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中華民国

辛亥革命によって1912年に始まった中国の共和政国家。アジア最初の共和政国家であったが、軍閥の台頭、国民党と共産党の対立、日本の侵略など、不安定な状態が続いた。

 1911年10月の辛亥革命によって、翌1912年正月元旦、孫文臨時大総統に就任し、中華民国が成立した。首都は南京に置かれた。共和政国家は中国最初であり、アジアでももちろん最初であった。年号は「中華民国元年」と改められた。「民国○○年」という年号は1912年を元年として、現在でも中華民国(台湾)で使用されている。また、国旗は当初は五色旗(紅・黄・藍・白・黒の五色が漢・満・蒙・回・蔵の語族を象徴した)であったが、1928年に南京国民政府が正式に青天白日満地紅旗と定めた。
 なお「中華民国」を代表する政府は以後、日中戦争の終結までいくつも存在し、複雑な経過をたどる。 → 国民政府 参照。
「中華民国」の歴史の概略をまとめると次のようになる。


1.北京軍閥政権期 1912~19年

中華民国五色旗
中華民国最初の五色旗
中華民国の建国 1912年1月1日、孫文が南京で中華民国の建国宣言を行い、みずから臨時大総統に就任。1912年2月12日宣統帝が退位し清朝が滅亡した。
袁世凱政権 しかし、孫文は1912年3月10日袁世凱に臨時大総統の権限をひきわたす。袁世凱はそのまま北京にいすわり、北洋軍閥を背景に独裁権力を握った。翌1912年3月11日に暫定的な憲法として中華民国臨時約法が制定された。
第二革命 孫文・宋教仁らは袁世凱独裁先見に対抗し、1912年8月国民党(後の中国国民党とは別)を結成、来たるべき議会占拠に備えた。1913年3月、初の国会議員選挙が実施され国民党が圧勝した。しかし実権を失うことを恐れた袁世凱は宋教仁を暗殺、国民党を弾圧した。それに対して孫文らは第二革命を起こすが弾圧され、袁世凱が正式に大総統に就任した。
中華革命党結成 孫文は東京に亡命し、1914年7月、秘密結社として中華革命党を結成して運動を継続した。同年、第一次世界大戦が始まると1915年、日本が二十一カ条要求を出すと、袁世凱政府がそれに屈したため、反発が強まった。
第三革命 同年、袁世凱は一挙に議会解散を強行し、共和制を廃止して自ら皇帝に就任した。それに反対する反袁世凱・反帝政の護国運動(第三革命)が全国で起こった。外国の反対もあって袁世凱は帝政を撤回し、翌16年に死去した。
文学革命 そのころ、1915年には陳独秀らが雑誌『新青年』の刊行を開始し、白話文学の創作、儒教道徳の批判などを内容とする文化の革新運動である文学革命が始まった。これは文化の面での近代化と同時に、民族意識の新たな展開に強い刺激となっていく。
軍閥の抗争と大戦参戦 しかし、政治情勢は安定せず、その後の北京政府は北洋軍閥を継承した軍閥(安徽派、直隷派、奉天派など)が対立、中華民国大総統はめまぐるしく交替、各地にも軍閥が自立し抗争が続いた。袁世凱の死後にまず実権を掌握したのは安徽派の段祺瑞で、1917年8月14日にドイツなどに宣戦し、第一次世界大戦に参戦した。段祺瑞政権は参戦費用という名目で日本(寺内正毅内閣)からの多額の借款(西原借款)を得て、それを軍閥や孫文の革命勢力との抗争の軍事力に充てた。
広東政府の成立と混迷 それに対して孫文らは中華革命党を中心に、1917年9月10日広東軍政府をつくって中国統一をめざす戦いを開始した。しかし内部に軍閥と通じた反孫文勢力もあったため内紛から瓦解し、孫文は上海に逃れた。
五・四運動 1919年パリ講和会議には北京政府と広東軍政府の双方から共同して代表を派遣した。しかし、日本の山東半島権益の継承が認められ、それに反発した学生と民衆が五・四運動を起こし、大きな民族運動となった。パリ講和会議の代表団はそれをうけてヴェルサイユ条約調印を拒否し、北京政府もそれを承認した。
中国国民党結成 一方、上海の孫文は五・四運動の民衆蜂起に刺激され、広く大衆的な政党を目指して同1919年10月中国国民党を結成し、新たな運動を開始した。またこの年、ソヴィエト=ロシア政権は中国に対しカラハン宣言によって旧ロシア時代の権益の放棄を表明、国交の樹立を申し入れてきた。

