印刷 | 通常画面に戻る |

孫文(1) 辛亥革命

1894年から清朝支配に対する抵抗を開始、興中会・中国同盟会を組織して運動と展開、蜂起失敗、亡命をくり返しながら三民主義などの理念をつくりあげ、1911年に辛亥革命を成功させ、翌年中華民国の初代臨時大総統となった。ここまでを孫文の目指した革命の前段とすれば、後半は広東を拠点として国民党・中華革命党を率いて北京軍閥政府と戦い、さらに中国国民党を組織して共産党との国共合作に踏み切ることで帝国主義と戦った時期といえる。孫文は1925年の死去まで30年以上にわたって中国の統一と真の独立を目指す国民革命を指導した人物であった。


孫文 1866-1925
 孫文(1866~1925、孫逸仙、孫中山とも号した)は広東の農民出身であったが、華僑として成功していた兄を頼って14才でハワイに渡り、アメリカの民主主義を知ると同時にクリスチャンとなった。19才で広東に戻り、香港で医学を学び、医師を開業したが、個人を救う医師よりも危機の中国を救う国医となるほうが大切だと考えるようになり、改革運動に加わった。1894年にハワイで興中会を結成して以来、数回にわたる蜂起失敗、亡命をくりかえし、1905年に中国同盟会を組織し、三民主義を理念として掲げ、ついに1911年に辛亥革命(第一革命)を成功させ、1912年に南京に中華民国を樹立、臨時大総統となった。
 その後北京は袁世凱に奪われ、広東を拠点に国民党の一員として抵抗(第二革命)、国民党が弾圧されてからは秘密結社中華革命党を結成して袁世凱の帝政復活に反対(第三革命)、さらに北京の軍閥政府に対抗して1917年に広東軍政府を樹立した。第一次世界大戦後の1919年、五・四運動を機に中国情勢は大きく転換、孫文は大衆政党として中国国民党(現在の国民党)を組織した。20年代にはロシア革命後のソヴィエト政権(ソ連)と接近して、1924年に国共合作(第1次)に踏み切り、全面的な国民革命を開始したが、翌1925年に「革命いまだ成らず」の言葉を残して死去した。
 その生涯は毀誉褒貶も激しかったが、一貫して国民革命を求めたのであり、現在も中国大陸、台湾のいずれにおいても国父として尊崇されている。 → (2)第1次国共合作

孫文(1) 辛亥革命

興中会から中国同盟会へ

ハワイでの興中会結成 清朝の打倒を目指して運動を開始した孫文は、日清戦争の最中の1894年8月、華僑を組織して資金を得るためにハワイに渡り、1894年10月、その地で興中会を結成した。当時はハワイ王国がアメリカ人入植者の武力によって滅ぼされた直後であり、その現実を孫文は直視することとなった。
蜂起計画失敗と逃亡生活 1895年帰国して香港で興中会を組織拡大し「韃虜を駆除し中華を回復する」(韃虜とは満州族のこと)を掲げた。日清戦争で清の敗北が明確になると、9月に広州で武装蜂起を計画したが、事前に発覚して失敗し、日本に亡命した。追われる身となった孫文は、横浜・ハワイを経てアメリカを横断、ロンドンへと逃亡生活を続け、ロンドンでは清国公使館に軟禁されたことがニュースとなり世界的に名が知られることとなった。
日本での孫文 1897年、横浜に戻った孫文は宮崎滔天と知り合い、滔天は孫文の革命思想に感銘を受け協力を約束、その時の交流を『三十三年の夢』に詳しく述べている。このとき宮崎滔天は戊戌の政変で日本に亡命していた康有為梁啓超を孫文に引き合わせ、運動の合同の可能性が話し合われたが、康有為らは清朝のもとでの立憲君主政をめざし、孫文は清朝打倒と共和政を主張したので決裂した。また日本滞在中は横浜を拠点に活動し、宮崎の紹介で板垣退助・伊藤博文・犬養毅などに清国の現状を訴え、革命への協力を要請した。まさにその頃、列強による中国分割が進行し、植民地化の危機が現実のものとなっていた。1900年には義和団事件が起こり、その時孫文は香港にあって広東省恵州で同志鄧士良に武装蜂起させたが、この恵州蜂起は期待した日本の支援が得られず、鎮圧された。横浜で中国民族の独立と専制政治の打倒を説く孫文のもとには華僑や留学中の中国人の青年が集まり、その影響力は徐々に大きくなっていった。1903年から04年はアメリカ、ヨーロッパ、シンガポールを回り、中国革命への支援を世界に訴えた。

