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康有為

清末の政治家、学者。公羊学派の儒者として知られ科挙に合格、官吏となる。日清戦争の敗北、列強による中国分割という危機に直面し、1898年光緒帝に日本の明治維新を模範とした改革を提言、採用されて戊戌の変法を指導した。しかし戊戌の政変で西太后ら保守派によって排除され、日本に亡命。その後は立憲主義の立場で、共和主義による辛亥革命には反対した。

康有為
康有為 1858-1927
 こうゆうい。カンユーウェイ、現在の広東市に代々の儒家に生まれたが西洋の学問も修め、両者を折衷して孔子思想の新解釈を試み、孔子の中にすでに改革の思想が含まれるという公羊学といわれる新学説を提唱し、注目を集めた。1894年、日清戦争の敗北に衝撃を受け、1895年に科挙に合格して進士となってからたびたび改革の意見を朝廷に具申した。さらに1898年、ヨーロッパ列強による中国分割の事態が進む中、政治と社会の革新の必要を光緒帝に建言し、その意見が採用されることになった。
 その提言の柱は日本の明治維新を手本とした立憲君主政を導入し、中国の政治と社会を改革すべきであるとものであった。その提言は、清朝宮廷で採用されることとなり、1898年4月、戊戌の変法が開始され、康有為も官吏として登用されの中心人物となった。しかし、宮廷内の保守派は西太后を中心に改革に強く抵抗、ついに1898年9月、実力者袁世凱ら保守派のクーデター(戊戌の政変)によって宮廷を追われ、康有為とその協力者梁啓超らとともに失脚、日本に亡命した。

光緒帝への上書

 日清戦争で敗れた清朝では、1895年、李鴻章が日本との講和条約である下関条約を結ぶと、遼東半島台湾澎湖諸島とを日本に割譲する屈辱的な内容に中国人民は大変な衝撃を受けた。そのころ北京に会試(科挙の中央での試験)を受けるために上京していた康有為は、集まっていた各省の挙人(科挙の地方試験に合格し中央試験を受験する資格を持つ人)によびかけ、千三百人と連名で講和に反対し、徹底的に抗戦するため、奥地に都をうつし、科挙制度を始め清朝の旧い行政組織を改革すべきだという書簡をたてまつった。

戊戌の変法

 康有為の上書は君主独裁の清朝の科挙制度史上空前のできごとであった。康有為は進士に合格し工部参事に任命され、宮廷の官僚として皇帝の政治に関わるようになった。1898年旧暦正月8日、康有為は国政全般にわたる改革案をまとめ、光緒帝に提出、光緒帝はふかく信任した大臣の手を通じて康有為の上書を読んで、その主旨に全く同感し、彼の意見に従って改革を行おうとした。それが戊戌の変法といわれる改革運動であった。<貝塚茂樹『中国史下』岩波新書 p.127-138>