中国と国際連盟

 中国はヴェルサイユ条約は調印を拒否したが、第一次世界大戦への参戦国としてサン=ジェルマン条約(連合国とオーストリアの講和条約)には調印し、その第一条が国際連盟条項であったので、加盟国となった。パリ講和会議でも代表を務めた顧維均がそのまま代表として加わり、優れた外交手腕を発揮している。日本が常任理事国となったのに対し、山東問題の解決には理事国になる必要があると考えた顧維均は盛んに運動して、1920年11月の第一回総会で非常任理事国(ベルギー、ブラジル、スペインと共に)に選ばれた。その後も中国は何度か非常任理事国に選ばれ、重要な役割を担っていた。<川島真『近代国家への模索1894-1925』シリーズ中国近現代史② 2010 岩波新書 p.186-188>
国際協調 20年代には国際協調の気運が進む中で1921年11月、ワシントン会議が開催され、中国も代表団を派遣(このときは広東軍政府からは加わらなかった)、1922年に九カ国条約が締結されて日本の山東半島権益は中国に返還され山東問題が解決された。ただし、旅順・大連の租借延長は撤回されず日本の関東州支配は続いた。日本の侵出は抑えられたもののその反面、門戸開放・機会均等の原則が承認されたことで、アメリカの中国進出の要件が整い、後の中国をめぐる日米の対立の出発点となった。
 しかし、中国国内の分裂状態が続き、北京政府の実効支配の能力も低くなっていった。また財力不足から国際連盟経費負担が滞り、次第に発言力は弱くなっていった。

2.北京と広東の対抗期・第一次国共合作 1919~25年

孫文の方針転換 五・四運動など民族運動が活発となったことを受けて孫文は中国国民党を結成した。すでに1919年、ソヴィエト=ロシアは中国に向けてカラハン宣言を発表、ヴェルサイユ条約とまったく異なり、中国での旧ロシア権益の放棄などを表明したので、帝国主義との戦いを決意した孫文は、急速にソ連(1922年成立)に接近、1923年にはコミンテルンから派遣されたヨッフェとの間で共産党との共闘を約束した。中国共産党は1921年に結成されており、まだ小さな勢力であったが、孫文の中国国民党に党籍をもったまま加わるという国共合作(第1次)に合意した。
第1次国共合作 1924年1月、中国国民党一全大会を開催して国共合作(第1次)を実現した。このときの孫文の理念は、三民主義に「連ソ・容共・扶助工農」が加わったものとして定式化され、国共合作の指針となった。ソ連との協力とは具体的にはソ連から財政、人材、武器の支援を受けることであり、容共とは国民党改組によって共産党員が党籍を持ったまま国民党員となって一体化することであり、扶助工農は労働者・農民の反資本家・反地主の戦いを支援すことであった。この指針と具体的戦術によって北京の軍閥政府と帝国主義の支配を倒し、民族統一という国民革命を実現することをめざした。
孫文の死 そのころ、打ち続く北京政府の軍閥間の戦争に多くの国民が和平と民族統一を望むようになり、孫文に対する期待が高まった。北京政府もついに孫文との話し合いに応じることになり、孫文は北京に向かい、途中日本に立ち寄って「大アジア主義」演説と言われる有名な演説で日本人にも訴えた。ついに北京入りを果たしたが、その時すでに病気が進行しており、1925年3月12日に死去、「革命いまだならず」として国共合作の維持を遺言した。
国民政府の成立 その直後、1925年5月30日には上海でストライキ中の日本人経営の工場で中国労働者がイギリス警察に殺害されるという事件をきっかけに五・三〇運動が始まった。ストライキは広州や香港に広がり、香港では16ヶ月にわたるストでマヒするなど、反帝国主義とナショナリズムが一気に高揚した。それを受けとめた中国国民党は、広東軍政府に代わって1925年7月広州国民政府を樹立させ、国民革命軍を組織した。これにはソ連から政治顧問のボロディンや軍事顧問が加わり、コミンテルンの指導の都での中国革命という様相となった。
 このことは孫文の目指した中華民国の国民政府が成立し、北京の軍閥政権を倒し、明確に中国を統一して近代国家を建設することの端緒となった。国民政府は次に北伐を開始するが、その過程で広州国民政府は武漢国民政府となり、さらに上海クーデタによって国共が分裂、蔣介石の南京国民政府へと複雑な展開を遂げていく。