恵州蜂起に加わった日本人

 孫文は日本との関わりが深く、東京、横浜、神戸、長崎などに足跡を残し、辛亥革命の過程でも多くの日本人協力者がいた。『三十三年の夢』を書いた宮崎滔天がその代表であろうが、他にも梅屋庄吉や山田順三郎らがよく知られている。順三郎の兄良政は恵州蜂起に参加し、戦死している。そのとき孫文は台湾総督児玉源太郎に武器支援を要請し、児玉はそれに応じたが、結局東京の政府は協力せず、武器が不足したために鎮圧されたと言われている。日本が深くかかわっていた事がわかる。<保阪正康『孫文の辛亥革命を助けた日本人』1992初刊 2009ちくま文庫>

苦悩する革命指導

中国同盟会の結成 再び東京に戻ってきた孫文は、1905年8月20日、中国同盟会を結成した。そこでは明確な革命の理念として三民主義が掲げられ、運動の柱として四大綱領が立てられた。そして中国同盟会には、横浜の留学生が結成していた華興会の正副会長であった若き黄興(30歳)と宋教仁(23歳)が合流した。中国同盟会は機関紙『民報』(編集長章炳麟)を発刊し、孫文はその誌上で三民主義と三段階革命論などの主張を展開し、国外から革命機運を盛り上げた。
挙兵失敗が続く 孫文は日本から国外退去を命じられ、1906年から辛亥革命勃発の1911年まで、シンガポール、ハノイ、ペナンなどを飛び回り、華僑に中国革命支持と資金援助を訴えながら、国内での中国同盟会員に蜂起を促した。この間、清朝打倒を目指す蜂起は10回以上にわたったがいずれも失敗し、孫文に対する非難も起こってきて、運動は分裂の危機を迎えた。
 この間中国では、光緒新政といわれる清朝による一定の近代化政策が進み、新軍建設などの軍隊の近代化、科挙の廃止などが行われ、1908年には憲法大綱が発布され9年後の議会開設が約束された。同時に日露戦争に勝利した日本は1910年に韓国併合を行い、さらに満州への進出の動きを強めていた。

辛亥革命の勃発

 20世紀に入ると中国では外国との貿易の拡大、変法(近代化)の成果もあって、徐々に民間の資本も成長、清朝の圧政が続くことに不満、批判が強まっていった。そのような中で、1911年に清朝政府が外国資本である四国借款団からの資金をもとに鉄道国有化政策を打ち出したことに民族資本と民衆が反発、まず四川暴動が起こり、さらに同1911年10月、新軍の兵士が武昌蜂起を起こし、その動きが湖南省、陝西省、さらに上海へと広がり蜂起軍は共和政国家樹立を宣言するという動きが一気に広がった。
海外で革命勃発を知る 孫文の基盤であった広東・広州ではない、長江上流の四川から始まったこの暴動は孫文が想定したのとは違っていたが、アメリカのデンバー滞在中にこのことを知った孫文は、途中各国で中国の革命への支持を訴えながらヨーロッパ経由で年末12月25日に上海に帰国した。新聞は孫文が多額の軍資金を携えて帰国すると書き立てていたが、孫文は「わたしは無一文である。持ち帰ったのは革命精神である」と言明、人びとは孫文の帰着に沸き返り、分裂していた革命派も孫文を中心でまとまることができた。12月29日に革命政権を樹立した17省の代表が1省1票で投票した結果、孫文16票、黄興1票で孫文は臨時大総統に選出された。こうして孫文は辛亥革命(第一革命)の中心に座ることとなった。<藤村久雄『革命家孫文』1997 中公新書 p.76>

