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袁世凱

李鴻章の後継者として淮軍を率い、清朝に仕えた軍人。辛亥革命では皇帝を退位させ、孫文に代わって臨時大総統となり、独裁権を握る。最後は皇帝の地位を狙ったが失敗した。

 李鴻章の部下として頭角を現した漢人の軍人で、淮軍の指揮権を継承した。日清戦争後は洋式軍隊である新建陸軍(新軍)の育成にあたり、戊戌の変法では康有為等に協力したが、戊戌の政変にあたっては、それを裏切り、清朝政府に認められて山東巡撫の地位についた。義和団事変では清朝政府の要請にも拘わらず外国軍との戦闘に加わらずに勢力を温存し、事変後に直隷総督・北洋大臣となった。日露戦争後は西太后の意を受けて光緒新政を取り仕切り、科挙の廃止などを断行した。

辛亥革命と袁世凱

 辛亥革命が勃発し、13省があいついで独立を宣言するという事態のなかで、清朝政府は北洋軍閥の軍事力を有する袁世凱を総理大臣に起用した。しかし袁世凱は権力を奪取する機会ととらえ、清朝と革命派の取引を開始、長江流域に利権を持つイギリスも清朝を見限り袁世凱を支援した。1912年1月1日孫文が南京で中華民国建国を宣言し臨時大総統となったが、支持基盤は弱く、外国の支援もなかったので、孫文は袁世凱の要求を入れ、清朝皇帝の退位を条件として地位を袁世凱に譲ることを認めた。1912年2月12日、清朝最後の宣統帝が退位すると1912年3月10日、孫文は臨時大総統を辞任し、後任に袁世凱が就任した。彼の率いる新軍は北洋軍閥といい、事実上私兵としてその独裁を支えた。

袁世凱の独裁

 袁世凱の野心を警戒していた孫文は、北京から南京に来て首都とすることと臨時約法(1912年3月11日公布)を遵守することを約束させていたが、袁世凱はそれらを守らず、北京に居座って実質的な首都としてしまった。また、宋教仁らが中心になって結成し、議会政治・共和政治・民主主義を掲げる国民党(理事長は孫文)が、12月の選挙で大勝して第一党となると、危機感を感じて翌1913年3月20日、宋教仁を暗殺した。4月8日に中国で初めて開会した議会でも国民党と対立し、盛んに買収や恫喝を行って弾圧した。これに対して、袁世凱の独裁に反対する第二革命といわれる将軍たちの蜂起があったが、1913年9月1日、いずれも鎮圧され、孫文らは日本に亡命した。袁世凱は10月には正式に大総統に就任した。さらに翌年には臨時約法を廃止し、新たな憲法として中華民国約法を制定、独裁権力を強化した。

Episode 袁世凱の野望

(引用)袁世凱には昼寝が終わるとお茶を飲む習慣があった。ある日ボーイの少年は、お茶を袁世凱がお気に入りのヒスイのコップに入れて部屋まで運んだが、うっかりコップを落として割ってしまった。幸い主人は眠ったままだった。少年は年上の召し使いのところへ行き、自分が叱られないで済むにはどうしたら良いかを相談した。
 袁世凱が目を覚ますと、陶器のコップが置かれているのに気づいた。彼は少年を呼び、ヒスイのコップはどうしたのかと尋ねた。「割っただと?」袁世凱はムッとして問いつめた。「はい閣下。私は大変奇妙なものを見たのです」と少年は召し使いに教えられた通りに答えた。「何だそれは?」といぶかる袁世凱。「先ほど私がお茶をもってまいりますと、ベッドの上にいたのは閣下ではなく、五つの爪をもつ金色の龍だったのであります」。
「くだらん!」と袁世凱はさけんだ。だが彼の怒りはすでに止んでいた。袁世凱は引き出しを開け、100ドル紙幣をとりだして少年の手に握らせた。そして「さっき見たことは、誰にもしゃべるなよ」と言い聞かせた。<菊池秀明『ラストエンペラーと近代中国』2005 講談社 中国の歴史10 p.188>

第一次世界大戦と袁世凱

 1914年7月、第一次世界大戦が勃発すると袁世凱政権は当初は中立を宣言した。日本はドイツ基地のある青島を占領、さらに翌1915年1月に袁世凱政府に対し二十一カ条の要求を提出し、山東半島のドイツ権益の継承を要求した。5月、最後通牒を突きつけられた袁世凱政府はそれを受諾、激しい非難を受けた。
 北洋軍閥の部下の中にも、段祺瑞や馮国璋らは袁世凱の命令に服さず、勝手な動きを見せ始め栄ていた。袁世凱は内外から揺さぶられる自分の権力を、完全なものにするには皇帝になるしかないと考えは始めた。袁世凱の帝政運動は、アメリカ人行政学者グッドナウのように、遅れた中国では共和政は混乱をもたらすだけだから強力な皇帝による立憲君主政体が相応しいという意見も影響を与えた。

袁世凱の帝政

 1915年8月ごろから袁世凱の帝政運動が活発になると、日本の大隈内閣の外相石井菊次郎(前任の加藤高明は二十一カ条要求要求での稚拙な外交を非難され辞任していた)は、帝政に反対しイギリス、ロシア、フランスとともに帝政実施の延期を申し入れた。袁世凱は第一次世界大戦に連合国側で参戦し、その支持を取りつけようとしたが、日本は中国の参戦に反対した(中国が連合国に加わり戦後の講和会議に出席すると、二十一カ条要求で獲得した利権が脅かされることを警戒した)。
 9月に袁世凱の意を受けた帝政推進派がキャンペーンを開始、大総統の諮問機関であった参議院は国民会議の招集を決め、金で集められた請願者が北京に集まり、国民会議は満票で袁世凱を皇帝に推戴した。これを受けて12月12日に袁世凱は「天命」を受けたとして新王朝「中華帝国」の樹立を宣言し、自ら皇帝になるとともに年号を洪憲にすると発表した。

第三革命

 1915年12月、袁世凱が皇帝に即位すると、諸外国からだけでなく、国内からも激しい反対運動が起こった。まず、もとは袁世凱の部下だった蔡鍔(さいがく)が雲南で挙兵して四川に入ると、唐継尭や李烈鈞などの軍指揮官が次々と同調し、帝政の取消を要求した。これが第三革命と言われる袁世凱帝政反対運動であった。こうして日英露仏の列強も帝政に反対したためあきらめざるをえなかった袁世凱は1916年3月に帝政の取消を宣言、その帝政はわずか83日で潰えた。失意の内に袁世凱は6月6日に死亡(57歳)した。
 中華民国北京政府は、袁世凱の死去に伴い、副総統の黎元洪が大総統に就任したが、実験は北洋軍閥が二派に分かれて、安徽派段祺瑞と直隷派(馮国璋)が争う、軍閥の抗争の時代へと移る。
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書籍案内

岡本隆司
『袁世凱―現代中国の出発』
2015 岩波新書

菊池秀明
中国の歴史10『ラストエンペラーと近代中国』
初刊2005  講談社
2021 講談社学術文庫

田中比呂志
『袁世凱―統合と改革への見果てぬ夢を追い求めて』
世界史リブレット 人
2015 山川出版社