3.北伐と南京政府の成立:北伐期 1926~28年

蔣介石、北伐開始 広州国民政府、中国国民党の蔣介石は国民革命軍司令官として、1926年7月から「北伐」を開始した。国民革命軍(北伐軍)には共産党員も参加し、ソ連からの軍事顧問もついており、勝利を重ねて長江中流域の武漢に達し、1927年1月1日に政府を北上させ、武漢国民政府となった。しかし、北伐の進行とともに共産党の勢力も強くなり、各地でストライキや地主の追放、租界の回復などの実力行使を展開するようになった。その動きに危機感を持った上海などの民族資本家がその排除を要求するようになった。
上海クーデタ 蔣介石が上海に入ると、呼応した労働者がゼネストを起こし軍閥勢力を追い出して実権を奪ったが、蔣介石は1927年4月12日、突如上海クーデタ(四・一二事件)で共産党の排除に踏みきり、多数の共産党員、労働者を逮捕・殺害した。その上で蔣介石は新たに「南京国民政府」を樹立、自ら主席となった。武漢政府はなおも国共合作を維持していたが、ここでも左右両派の対立は決定的となり、1927年7月15日には武漢政府からも共産党員は排除され、ここに第一次国共合作は解体した。
北伐の完了 上海クーデタで一旦中断した北伐を再開し、日本軍の山東出兵によって1928年5月3日には済南事件が起こったが、蔣介石は全面対決を避けて迂回し、1928年6月9日には北京に入城して軍閥政権を倒すことに成功した。それより前、北京から逃れた奉天軍閥の張作霖1928年6月4日に日本の関東軍張作霖爆殺事件の謀略で殺害されたが、同年12月にはその子の張学良が中華民国支持を打ち出して易幟を行い、東三省も中華民国に帰順して、国民政府による中国統一が完成した。
中華民国国旗
中華民国国旗
青天白日満地紅旗
国民政府の国際的承認 統一なった中華民国の首都は南京と定まった。そのため北京北平に改められた。国旗もそれまでの五色旗を、孫文がデザインを取り入れた青天白日旗を取り入れた青天白日満地紅旗に改めた。蔣介石によって軍閥と共産党を排除し、北伐を完成させたことによって、アメリカは蔣介石の南京国民政府を中国の政府と承認し、1928年7月関税自主権の回復を認める条約改正に応じた。同年12月までにドイツ、イギリス、フランスなどがそれに続いた。日本は北伐から居留民を保護する口実で山東出兵を行い、済南事件で国民政府軍と衝突するという敵対関係にあったため、国民政府の承認は1929年6月となり、関税自主権の回復承認は1930年5月に持ち越された。
中国国民党の一党独裁 最大の懸案は、憲法を制定し、議会を開催して国民主権を具体化することであった。国民の多数と諸外国の期待もそこにあったが、蔣介石と中国国民党はこの段階を孫文が『建国大綱』で規定した「軍政」を終え「訓政」となったととらえた。1928年10月、中国国民党が発表した「訓政綱領」は党が指名する職能団体の代表などを招集して国民会議を設けたが、憲法に代わる「訓政時期約法」では国民政府首席に大きな権限を与えており、民意を国政に反映させるには不十分で、現実には中国国民党=蔣介石の独裁を固めるものであった。1928年10月、蔣介石は国民政府主席に就任した。
 「訓政」は優れた指導力のある人物・党に権力を集中させ、国民に訓令を与え、徐々に民主的な能力を植え付けるというもので、「約法」とも言われる臨時的な憲法や部分的な法律をまず制定する段階であり、その後に「憲法」を制定して参政権を国民に与えて「憲政」段階となる、というものであった。つまり国民の選挙による議会の開設はまだ早いというもので、中国国民党=蔣介石の独裁政治を正当化する理屈だった。このような蔣介石の姿勢には、国民党の内部と胡適などの知識人からも強い反対が起こったが、権力をにぎった蔣介石は中国国民党の一党独裁を崩さなかった。