資料 康有為の上表文

 1898年旧暦正月8日、康有為が光緒帝に提出した上表文(『統籌全局疏』)から、世界史の資料として重要な部分を書き抜いてみよう。<以下、宮崎市定『中国政治論集』康有為 中公文庫 p.125- による>
中国分割の危機せまる
(引用)工部主事、臣康有為跪(ひざまず)いて奏し、国勢危迫し分割しきりに至るにより、時に及びて法を変じ、国是を定めて大計を籌(はか)らんことを請い、恭摺もて仰いで聖鑑を祈る事の為にす。窃かにおもんみるに、頃ごろ徳人<ドイツ人>は膠州に割拠し、俄人<ロシア人>は旅大<現在の旅順>を窃かに伺う。諸国還(めぐ)りて伺い岌岌(きゅうきゅう)として亡びるを待たんとす。甲午のたたかいの和議成りしより後、臣累(しき)りに上書して時の危きを極陳し、法を変ぜんことを力請しても格せられて未だ達するを得ざりき、旋即(やが)て告帰し室を吐(とざ)して膺(むね)を撫(う)ち、門を閉じて血を泣す。未だ三年に及ばずして、遂にこの変あり。臣、万里海に浮かび、再び闕廷に詣(いた)る。<宮崎『同上書』p.126>
<大意>私康有為は中国の国土の分割の危機が迫っているのを知り、変法(改革)を提言して参りました。このごろドイツ(ヴィルヘルム2世)は膠州湾の、ロシア旅順の割譲を求め、国土を分割しようとし我が国は亡びようとしています。日清戦争の和議(下関条約)が結ばれてからも私はしきりに上書し、中国が危機にあることを訴えてきましたが入れられず、やむなく門を閉じて血の涙を流しておりました。あれから三年にも及ばないのに、遂にこの危機が現実となりました。私は再び訴えます。
滅亡した諸国の例
(引用)臣聞く、方今大地のうえの守旧の国は、未だ分割され危亡(滅亡)せざる者あらざるなり、と。次第に其の土地人民を脅割してこれを亡ぼす者あり、波蘭<ポーランド>これなり。尽(ことごと)く其の利権を取り、一挙にしてこれを亡ぼす者あり、緬甸<ビルマ>是れなり。尽く其の土地人民を亡(うしな)いて、其の虚号を存する者あり、安南<ベトナム>是れなり。其の利権を収めて後これを亡ぼす者あり、印度<インド>是れなり。其の利権を握り徐(おもむろ)に分割して亡ぼす者あり、土耳古<トルコ>・埃及<エジプト>是れなり。我れ今、士無く兵無く餉(しょう、食糧のこと)無く械無く、名は国たりと雖(いえど)も、土地・鉄路・輪船(蒸気船)・商務・銀行は、惟(た)だ敵の命のみ、取求するを聴容(ゆる)す。亡ぶるの形無しと雖も、亡ぶるの実あり。此より後の変は臣言うに忍びず。<宮崎『同上書』p.129>
<大意>私が聞いているところによると、現在、地球上で保守的な国は領土を割かれ滅亡しないところはない、という状況になっている。次々と土地人民を分割されてしまったポーランド、利権を奪われ一挙に滅んだビルマ、土地人民を奪われ国王の名だけが残っているベトナム、まず利権を奪われてから亡ぼされたインド、利権を奪われてから徐々に分割されたトルコ(オスマン帝国)とエジプト、である。今中国は軍事力、食糧がなく、名は独立国だが土地も、鉄道も汽船も商業も銀行もすべて外国に抑えられている。亡国とは言えないが実際にはそれと同じ現状である。
鑑を日本の維新とせよ
(引用)……かの美<アメリカ>・法<フランス>の民政<主権在民>、英<イギリス>・徳<ドイツ>の共和<君民の共治>は地遠くして俗殊なり、変じてより久しくして跡絶えたり。臣故に皇上に請うらくは、俄<ロシア>の大彼得<ピョートル大帝>の心を以て心の法(のり)となし、日本明治の政を以て政の法とと為し給わんこと。然れども其の時も地も遠からず、教も俗も略々(ほぼ)同じく、成効已に彰(あら)われ推移即(ま)た是(よろ)しく、(中略)鑑を日本の維新に取るに如くはなきなり。<宮崎『同上書』p.137-138>
<大意>主権在民のアメリカ・フランス、立憲君主国のイギリス・ドイツは遠く習慣も異なり、今の体制になってからかなり時が過ぎている。皇帝にはロシアのピョートル大帝を精神的な手本とし、日本の明治維新を政治の手本とされることを望む。日本は近くもあり、変革から時間も経っておらず、宗教や習慣にも近いものがある。手本とするならば日本の明治維新しかありません。
日本になぜ、何を学ぶのか
(引用)日本の始めや、その守旧と攘夷とは我と同じきも、其の幕府と封建とは我と異なる。其の国君は府を守りて、変法は更に難し。然れども成功甚だ速かなりし者は、則ち変法の始めに、趨向の方針定まりて、措施の条理を得たるを以てなり。其の維新の始めを考うるに、百度甚だ多きも、惟だ要義は三あり。一に曰く、大いに群臣に誓いて以て国是を定む。二に曰く、対策所を立てて以て賢才を徴(め)す。三に曰く、制度局を開きて憲法を定めしことこれなり。其の誓文には万機を公論に決し、万国の良法を採り、国民の同心を協(あわ)せ、種族を分つなく、上下の議論を一にして、藩庶を論ずるなきに在り。(中略)制度局を宮中に開き、公卿・諸侯・大夫及び草茅の才子二十人を選んで総裁・議定・参預の任に充て、新政を商榷(しょうかく)し、憲法を草定せしむ。是において謀議詳(つまびら)かにして章程密となれり。日本の強き、効(しるし)は此(ここ)に原(はじ)まる。<宮崎『同上書』p.139-140>
<大意>日本も始めは中国と同じで保守と攘夷が争った。幕府の体制は中国と異なり、天皇が京都にいて改革は難しかった。それがなぜ急速な改革に成功したのかというと、要点は三つある。第一には群臣を集めて国策を定めたこと、第二に対策所を設けて賢才を集めたこと、第三に制度取調局を開き憲法を定めたこと、である。五箇条の御誓文に、万機公論に決すべし、知識を世界に求め、身分の別なく議論せよ、などとあった。それによって国民を一つにまとめる事(国民国家の形成)に成功した。制度局では人材を登用して憲法草案を作らせた。このような活発な言論と計画的に改革を進めたことが日本の強さのもとである。
 康有為の提言はこの次に、清朝の国家機構改革について、中央政府から地方政治まで詳細に論じている。そこでも日本の機構が模範として示されている。当時日本は、1889(明治22)年に大日本帝国憲法を制定し、天皇主権のもと、一応の三権分立を実現、制限選挙ではあるが議会制度を発足させていた。康有為は1868年の明治維新からわずか20年で近代国家となり、日清戦争で清を破ることになった日本の強さを、立憲君主政による国民国家に脱皮したところに見ていたのである。

