。

 李鴻章(1823~1901)は、安徽省の出身で、曽国藩の部下として頭角を現し、太平天国の乱では、郷勇の淮軍を組織し、1864年の鎮圧まで、太平天国との戦いに活躍した。その後、両江総督となり、さらに1866年には曽国藩に代わって欽差大臣となって、太平天国に呼応した農民反乱である捻軍の反乱を1868年8月までに鎮圧した。1870年からは直隷総督兼北洋大臣、1872年からは内閣大学士を務め、この間「洋務運動」を推進した。また特に清朝末期の対外関係ではヨーロッパ諸国とのキリスト教布教をめぐる問題、日本との台湾出兵問題・琉球帰属問題日清戦争などの外交交渉にあたった。また晩年には義和団事件後の8ヵ国連合軍との講和交渉も担当した。19世紀末の清朝の中枢を占めた重要人物であった。

洋務運動

 太平天国鎮圧後、アロー戦争後の清朝の漢人官僚として、一定の上からの改革運動である洋務運動の中心人物となった。特に1865年から67年にかけて、軍事工場を中心とした四大工場など洋式工場の建設や炭坑、鉄道などの育成にあたった。
北洋艦隊 また、1874年に日本が台湾出兵を行うと、日本に対処するため近代的な海軍の建設を急務であると主張し、1884年に北洋・福建・南洋の三艦隊を整備にあたった。1888年に完成した北洋艦隊は清国海軍の主力部隊として近代的装備を持ち、日本の仮想敵国としていたので、日本にとって大きな脅威となった。陸軍としては淮軍を中核に北洋軍が編成されたが、それは依然として李鴻章の私兵としての性格が強く、李鴻章死後はその後継者袁世凱の権力を支える北洋軍閥といわれるようになる。

外圧への対処

 しかし1870年代から80年代にかけて清朝に対する周辺からの圧力が強まり、イリ事件(1871年)、イギリスのビルマ戦争によるビルマ併合(1886年)に伴う雲南侵出、ベトナムへのフランスの侵出に伴う清仏戦争1884年)が続き、清朝の宗主権は次第に失われていった。

日清戦争の敗北

 朝鮮をめぐる日清両国の対立は、1894年日清戦争へと突入する。李鴻章は、北洋艦隊や北洋軍が近代的軍隊として充分な制度に達していないことを恐れており、また日本軍との戦いで損失が出ることを惜しみ、開戦には消極的であったが、西太后周辺の積極派に押し切られ、開戦に踏み切った。しかし、恐れていたとおり、軍事的な敗北を追い込まれた。李鴻章は、ロシアやイギリスの仲介に期待したがうまくいかず、結局自らが乗り出して講和をはからなければならなくなった。

下関条約

 李鴻章は清朝の全権大使として下関で伊藤博文と交渉し、日清戦争の講和条約として1895年4月、下関条約を締結した。李鴻章は下関条約で、朝鮮の独立を承認し、遼東半島台湾澎湖諸島の割譲、さらに2億両(テール)の賠償金の支払いなど屈辱的な条約に調印せざるを得なかった。
三国干渉と東清鉄道 日本の大陸への権益拡大を恐れたロシア・フランス・ドイツは三国干渉を行い、下関条約に定められた遼東半島を清に還付することを強く要求、日本はそれに応じざるを得ず、還付に同意した。これはロシアによって主導されたものであったので、李鴻章政府は1896年、見返りとしてロシアと露清密約(李鴻章=ロバーノフ条約)を結びシベリア鉄道の支線として東清鉄道を清国領土を横断する形で建設する権利を与えた。これによって清はロシアとの関係を強め、ロシアと結んで日本と対抗しようとした。
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

岡本隆司
『李鴻章』
2011 岩波新書