中華民国の建国

 翌1912年1月1日、南京に中国南部の17省が加わって共和政国家として中華民国の成立が宣言され、孫文(45歳)は17省の代表によって選出され、臨時大総統に就任した。中国の王朝専制政治が終わり、当時まだほとんどなかった共和国を、アジアで最初に実現するという栄誉となった。しかし新政府は財政、軍事基盤ともに弱く、北部には清朝支配が残存しており、不安定であった。そのような状況の中で、清朝の実力者で内閣総理大臣の袁世凱が清朝皇帝宣統帝に迫って退位させ、1912年2月に王朝は12代297年で滅んだ。袁世凱は皇帝退位を条件に孫文に臨時大総統就任を要求していたので、孫文は臨時大総統を辞任、2月15日に袁世凱が代わって臨時大総統に選ばれた。孫文は革命の安定的な前進を優先した妥協であったが、袁世凱は約束した南京に来ることなく、3月10日に北京で就任式を挙げた。

袁世凱との闘争

第二革命 1912年8月に中国同盟会などの政治結社が統合されて、国民党(後の1919年に結成される中国国民党とは別なので注意)が結成された。これは幅広い主張を持つ小政党が合同したもので、孫文は理事長に推されたが、実務は宋教仁がとりしきった。北京で中華民国の臨時大総統に就任した袁世凱は、独裁的な姿勢が強く、帝政と変わるところがなかった。そのためが孫文は袁世凱の独裁に抵抗するため、第二革命といわれる運動を開始した。袁世凱も妥協して暫定憲法として議会制度を採り入れ、臨時約法が制定され、1913年に初めての選挙が実施されると国民党が第一党に躍り出た。
中華革命党 しかし、この事態を恐れた袁世凱は実力で議会を解散させ、国民党の指導者宋教仁を暗殺した。国民党側では各地で武装蜂起して袁世凱政権と戦ったがいずれも弾圧され、解散状態となってしまった。1913年10月6日、国会で袁世凱が正式に中華民国大総統に選出され、第二革命は終わった。孫文はそれより前の8月、やむなく日本に亡命、翌1914年7月、東京で秘密結社として中華革命党を結成し、革命運動を継続した。中華革命党の党員は弾圧を避けるため非公然に活動する秘密結社であったので、孫文のカリスマ的指導に従う側面が強かった。そのため、孫文は「独裁的な民主主義者」と批判されることもあった。
第三革命 北京の袁世凱政権は、彼の子飼いである北洋軍閥を基盤とした軍閥政権であり、非民主的な国家運営が行われた。同時に困難な世界情勢に直面することとなった。1914年の第一次世界大戦では当初は中立を宣言(後にドイツ、オーストリアに宣戦)したが、1915年1月、日本が二十一カ条の要求を突きつけると袁世凱政権はそれをほぼ受諾した。これに対して激しい反対運動が起こった。1915年12月、袁世凱は帝政宣言を発し自ら皇帝となってこの難局を乗り切ろうとしたが、帝政反対の軍人が蜂起して第三革命(護国運動)が起こり、梁啓超らの知識人、さらに日本・イギリスなどの諸外国も帝政に反対したので、帝政を取消し、実現できないまま1916年に死亡した。孫文は第三革命には直接関わることはなく、その間、日本の協力を模索していた。
二十一カ条要求要求と孫文 日本の大隈重信内閣の二十一カ条の要求については、孫文はそれより前の4月、大隈重信に書簡を送り、袁世凱政権に反対する立場から、一定の日本への利益供与を条件に支援を要請していた。しかし、大隈内閣はそれを無視して要求を出し、中国民衆の激しい反発を受けた。孫文はむしろ日本の中国進出は双方を豊かにすることに結びつくとして全面否定ではなかった。そのような孫文の姿勢を日本の日立鉱山の久原房之助や日活の梅屋庄吉など財界の一部が期待し、資金を提供した。1915年10月27日、孫文(49歳)は東京の梅屋庄吉邸で支援者である上海の浙江財閥宋家の次女で秘書だった宋慶齢(22歳)と結婚(孫文は妻を離婚した直後の再婚)した。これは後の国民政府と浙江財閥の深い関係の始まりだった。
広東軍政府の樹立 袁世凱の皇帝即位は失敗したものの、今度は軍閥の対立抗争の中から、1917年7月安徽派の張勲が溥儀を皇帝に戻す(復辟)運動を起こすなど、混乱が続いた。張勲を倒して北京の実権を握ったのは段祺瑞であった。段祺瑞政権は日本からの資金(西原借款)を得て、1917年8月14日にドイツなどに宣戦し、第一次世界大戦に参戦するなど権力を強めていった。孫文は北京の軍閥と外国勢力の結びつきを見て、その打倒を目指すことを決意、広州に入り、中国南部の軍閥勢力を糾合して1917年9月10日、広東軍政府(正式には中華民国広東軍政府)を樹立し、大元帥となった。これは孫文が提唱する革命の第一段階には軍政を行うという考えに基づいたもので、民主的な統治が行われるまでの過渡的な軍による統治と考えられた。孫文は、段祺瑞が中華民国の理念を守らないことを批判して、かつての憲法として制定された臨時約法を守れ、という意味で「護法」闘争と称し、戦いを開始した。
 しかし、広東軍政府の内部にも中国南部各地の軍閥が加わっており、それぞれの対立があった。 また革命の方向を巡っても一致しておらず、孫文の個人プレーに反発する動きもあり、この頃は孫文の立場は不安定なものであった。1918年2月、広東軍政府は大元帥制を廃止し合議制としたので、孫文は辞任した。また国際情勢もイギリスや日本は北京の軍閥政府を支援しており、広東軍政府は孤立傾向があった。特に日本の寺内内閣が段祺瑞政権に多額の借款(西原借款)を与えて支援したことを孫文は強く非難し、アメリカ・イギリスに支援を要請するなどの牽制を行った。