4.南京国民政府:国共内戦期(大戦前) 1929~36年

国共内戦 南京国民政府は中国国民党の蔣介石独裁のもとにおかれたため、しばらく反蔣介石勢力との間で内戦が続いた。また国共合作崩壊後は中国共産党は独自の根拠地造りに進み、対立軸は国民党と共産党の対立へと移っていった。共産党は根拠地を井崗山から1931年に瑞金に移して中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立、毛沢東を主席としたが、国民党の圧力を受け、延安に大西遷(長征)をおこなった。その間、毛沢東が主導権を握り、党勢を拡大していった。
日本の侵略 その間、1931年9月満州事変から日本の中国侵略が始まり、日本は東北地方に「満州国」を成立させたが、蔣介石政府は「安内攘外」策をとり共産党討伐を優先させて日本軍との全面対立を避けた。1935年11月には浙江財閥の財力を背景に、懸案の通貨統一を行い、中国の経済的統一を図った。
西安事件 しかし、その間に日本は華北分離工作を進め、中国本土への侵攻を開始する勢いを見せ1935年12月には反日運動の十二・九学生運動が起こった。中国共産党は同年に八・一宣言を出し、国民党に共闘を呼びかけていたが、危機感を持った東北軍の張学良1936年に蔣介石を監禁して内戦停止を迫りるという西安事件を起こし、蔣介石もそれを受け入れて次の第2次国共合作へとむかう。

