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第二革命

辛亥革命(第一革命)に続いて起こった、独裁を進める袁世凱に対する孫文など革命勢力が起こした武装蜂起。1913年、初めて開催されら議会で袁世凱の独裁に反対する動きが強まって7月に蜂起したが、9月に鎮圧され、孫文らは敗れて日本に亡命した。

 辛亥革命によって1912年1月1日中華民国建国が宣言され、孫文が南京で臨時大総統となった(第一革命)。しかし、清朝の実力者であった袁世凱は、革命による権力を奪うため、清朝の最後の皇帝宣統帝を退位させ、1912年3月10日、孫文に迫って臨時大総統の地位を譲り受けた。中華民国はこうして孫文など民主的な政体を目指す南京を拠点とした勢力と、袁世凱の北洋軍閥に支えられた軍事政権である北京政府との対立という形勢となった。

宋教仁の活動

 議会政治・共和政治・民主主義を求める勢力は、宋教仁らが中心になって臨時約法(1912年3月11日公布)を制定し、それによって議会開設が決まったので国民党(孫文は理事長を務めた)を結成、12月に行われた選挙で大勝して第一党となることが決まった。
 袁世凱はこのような民主勢力の台頭に危機感を持ち、1913年3月20日宋教仁を上海で殺害し、国民党の力をそごうとした。

議会での対立

 孫文はこのとき日本訪問中であったが、急きょ帰国し対応にあたった。武力蜂起の声もあったが、国民党は議会で第1党の数を持つことになっていたので、言論で袁世凱政府を追及することにした。4月8日に中国で初めて開会された国民の代表による議会では、袁世凱政府がイギリス、フランス、ドイツ、ロシア、日本の5カ国銀行団から総額2500万ポンドの貸付(善後大借款といわれた)を受け、その担保として塩税の収入を外国の管理にませることになっていた件を問題にした。国民党はそれが列強の侵略につながるとして激しく反対したが、袁世凱は議会を無視して借款を契約してしまった。さらに袁世凱は反対派の国民党議員を買収して脱退を働きかけ、賄賂を受けとらない議員に対しては脅迫するという議会工作を行った。

蜂起と失敗

 それに対して孫文は武装蜂起に傾き、南京の黄興や江西の李烈均ら国民党系の革命勢力に史令を出して挙兵させ、彼らは7月12日に袁世凱政権打倒をめざして蜂起した。これが第二革命であった。しかし当時は北洋軍閥を背景とした袁世凱の軍事的優勢は覆らず、革命側は装備などでも劣っていたため、1913年9月1日、蜂起は二ヶ月で鎮圧されて失敗に終わった。孫文、黄興らは日本に逃れた。

袁世凱独裁体制

 第二革命を鎮圧した袁世凱は、反対派を排除した議会で、1913年10月、選出され正式な大総統になった。目的を達した袁世凱は11月に国民党に解散を命じ、残っていた国民党系の議員の資格を剥奪したため、議会は機能停止に追いこまれた。最後は1914年1月に議会を解散、中国史上最初の民主的な議会は、1年ももたずにその幕を閉じてしまった。
 さらに憲法改正のための会議を設け、同年5月には臨時約法を廃止して代わって「中華民国約法」(新約法)を制定、大総統の権限を大幅に拡大し、議会は大総統の諮問機関でしかない参政院に置き換えられた。第二革命に敗れて東京に亡命した孫文は、国民党のような議会政党ではなく、秘密結社による革命運動を進めることに方向転換し、1914年7月、東京で中華革命党を結成する。 → 第三革命
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菊池秀明
中国の歴史10『ラストエンペラーと近代中国』
初刊2005  講談社
2021 講談社学術文庫