孫文の三段階革命論

 孫文の三民主義は中国革命の指針としてその後も標榜されていくが、孫文自身は、中国で直ちに西洋風の民主主義的な議会政治が可能であるとは考えていなかった。その革命論は、「三序」と言われる段階論であり、憲法に基づく民選政府と民選議会を有する民主体制は、君主制度が廃絶されるとすぐに実現されるのではなく、第一の段階として「軍法の治」、第二の段階として「約法の治」という二つの段階を経て「憲法の治」へ至ると考えた。「軍法の治」とは革命直後の革命党を中心とした軍事独裁体制であり、旧体制の打破と民主化の環境整備の段階とされる。「約法の治」の約法とは臨時的憲法の意味で、地方自治などの部分的な民主化の実現させ、中国国民が民主政治の訓練を受けて成長・自覚をとげた暁に、国民選挙で正式の憲法を制定し、「憲法の治」を実現させるという段階的革命論であった。その根底には、中国人はまだ十分に自覚していないという愚民観があった。その点は宋教仁ら、一挙に選挙による民主政治を実現すべきであると考えた若い革命派とは違っていた。<横山宏章『中華民国』1997 中公新書 p.9>
 孫文の三民主義は独自なものであり、マルクス主義とはまったく異なっていたが、カラハン宣言以来、ソヴィエト=ロシア政権と接触するようになると、レーニンの思想に共感するようになり、三民主義の中の民生の柱である土地斤分の理念は共産主義に近い、と考えるようになった。

孫文(2) 第一次国共合作

1919年、中国国民党を結成した孫文は、ソ連と急速に接近し、1924年に第1次国共合作を成立させ、国民党を改組した。それによって中国の統一、不平等条約の改正、民主政治の実現など本格的な国民革命に着手し、北京政府との統合を目指したが、翌1925年に死去した。その革命運動は蔣介石によって継承されることとなった。