5.重慶国民政府:日中戦争期(第2次国共合作期) 1937~45年

日中戦争 1937年7月盧溝橋事件から日中戦争が勃発、9月に国民党と共産党は第二次国共合作を成立させた。しかし、日本軍は第2次上海事変で戦線を拡張、「中華民国」の首都南京に迫り、1937年12月に攻略、その時に南京虐殺事件が起こった。しかし国民政府は、武漢、ついで重慶と移動し、日本軍の追撃から防衛した。日本の近衛内閣は1938年1月、「国民政府を相手にせず」という声明を出し、重慶国民政府との交渉を打ち切るとともに、講和の交渉を行う政権を樹立する工作を開始した。
 一方、満州国を実施支配する日本は、満州国をモンゴル方面まで拡大することも前提に、北方のソ連軍に備えていたが、日ソ両軍が1939年5月に衝突してノモンハン事件(戦争)となり、関東軍がソ連の機械化部隊に敗れたことから、日中戦争の打開を図るために東南アジア方面に南進を測る考えが軍を中心に強まっていった。
第二次世界大戦 そのような中、1939年9月1日、ヒトラーの率いるナチス=ドイツがポーランドに侵入して第二次世界大戦が勃発し、中国の戦いにも複雑な影響をもたらすようになった。
汪兆銘の分離小作 日本は1940年3月、重慶政府の中で蔣介石と対立していた汪兆銘を担いで南京に「国民政府」を樹立させ、それを相手として有利な講和を図ろうとした。重慶に対しては1940年5月から激しい重慶爆撃を加えたが、屈服させることは出来なかった。
日本の南進 ヨーロッパ宣戦ではドイツ軍が次々と勝利を占め、1940年6月フランスを降伏させると、日本軍は1940年9月フランス領インドシナ進駐(北部仏印進駐)を実行した。この日本の東南アジアへの南進は、泥沼化した日中戦争を打開するため、援蔣ルートを遮断し、石油・ゴムなどの資源を得ることを目指したものであった。これはアメリカ・イギリスとの利害の衝突を呼び起こすこととなり、同時に軍主導で進められた1940年9月27日日独伊三国同盟の結成はその両国を仮想敵国とするものであった。
抗日民族統一戦線 日本軍の主力は次第に南方戦線にさかれることになったが、重慶政府はアメリカ・イギリスの支援を受けて抵抗を続け、また延安を拠点とする中国共産党は八路軍・新四軍に編制され、ゲリラ戦術によって激しく日本軍に抵抗を続けた。このころ、国民党・共産党は対立要素を含みながら抗日を優先させ、抗日民族統一戦線を維持して日中戦争を戦った。
太平洋戦争 日本の東南アジア方面への進出はアメリカとの決定的な利害の対立をもたらし、1941年4月から外交努力として日米交渉が行われたが行きづまり、総理大臣・陸軍大臣・参謀総長を兼ねる東条英機首相の下での御前会議により日米開戦を決定、1941年12月8日にハワイの真珠湾を攻撃、さらにイギリス領マレー半島占領にも上陸して太平洋戦争が始まった。これによってアメリカ合衆国が参戦し、第二次世界大戦はヨーロッパからアジア、太平洋に及ぶ全地球規模での文字どおりの世界戦争となった。重慶の国民政府は翌12月9日、日本・ドイツ・イタリアに宣戦布告し、中国共産党も「太平洋戦争に対する宣言」を発表してイギリス・アメリカその他の連合国支持を打ち出した。
不平等条約の改正 中華民国政府は1942年1月1日連合国26ヵ国の中の1国として連合国共同宣言に署名し、世界戦争における連合国の一員として戦うこととなった。これを受けて1942年10月10日、アメリカ・イギリスは国民政府との間で不平等条約撤廃(治外法権、租界の廃止)を宣言した。実に南京条約締結からちょうど100年目のことだった。それに競うように、 日本は1943年1月、南京の汪兆銘政府との間で日華新協定不平等条約の撤廃を認めた。
カイロ会談への出席 1943年2月、ドイツ軍はレニングラードから、日本軍はガダルカラルから撤退して、戦局は連合国の勝利へと大きく傾いたのを受け、1943年11月、連合国首脳によるカイロ会談が開催され、蔣介石は「中華民国」を代表してに参加した。これは蔣介石の国際デビューでもあり、満州、台湾などを日本からの返還などをアメリカ・イギリスに認めさせ、戦後の中国主権の回復を国際的に承認されたことで重大な意義を有していた。
英米ソのヤルタ密約 しかし、大戦の帰趨が明らかになった時期に連合国首脳(チャーチル、F=ローズヴェルト、スターリン)が戦後体制について協議した1945年2月のヤルタ会談には蔣介石は招かれなかった。にもかかわらず、ヤルタ協定において英米首脳はソ連の参戦への代償として、次のような中国に関するソ連権益を密約した。
  1. 外モンゴルの現状維持(モンゴル人民共和国の承認)
  2. 大連商港の国際化、ソ連の優越的権益保障。旅順軍港のソ連の租借権の回復。
  3. 中東鉄道(旧東清鉄道)・南満州鉄道の中ソ合弁とソ連の優越的権益の保障。
  4. 中国の満州における完全な主権の承認。
これによってソ連は中国を助け、日本の軍事支配からの解放を援助することを約束した。
中ソ友好同盟条約 蔣介石は、この密約は自分が参加していないところで行われたので激怒したが、同時にソ連(スターリン)が中国共産党(毛沢東)ではなく中華民国国民党の政権を正当な政権と認めたことを意味していたので、従わざるを得なかった。確かにスターリンはこの段階では中国共産党には中国を統一的に支配する力は無い、と見ていた。蔣介石は腹心の宋子文をモスクワに派遣してスターリンと交渉を行い、1945年8月14日に、ヤルタ密約と同一内容の中ソ友好同盟条約を締結した。それは日本の無条件降伏を天皇が国民に向けて放送した前日であった。

