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民報

孫文が中心になって結成した中国同盟会の機関誌。1905年から10年の辛亥革命前まで刊行され主に三民主義、四大綱領などの主張を展開した。

 1905年に孫文らが清朝の打倒と共和政の実現を目指す革命派を結集して結成した中国同盟会の機関誌。同年10月から1910年まで26号が刊行された。孫文が掲げた三民主義と同盟会の四大綱領の「駆除韃虜・恢復中華・創立民国・平均地権」にそって論陣を張った。創刊号の巻頭言は孫文が執筆し、主な執筆者は、章炳麟(第6号から主筆)、汪兆銘、胡漢民、陳天華などであった。
 その主な論争相手は、康有為梁啓超らの立憲君主主義者(共和政に反対し、清朝のもとでの立憲君主政が現実的であると主張したので保皇党、改良派といわれた)であった。発行部数は当初約3000部であったが、半年余りで1万部を超え、その後は4~5万部に達したと言われる。在日留学生ばかりでなく、ひそかに清国に持ち込まれ、青年たちの間で広く読まれた。<藤村久雄『革命家孫文』中公新書 1994 p.53>

孫文と『民報』の決裂

 孫文の中国同盟会の活動と『民報』の発行は、横浜を拠点に行われていたが、日本政府は清朝当局の要請を受けて孫文らに国外退去を命じ、1907年1月、孫文は胡漢民、汪精衛らを伴い、シンガポールに向かった。このとき日本人の協力者から1万5千円の餞別が贈られたが、孫文はそのうちの2千円を『民報』維持費として残し、残りすべてを運動資金として持ち去った。このことに中国同盟会の中の反広東派(主に長江流域出身者)が反発、民報編集長の章炳麟も怒り、民報社に掲げてあった孫文の写真を引きずり下ろした、という。その後、『民報』からは三民主義など孫文の主張に沿った記事はなくなり、主として章炳麟の排満主義や虚無主義的な記事が多くなり、発行部数も減少していった。そして1908年には清朝当局の要請を受けた日本政府が発行禁止を命じたため、中国革命運動の大同団結の象徴だった『民報』は停刊を余儀なくされる。<深町英夫『孫文』2016 岩波新書 p.69-70>
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