中国国民党の結成

 パリ講和会議の結果として、1919年に二十一カ条要求を容認したヴェルサイユ条約が締結されると、中国全土で条約締結反対の五・四運動が起こり、民族主義(ナショナリズム)が高揚した。上海にいた孫文はそれまでの中華革命党を解党し、秘密結社的な活動ではなく、公然とした大衆政党としての運動へと指導方針を転換させ、1919年10月10日、中国国民党を結成しその総理となった。これは開かれた政党とすることで孫文の個人的指導色を弱め、民主的、全国的な議会が開催されることに備えたものであった。
ソ連への接近 そのころ、世界大戦中の1917年10月に起こった十月革命ボリシェヴィキ政権が樹立され、世界最初の社会主義国家が出現したことに、孫文は強く影響を受けた。孫文は世界各国で活動する中で、帝国主義こそが戦うべき相手だと考えるようになっていたので、ソヴィエト=ロシアの登場に強い刺激を受けたものと思われる。1919年7月と1920年10月の二度、ソヴィエト=ロシアカラハン宣言を出し、中国に対する旧ロシア時代の権益の放棄と国交の樹立の呼びかけを行い、ヴェルサイユ条約に強い不満を持った中国民衆に歓迎されていた。1921年、マルクス主義を実践する中国共産党が陳独秀らによって上海で結成された。中国国民党も中国共産党も当時はまだ弱小組織に過ぎなかったが、北京の軍閥政府に対する政治勢力として共闘する契機が少しずつ高まっていった。それを主に推進したのも、自らがソ連に接近するようになった孫文だった。

国共合作への過程

 1920年11月、孫文は広州にもどり、中華民国広東軍政府を再建、北京政府に対抗する軍事政権とし、北伐の軍を起こすことを決意した。しかし軍政府に加わっていた広東軍閥陳炯明との路線の違いが明確になった。孫文は北京政府を倒し、中央集権のもとで共和制国家を樹立することを主張し、それに向けた過渡期であるから軍政を布く必要があるとしたが、陳炯明は広東に自治政権を樹立することを主張、そのためには軍政ではなく民主的な選挙が必要であるとして、北伐に反対した。1921年4月7日、孫文が大総統(臨時ではない正式な大総統だが、全国の代表の集まった国会ではなかったので非常大総統といわれた)に選出され、いよいよ北伐に着手、大本営を設置した。しかし、1922年6月16日、陳炯明は配下の軍を動かしてクーデタを実行し、広東軍政府の実権をにぎった。孫文は北伐軍に向かう予定の軍を率いて戦ったが敗れ、やむなく上海に逃れた。孫文の北伐の試みは軍政府内部からの離反者によって破綻した、と言う形となった。
孫文=ヨッフェ共同宣言 広州を追われて上海に移った孫文は、1922年8月下旬、コミンテルンから派遣されたマーリン、中国共産党の李大釗と接触し、協議した結果、中国国民党が中国共産党党員を個人として加入させ、ソ連やコミンテルンから支援を受けるという「連ソ・容共」の方針を決定した。当時、ソ連邦が成立し、レーニントロツキーの指導のもと、コミンテルンは世界各地のプロレタリアートに決起を促し、抑圧されている民族への自立の呼びかけを強めていた。翌1923年1月26日、孫文はソ連の正式代表ヨッフェとの間で共同宣言を出し、ソ連は中国への共産主義を導入するのではなく、また中国の課題は階級闘争ではないことを認めたうえで、中国革命を支援すること、帝政ロシアが中国に強要した条約や搾取を放棄する(カラハン宣言と同じ)ことなどを取り決めた(ただし満州の中東鉄道については現状維持とされた)。これによって中国国民党は軍閥政府を倒し、中国の統一と真の民族独立を実現する戦いをソ連の支援のもとで行い、また共産党とも協力するという国共合作(第1次)の枠組みが出来上がった。これは、今後の中国の近・現代史で大きな転換点となる変化であった。

