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天津条約(1885,日清間)

1885年4月、甲申政変の後に日本と清の間で締結された朝鮮に関する条約。両国軍の撤退と共に、将来の出兵には双方とも事前通告が必要とされた。

 甲申政変後、日本の伊藤博文と清の李鴻章は中国の天津で会談し、翌年の1885年4月に天津条約を締結した。その条項はわずかに次の三ヵ条だった。
  • 4ヶ月以内に日清両国は朝鮮から撤兵する。
  • 朝鮮軍の訓練には日清両国がともに当たること。
  • 将来、どちらかの国が重大な事情により朝鮮に派兵する場合は、相手側に事前通知すること(行文知照)。
 甲申政変での軍事衝突では清が勝利を占め、その宗主国としての力は強くなったにもかかわらず、天津条約が互角の条件で妥結したことは、清が相当に譲った結果であった。清が譲らなければならなかった背景には、当時、清仏戦争がまだ継続中で、華南からベトナム一帯でまだフランス軍との戦闘が続いていたことがあげられる。
 ともかくも天津条約によって日清両国間の全面衝突は回避され、朝鮮における外国軍は撤退し、相対的な朝鮮の安定が回復されたが、9年後に甲午農民戦争が勃発すると、朝鮮政府が清軍に出兵を要請、日本もこの天津条約に基づいて出兵し、両軍の衝突からついに日清戦争となった。  → なお、1856年、アロー戦争の際に、清がイギリスと締結した条約も天津条約といい、同じ1885年に、清仏戦争の結果、清とフランスが結んだのも天津条約である。
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