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西太后

清朝末期の同治帝・光緒帝の二代にわたり、皇太后という立場で清朝末期の宮廷、紫禁城で隠然たる権勢を誇った。この間、清朝は太平天国の乱後の洋務運動、同治中興、日清戦争、戊戌の政変、義和団事件、日露戦争と困難が続いたが、西太后は保守派官僚を動かし、改革派を退けた。その支配は1861年から亡くなる1908年までの約50年におよんだが、特に1898年の戊戌政変では康有為ら改革派を弾圧したこと、1900年の義和団事件では諸外国に宣戦したが敗れ、大きな譲歩を余儀なくされたことなどの重大な局面で責任を負った。最後に改革に取り組んだが不徹底のまま1908年に亡くなり、清朝はその後まもなく1911年に辛亥革命で倒れた。

 満州の女真の貴族ホエナラ氏に生まれ、皇帝咸豊帝かんぽうていの側室となって男子をもうけ、その子が即位して同治帝となったので、皇太后となりった。正室の東太后に対して西太后と言われた。1861年、6歳で皇帝となった同治帝に代わって垂簾聴政すいれんちょうせい(幼少の皇帝に代わり御簾の裏で摂政として政治を執る)を開始した。

西太后の時代

同治の中興 はじめは曽国藩李鴻章ら漢人官僚による洋務運動を支持し、同治の中興といわれる安定期をもたらした。同治帝が17歳になり親政を開始した1873年にはいったん垂簾聴政を終えたが、翌年急死したため、4歳の甥の光緒帝を立て、再び垂簾聴政を開始した。
あいつぐ戦争 次第に権力を独占するようになったが、この間イリ事件など「辺境の危機」が続き、1884年にはベトナムの宗主権をめぐって清仏戦争が起こり、その後は洋務派も退けた。1889年に光緒帝が親政を開始し、西太后は離宮の頤和園に引退したが、光緒帝が次第に改革を進めようと「帝派」を形成すると、「后派」といわれる旧勢力を率いて皇帝を牽制するようになった。日本の圧力が強まり、帝派は日清戦争を決断したが、西太后は開戦に反対した。
戊戌の変法 1894年日清戦争に敗北した後、日本に続きロシア、フランス、ドイツ、イギリスによる中国分割が進む中で、康有為・梁啓超ら革新派の若手官僚が光緒帝のもとに結集し1898年4月に戊戌の変法(百日維新)を開始すると、西太后は宮中保守派を動員してクーデターを行って光緒帝を幽閉、同1898年9月に改革派を弾圧して戊戌の政変を断行した。
義和団事件 その後の10年は独裁的な権力を握ったが、1900年義和団事件で大きく動揺した。はじめ排外主義の義和団を支持して諸外国に宣戦布告したが、8ヵ国連合軍に北京を攻撃されると、宮廷ごと西安に逃れた。このとき、西太后は北京を離れることを拒んだ光緒帝の妃の珍妃を宦官李蓮英に命じて紫禁城の井戸に投げ込んで殺したと言われている。敗れた清朝は列強との間で北京議定書を締結、外国軍の駐留を認めるなどの大きな犠牲を強いられた。
光緒新政 講和成立後北京に戻った西太后は一転して西洋文明の導入に努め、立憲制度の導入による清朝の延命を策した。1901年からの光緒新政は科挙の廃止など近代的な改革を目指したが、不徹底のまま経緯し、その間、次第に孫文らの清朝打倒の運動が組織されていった。西太后は政治への直接の関与を避け、頤和園で西洋趣味を楽しんだが、宮廷の奢侈をよそに清朝の衰退は急速に進み、日露戦争で清朝の故郷が戦場となるのを傍観する他はなかった。西太后は、1908年11月15日、幽閉していた光緒帝の死の翌日、息を引き取った。