国共合作の実現

 孫文は1923年2月に、雲南軍と広西軍の援助を受け広州の陳炯明を倒し、大元帥として広東軍政府を再建した。ソヴィエト=ロシアとの協力を具体化させ、軍事・政治の顧問団を受け入れ、8月には蔣介石を団長とする軍事使節団をモスクワに派遣した。10月にはコミンテルンとロシア共産党の代表としてボロディンが派遣され広東軍政府に参加した。このようにコミンテルンが直接指導する形で国共合作は進められ、翌1924年1月、孫文中国国民党一全大会を広州で主催し、国共合作(第一次)を正式に成立させた。
 大会で孫文は従来の三民主義を柱として継承するとともに、具体的な戦略として「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策を加味した「新三民主義」として具体化した。同時に中国国民党組織はロシア共産党を手本とした民主集中制の組織に変更され、当時は弱小勢力に過ぎなかった中国共産党党員が党籍をもったまま中国国民党に加入することを認める国民党の改組も決定された。6月には国共合作の路線に基づいて、黄埔軍官学校が設立され、蔣介石が校長に就任、国共合作の軍事基盤を強化することが決められた。
「連ソ・容共・扶助工農」 三民主義は、民族主義=帝国主義に反対し民族解放と国内民族の平等を実現する、民権主義=軍閥の専制に反対し民衆の自由と権利を獲得する、民生主義=土地集中と独占に反対し民衆の生活の安定を図る、というもので、それに加えて「連ソ」=ソ連(コミンテルン)と連繋し、「容共」=共産党を容認し、「扶助工農」=労働者・農民を支援すること、という三政策を加えた(ただし「扶助工農」は後に加えられたもの)。この大胆な方針転換によって、孫文は北京を中心に各地に分立する軍閥勢力を倒し、日本などの列強の中国支配からの解放を目指す「国民革命」を目指す最終段階に入った、と思われた。
 この孫文のすすめた「連ソ・容共」に対しては、特に古参の中国国民党の中で不安視する者、共産党・コミンテルンを危険視する意見、など反対論も根強かった。また国民党に吸収される形となることに共産党内部でも疑問視する声もあり、それらを乗り越えて合意されたものであったが、後々この亀裂は次第に広がってくこととなる。
『建国大綱』 孫文が1924年4月に発表した、中華民国をどのように建設し、国民革命をどのように進めるべきかの指針。まず三民主義と五権憲法(司法・行政・立法・監察・人事を分権する孫文独自の国家論)を基礎とすべきであると述べ、それにいたる段階として軍政期(軍事力によって権力を樹立する)・訓政期(優れた指導者の下にある時期)・憲政期(憲法が制定され国民が政治に参加できる時期)の順序を踏まえるとした。これは孫文が早くから提唱していた「軍法→約法→憲法」の三段階革命論(上述)を踏まえたものであり、この順序は必ず守らなければならないと指示した。孫文は1924年は「軍政」の段階と考え、まず軍事行動を優先して権力を握るため、北伐を構想した。

神戸で講演する孫文 1924
大アジア主義演説 なおも抗争を続けていた北京軍閥政府は、直隷派と奉天派が争い(奉直戦争など)、混乱を極めていた。国民の中に孫文の北上を求める声が強まり、ついに北京政府も孫文の北上を要請、孫文は自ら軍を伴わずに北京に向かい、「国民会議」を開催しようとした。広州から北京に行く途中に日本を訪問、神戸で日本の民衆に向けて中国の目指す理想としてアジアの共闘を呼びかけた。その演説は孫文の「大アジア主義」演説として日本人に大きな感銘を与えた。演説は1924年11月28日、神戸高等女学校講堂で行われ、そこで孫文は、日本の日露戦争での勝利をアジアに大きな自信を与えるものと称賛し、そのうえでアジアが採るべき道は、西欧諸国のような軍事力による「覇道」ではなく、文化と理念の高さで統治する「王道」であるべきであると説き、日本は「覇道」を求めるべきではなく、「王道」を実行すべきである、と締めくくった。<『孫文革命文集』深町英夫編 2011 岩波文庫 p.428-447 全文を読むことができる>