公羊学者としての康有為

 康有為は公羊学者として知られ、改革の理念を公羊学においた。清朝の儒学の主流は考証学であったが、清末には些末な形式論に陥り、実用に適さなくなっていた。康有為は、孔子の著作とされる「春秋」の解釈は「公羊伝」によるべきであると主張、「公羊伝」によれば孔子は制度の改革を目指して「春秋」を著したものとなる。この学問を公羊学といい、単なる字句の解釈に止まらず、現実の社会を直視して政治の改革と民衆の経済生活の安定を目指す経世済民の学であった。康有為は、かつての洋務運動が、西洋の思想と技術を分け、その技術だけを取り入れようとしたことが失敗であったとし、機械文明を取り入れるだけでなく、西洋の立憲政治を取り入れ民衆の権利をみとめることによって、国民の義務も負わせるようにすれば、国は繁栄すると考えた。その手本とされたのが日本の明治維新であった。

日本での康有為

 日本では同じく亡命してきた弟子の梁啓超らとともに改良派または保皇党と言われ、清朝の改革を唱えて日本の有力政治家に支援を求めた。彼らの主張は、あくまで清朝の改革であり、そのもとで立憲君主政を実現することであったので、続いて亡命してきた孫文らの清朝打倒、共和政樹立の革命運動とは対立した。
 康有為(及び其の協力者である梁啓超)は、儒教の枠内での改革思想である公羊学派をベースにして、清朝の支配する中国を日本の明治維新をモデルとした立憲君主政国家にすることを目指したのであった。かれらを主役とした戊戌の変法が、西太后・袁世凱らによって葬られてからは、変革の主力は清朝打倒、共和政の実現、そして儒教思想否定を掲げた孫文らの運動に移っていった。辛亥革命をもたらしたこの勢力からは康有為らはもはや保守思想として否定されなければならなくなった。
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書籍案内

宮崎市定
『中国政治論集―王安石から毛沢東まで』
1989 中公文庫

康有為の他に王安石、司馬光、李秀成、曾国藩、梁啓超、呉虞、陳独秀、毛沢東の文を、訳文と解説付きで読むことができる。