Episode 西太后の実像

 西太后は中国の映画『西太后』1985 などによって、競争相手の后の手足を切断して「生きダルマ」にした、などの残忍な女性というイメージが強いが、この話はフィクションである。それに近いこととしては、義和団事変で北京を脱出するとき、云うことを聞かなかった光緒帝の妃の一人珍妃を宦官に命じて井戸に放り込んだ、ということがある。相当気性は激しかったようだ。珍妃を井戸に投げ込んだ話や、食事のたびに百種以上の料理を出させ、毎回宦官の一人をささいなことでむち打ちの刑にし、その悲鳴を聞きながら食べていた、などという話が『最後の宦官小徳張』<張仲忱、朝日選書 1991>に見えている。西太后の実像に迫り、その統治に現代中国の原点を見いだしているのが『西太后』である。<加藤徹『西太后』中公新書 2005>

参考 西太后、義和団事変を語る

西太后

中央が西太后 左端が徳齢、右端が妹容齢
Wikimedia Connons による

 義和団事変の後の、1903年に西太后に仕えた女官の徳齢という女性がいた。彼女は父が満州人の高官で清朝の外交官としてパリに赴任した際に同行し、西欧の言葉や文化に通じていたので、西太后の世話係兼通訳として抜擢されたのだった。そのころイギリス、アメリカ、ドイツ、フランスそして日本などからの外交団がしきりに西太后に面接を求めたので、その応接の役割も与えられた。利発な徳齢は西太后に気に入られ、その公務を助け、私生活にもかかわった。彼女は二年間、西太后のそばで勤めた後、アメリカ人の男性と結婚、1911年、つまり辛亥革命で清朝が倒れた年にアメリカで『西太后に侍して――紫禁城の二年間』という本を出版、清朝末期の宮廷を牛耳った実力者として知られていたた西太后の生の声を伝えてベストセラーとなった。
 実際には西太后の別荘であった頤和園でのほぼ2年間の生活が描かれているだけであるが、同書は清朝末期の宮廷生活の風俗を伝えて興味深い。西太后がアメリカ人の女流画家カールに肖像画を描かせた話や、実質的には頤和園に幽閉されていた光緒帝の憂鬱な生活の中でも外国に対する興味を示していることなどもつたえている。なによりも西太后が側近に語った生の声が記録されていると言えるので、清朝末期の歴史を知るうえでは貴重な資料とされいる。
 ここでは西太后が義和団事件に際して、どう考え、どう行動したのだろうか、彼女自身が語っている部分があるので見てみよう。西太后は動乱の原因はキリスト教の宣教師とキリスト教信者達が不法な振る舞いを続けたことにあるとしており、それに反発したのが義和団だったとしてみずからのキリスト教嫌いとともに義和団が蜂起したのも無理がない、との理解し示している<仇教運動の項、参照>。その上で、1900年に義和団を支持して諸外国に宣戦布告したことには次のように弁明している。
(引用)多くの人たちは政府と拳匪(義和団のこと)とが関係があったと信じているようですが、それは嘘です。私たちは騒動を知るとさっそく勅諭を幾つも出して、軍隊に拳匪を追い払えと命令したのですが、もう拳匪の乱は余り進み過ぎていたのです。私は絶対に宮城から出ないと決心しました。私はお婆さんですし、死のうがどうなろうが構いはしなかったのですけれど、端郡王と瀾公(載瀾)は直ちにお逃げになった方がいいと勧めました。二人は私たちは変装して逃げねばならないなどと言いますので、それに私もひどく怒って、拒絶しました。北京に宮廷が戻ってから、聞くと私が変装して逃げたとか、女婢の着物を着たとか、ロバに引かせた壊れた荷車に乗ったとか、私のこの召使いの婆やが皇太后の装束をして私のカゴに乗っていったとかいう話を信じている人が沢山あるのですね。…………<徳齢/太田七郎・田中克己訳『西太后に侍して――紫禁城の二年間』2023 講談社学術文庫 p.200>