革命いまだならず

 孫文は、北京政府の段祺瑞以下の要人と数万という民衆に迎えられて北京入りを果たしたが、すでに病気が進行、体力は著しく衰弱しており、1925年3月12日、肝臓ガンのため「革命いまだ成らず」という有名な遺書を残して死去した(59歳)。
 孫文が北京に入ったことで、軍事衝突なしに中国統一を実現することができるのではないか、という期待が高まったが、その死によって希望は実現できなかった。しかし孫文は辛亥革命の指導者、中華民国の建国に最大の功績のあった人物として、中国本土でも台湾でも現在に至っても最大限の尊崇を集めている。その墓地が南京の中山陵である。

資料 孫文の遺書 1925/3/11

孫文遺書

孫文の遺書

(引用)
 私は国民革命のために尽力すること四〇年、その目的は中国の自由と平等を求めるところにあった。四〇年の経験を積んだ今、この目的を達するためには、民衆を起ちあがらせ、われわれを平等に扱う世界の諸民族と連合し、力をあわせて奮闘しなければならない、ということを深く理解している。
 現在、革命はいまだに成功していない。すべてのわが同志諸君が、私の書いた『建国方略』、『建国大綱』、『三民主義』および『第一回全国代表者大会宣言』に基づき、努力を続け、その貫徹に務めなければならない。とくに、国民会議を開き不平等条約を撤廃せよ、という最も新しい主張については、最短期間のうちにそれが実現するよう促さなければならない。以上、ここに遺言する。
     孫文 三月十一日 補足署名
 中華民国十四年二月二十四日
       筆記者 汪精衛
       証明者 宋子文(以下略)
<『世界史史料10』歴史学研究会編 2006 岩波新書 p.112>
孫文の遺書の要点 国民革命を進めて自由と平等、中国の真の独立と統一を実現せよ、と要約できる。そのためには「われわれを平等に扱う世界の諸民族」との連合が必要と言っているのは、具体的にはソ連との連合(連ソ)を継続せよということであり、『第一回全国代表者大会宣言』に基づき、と言っているのは国共合作(容共)を維持せよ、ということである。そして短期的目標として議会開設と不平等条約南京条約など)の改正を挙げ、国家としての形態を整えよ、としている。つまり、中国国民党の後継者たちに、「国共合作」の基本姿勢を守れ、と遺言したのだった。

孫文の死後の動き

 国民党に加入した共産党員は「扶助工農」の方針に従い、労働運動を積極的に指導した。それが、孫文死去の年の5月に始まった五・三○運動であった。これは上海の日本人経営の紡績工場でのストライキで中国人労働者が殺された事件に端を発し、抗議活動に立ち上がった労働者・学生がイギリス租界警察隊に多数殺害されたことから、広州・香港の大規模なストライキに波及したもので、第1次国共合作後の最大の反帝国主義・ナショナリズムの盛り上がりとなった。7月には広東軍政府に代わって広州に国民政府(広州国民政府)が発足した。これは孫文の国共合作が生かされ、国民党と共産党が協力し、コミンテルンから派遣された政治・軍事の顧問も参加していた。
国共合作の破綻 さらに孫文の遺志を継いだ中国統一を実現すべく翌1926年には蔣介石を総司令官とする北伐が開始された。北伐には共産党も協力したが、それが進んでいく過程で、次第に国民党と共産党の対立が鮮明になっていった。特に共産党の指導で労働運動が激しくなることに資本家層は強い不安を抱き、またナショナリズムの高揚が租界の回収などの要求の高まりになることをイギリス、アメリカ、日本などの外国資本は恐れるようになった。彼らは、国民党右派とその中心にある蔣介石に期待を寄せ、共産党の排除をさまざまなルートで働きかけた。
上海クーデタ それが現実のもとなったのが、1927年4月12日に蔣介石によって実行された上海クーデタであった。これによって共産党勢力は排除され、大打撃を受けた。さらに蔣介石は共産党を除いて南京国民政府を樹立、国共合作を維持していた武漢政府もまもなく国共が分裂して共産党を排除したため、第一次国共合作は3年6ヶ月で崩壊した。つまり、孫文の遺言はこの点で守られなかった。
国民政府による中国統一 国共合作崩壊後は、蔣介石の国民党が建てた南京国民政府によって中国の統一が進められることとなる。北伐を再開した蔣介石は1928年6月に北京に入った。それに乗じて満州の主導権を握ろうとした日本の関東軍は満州軍閥張作霖爆殺事件を引き起こしたが、その子張学良易幟(国民政府に従うことを表明)によって中華民国の国民政府による中国統一は完成した。

