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清仏戦争

1884年、ベトナム支配権をめぐる清とフランスの戦争。フランス軍が苦戦したが、1885年6月に天津条約で講和し、清朝がベトナム宗主権を放棄した。

 フランスはナポレオン3世の時代の1856年、インドシナ出兵を開始し、1862年のサイゴン条約でベトナム南部を割譲させ、さらに第三共和政時代に1883年からのユエ条約などでベトナムを保護国化した。ベトナム(阮朝)への宗主国を主張する清はこれを認めず、ベトナム北部トンキン地方に出兵し、劉永福の指揮する黒旗軍と協力してフランス軍に対抗し、1884年6月、清仏戦争となった。

清軍が優勢に戦う

 清仏戦争では、劉永福の率いる黒旗軍もベトナムでフランス軍を破ったが、同じく客家出身の老将馮子材が活躍した。すでに70歳を超えていたが、フランス軍に押されて中国本土まで後退した清国軍の前線に赴いて総指揮官となり、精鋭部隊の先頭に立って戦って諒山の戦いでフランス軍を撃退した。フランス海軍は中国沿岸を北上して長江河口や台湾、澎湖島などに砲撃を加え、清朝を威圧した。しかし清の海軍もよく戦い、台湾ではフランス軍の軍旗を奪ったり、鎮海湾(浙江省)の戦闘では正確な砲撃でフランス軍を攻撃、海軍司令官クールベ提督を戦死させた。陸上の戦闘では、洋務運動の成果として近代装備を身につけた清軍が果敢にフランス軍と戦い、有利に戦局を展開させていた。あいつぐフランス軍の敗北によって、本国では責任をとってフェリー内閣が倒れてしまった。

清、講和を急ぐ

 ところが清朝政府の西太后李鴻章は、講和を急ぎ、翌1885年6月に不利な条件での講和条約、天津条約の締結に踏み切った。この条約で、清はベトナムに対する宗主権を放棄し、そのフランスによるベトナム保護国化を承認した。

講和の背景

 清朝政府が講和を急いだ理由は、1884年の12月に、同じく清朝の宗主権下にあった朝鮮で、日本と結んだ開化派(独立党)のクーデタ甲申政変が起こったためであった。金玉均らは清仏戦争で清軍がベトナムに釘付けになっている間に、日本と結んで清と結ぶ閔氏一派を排除し、近代化政策を実行したのだった。
 李鴻章は朝鮮情勢を重視して機敏に反応し、軍隊を派遣してクーデタを鎮圧したが、その後も日本とのにらみ合いが続いたため、ベトナムでの戦争継続が困難になると判断し、講和を急いだのだった。李鴻章が講和を主張したのは、戦争が長期化すると自分の虎の子の北洋軍閥の兵力をさかなければならなくなることを恐れたのだ、という指摘もある。<加藤徹『西太后』中公新書 2005>
 朝鮮における甲申政変の事後処理としての日本と清の間の天津条約1885年4月に締結された。それも甲申政変の軍事衝突では清が優勢に終わり、日本の勢力は後退したが、天津条約では清は互角の条件(相互の撤退と、今後の出兵の際の事前通知)で妥結したのは、ベトナムでのフランスとの戦争がまだ終わっていなかったからだった。
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書籍案内

加藤徹
『西太后』
2005 中公新書