 続けて西太后は、北京を脱出したときは三千人いた太監は皆逃亡して十三人だけが残り、召使いや婆や二人と女婢が一人だけの寂し逃避行だったことや西安での惨めな生活を回顧している。そして最後の方で、義和団の運動への対処は生涯唯一の誤りだった、と次のように述懐した。
(引用)私にも相談する軍機処がありますが、ただいろいろな人事を監督しているだけで、重要な趣を帯びたことはなんでも私が自分で裁断しなくてはならないのです。皇帝(光緒帝)など何を知っています、私はあれまではとてもうまく行っていたのですが、あの拳匪の運動がしまいに支那にあんなに重大な結果を起こそうとは夢にも思いませんでした。あれが私の生涯でやったただ一度の誤りでした。私は直ちに勅諭を出して、拳匪がその信仰を実行にうつすことを禁ずるべきだったのですが、端郡王と瀾公が、自分たちは拳匪こそあの面白からぬ憎むべき外国人を悉く追い払えるように、天から中国に送られたものだと確信していると言うのでした。…………<徳齢『同上書』 p.377>
 西太后は宮廷内の義和団支持派の急進的の主張を危険だと感じ、病での休暇中から復帰した栄禄にただちに急進派の説得に当たらせたが、すでに義和団は外国人を皆殺しにする準備を終えており、手遅れだと伝えられた。
(引用)事態は日々に悪化して、栄禄が拳匪に反対する唯ひとりになってしまいました。あの大勢に対して一人では何ができましょう。ある日、端郡王と瀾公がやってきて、私に、まず公使館の者を皆殺しにし、次いで、残っている外国人を残らず殺すことを拳匪に命ずる勅諭を出せと要求しました。私は大変憤って、この勅諭を出すことを拒絶しました。ずいぶん長時間にわたって議論した後、端郡王は、これは猶予なく行われなければならぬ、というのは、拳匪たちは公使館に火をつける用意をしているから、この明日にもそうするだろうと言いました。私は激怒して、数人の太監に彼を逐い出せと命令しましたが、端郡王は出て行きながら『陛下がこの勅諭を出すのを拒絶されるなら、陛下の思召し如何にかかわらず私が陛下の代わりにそれを出しますよ』と言いましたが、そのとおりにしたのですね。その後どうなったかはあなたも知っているでしょう。あれは私に知らせないであの勅諭を出したのですが、あんなに大勢の人が死んだのは、その責任です。あれは自分の計画がうまくいかないと知り、外国の軍隊が北京からあまり遠くないところまで迫ったと聞きますととても怖くなったので私たち一同に北京を捨てさせたのですよ。<徳齢『同上書』 p.382>
 言い終わると西太后は泣き出した。慰める徳齢に、同情には及ばないが、私の名声が地に落ちたことは悲しんもらいたいと言い、「あれは私が全生涯にやった、たった一つの誤りで、私の弱かった時にやったもの」で国ためにやった功績という玉の中の一つだけの瑕(キズ)と述べ、最後に次のように言った。「私はあんな奸悪な端郡王、すべての事の責任者であるあの男を、あれほど信頼しきっていたのを、幾度となく後悔しました」。
 つまり、西太后は義和団事件の時、外国への宣戦布告を出したのは急進派が自分の意に反して出したのであり、自分の責任ではない、といっている。たしかに西太后でもあのときの義和団の勢いを抑えることはできなかったであろう。ということは清朝がはすでに中国を統治する能力を失いつつあったということを示している。
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書籍案内

深澤秀男
『西太后ー清末動乱期の政治家群像』
世界史リブレット 人
2014 山川出版社

加藤徹
『西太后』
2005 中公新書

張仲忱/岩井茂樹訳
『最後の宦官 小徳張』
1991 朝日選書

徳齢
太田七郎・田中克己訳
『西太后に侍して――紫禁城の二年間』
2023 講談社学術文庫

渡辺みどり
『西太后とフランス帰りの通訳』
2008 朝日文庫