孫文の遺言は守られたか

 1925年3月、孫文が死に臨んで残した遺言の根幹の部分、「国共合作を維持せよ」が守られなかったのは上述の通りだが、遺書のその他の部分はどうだろうか。最後の部分で「国民会議を開き不平等条約を撤廃せよ」と言っている、国民会議の開催と不平等条約撤廃について見てみよう。
中国国民党の一党独裁 中華民国は南京国民政府によって統一されたが、中国国民党=蔣介石政権は憲法の制定、議会の開設を行わなかった。それは現段階を孫文が『建国大綱』で規定した「軍政」の次の「訓政」段階とし、「憲政」には至っていないと判断したからであった。「訓政」は優れた指導力のある人物・党に権力を集中させ、憲法や議会制度を受容する能力のない国民を導く段階である、というものである。孫文の三段階革命論では「約法」の段階とも言われ、臨時的な憲法や部分的な法律をまず制定する段階であり、その後に「憲法」を制定して参政権を国民に与えて「憲政」段階となる、という思想に基づいていた。つまり国民の選挙による議会の開設はまだ早いというもので、中国国民党=蔣介石の独裁政治を正当化する理屈だった。孫文の三段階論に見られる中国人とその社会は遅れており、民主的な政治をすぐに実現することは出来ないといういわば「愚民論」はしばしば孫文の限界として批判されているが、蔣介石は孫文の遺訓を守るという口実で実際には独裁を実現しようとしたのだった。このような蔣介石の姿勢には、国民党の内部にも、知識人(例えばアメリカでの生活が長かった胡適など)の中からも強い反対が起こった。孫文の遺書を読めば、たしかに『建国大綱』を守れと言っているが、最後の部分で「国民会議を開き不平等条約を改正せよ」と言っている。もし孫文が生きていたら「訓政」にこだわって議会開設を否定しなかったのではないだろうか。しかし、権力をにぎった蔣介石は中国国民党の一党独裁を崩さなかった。1928年10月、中国国民党は「訓政綱領」を発表、「国民会議」の発足を定めたが、その議員は党の指名で選出された。憲法のかわりとなる「訓政時期約法」では国民政府首席に大きな権限が与えられ、1928年10月、蔣介石がその主席に就任した。
不平等条約の改正 孫文の遺書にあった「不平等条約の改正」は国民政府による中国統一の達成によって大きく前進した。国民政府は統一を達成すると直ちに諸外国に国民政府の承認と、条約改正交渉に応じるよう要請した。軍閥政府を倒し、共産党を排除したことを評価したアメリカが1928年7月25日にまず関税自主権の回復に応じ、西欧諸国も年末までにそれに続いた。日本は済南事件の戦後処理が難航したため、国民政府の承認は1929年6月となり、関税自主権の回復承認は1930年5月に持ち越された。治外法権の撤廃や租界の回収は課題として残されたが、関税自主権が回復されたのは、国民革命が中国統一まで進んだことの成果と言える。 → 不平等条約の撤廃
印 刷
印刷画面へ
書籍案内

藤村久雄
『革命家 孫文
―革命いまだ成らず』
1994 中公新書

宮崎滔天
『三十三年の夢』
1993 岩波文庫

保阪正康
『孫文の辛亥革命を助けた日本人』
1992初刊 2009ちくま文庫

深町英夫
『孫文―近代化の岐路』
2016 岩波新書

深町英夫編
『孫文革命文集』
2011 岩波文庫

S.シーグレーブ田端光永訳
『宋家王朝(上)』
2010 岩波現代文庫

S.シーグレーブ田端光永訳
『宋家王朝(下)』
2010 岩波現代文庫