6.国共内戦期(大戦後) 1945~49年

日中戦争の終結と国際社会への復帰 日本の無条件降伏は8月10日には中国戦線の中国軍が傍受して知ることとなり、ただちに国民に知らされ、国民は爆竹を鳴らして処理を祝った。ただちに各地で国民党軍・共産党軍による日本軍の武装解除が行われ、日本軍総司令官岡村寧次が降伏文書に署名して日中戦争は終結した。しかし、国民党軍と共産党軍のいずれが日本軍の武装解除を行うかで対立が始まり、地域によっては旧日本軍は国民党軍に協力して共産党軍と戦ったところもあった。
 中国は連合国の一員として戦後国際秩序の構成に加わり、国際連合の発足に当たっては五大国の一つとされ、安全保障理事会常任理事国の地位を与えられた。
国共内戦 国内では重慶で蔣介石と毛沢東が直接会談し、1945年10月10日に「双十協定」を締結、内戦回避で合意し、共産党も含む「政治協商会議」(政協)が開催され、憲法の制定、民主的な議会の創設が目指された。政協の協議によって、中華民国の国民政府には共産党その他の生徒も加わり連合政権的なものとすることなどで合意が成立したが、両党の軍隊はそのままとされて軍事面での統一国家とはならなかった。主導権に制限を加えられた国民党は不満を強め、1946年5月、国民政府は南京に戻ったが、1946年6月国共内戦(第2次)が本格的に始まった。
中華民国憲法の制定 国民党は政協での合意を無視して1946年11月、憲法制定国民会議を開催、国民党独裁が強まることに反対して共産党や民主同盟などがボイコットする中、中華民国憲法を制定し、1947年1月1日に公布した。これは形の上では国民党・蔣介石の独裁色を薄めたもので、中華民国はようやく立憲国家となったいえるが、12月に施行され、内戦が激化する中、48年3月に国民大会が開催されたがそれに向けての選挙は約8割が棄権するという状態であった。選挙も買収と暴力、替え玉が横行したため国民の支持は遠のいていった。
台湾に移転 共産党が解放区で土地改革などを実施しながら国民の支持を伸ばしたのに対して、「中華民国政府」(1948年から国民政府を改めた呼称)は政府内部の腐敗などが進行したため国民の支持を得ることができず、また軍事的な敗北も重ねて、1949年12月8日に正式に台湾の台北に遷都を決定した。それより前、大陸では1949年10月、共産党による中華人民共和国が北京に樹立された。

7.台湾統治期 1950~現在

台湾国民政府 台湾に移った中華民国政府(蔣介石国民党政権)は、「中国」として国際連合の議席も継承した。国民党政府は本土出身者によって固められ、台湾人との対立の問題もあったが、東西冷戦のなか、アメリカの援助を受け、蔣介石政権が存続した。朝鮮戦争に中国軍が参戦したことに対し、アメリカは台湾海峡がアジアの共産化を防止する最重要地点ととらえ、第七艦隊を派遣して台湾防衛にあたった。1954年には米華相互防衛条約によって、アメリカの対共産圏包囲網の要とされた。「中国統一」を掲げる共産党と、「大陸反攻」を標榜する台湾の海峡をはさんでの対立は、長期にわたった金門・馬祖砲撃など台湾海峡危機は長期化した。
ニクソン訪中 台湾の国民党政権は中国大陸を睨むアメリカの拠点として、その強い保護のもとあったが、1970年代に大きな転機が訪れた。ベトナム戦争の長期化に苦しむアメリカが、打開策として中華人民共和国の共産党政権に近づき、1972年にアメリカのニクソン大統領が訪中して中華人民共和国を承認、「二つの中国」を認めないという立場に変わったのだ。そのため、台湾の「中華民国」は国連の中国代表権を失い、諸外国との外交関係も絶たれた。そのような激変の中で、蔣介石が1975年に死去、78年に息子の蔣経国が総統となり、国民党以外の政党を認めるなど改革を進めた。 → 台湾
台湾の民主化 1988年には初めて台湾出身者である李登輝政権が成立、大胆な民主化を進めたが、中華人民共和国との対立は深まった。2000年に李登輝が退任した後の選挙で、民進党陳水扁が当選し、台湾で初めて国民党以外の政党が政権に就いた。しかしこの間のNIEsの一つと言われる高い経済成長が実現し、経済的な発展と民主化も進めた台湾に対して、北京の中華人民共和国政府は依然として「ひとつの中国」の原則を崩さず、国際社会で度々警告を発した。
 同時に台湾内部にも、中国本土とは分離独立して単独の中華民国を回復、つまり中国から独立を目指す独立派と、あくまで中国本土との統一を原則とすべきであるという統一派に国論が二分される傾向が強まった。
国民党と民進党 国民党は2008年選挙で中国共産党とも対話を続けようと呼びかけて勝利し、馬英九が総統となった。国民党政権は中華人民共和国との経済交流を進め、一定の成果を収めていったが、一方の中華人民共和国の共産党政権は、一帯一路政策など覇権的な姿勢を強めたため、台湾内部では中国警戒の意識が強まり、2016年の選挙では民進党が政権を奪取し、女性の蔡英文が総統に就任した。中華民国史上初の女性総統となった蔡英文は、中国側の警戒が強まることが予想され、2016年、2018年と大規模な地震が続いて先行きが懸念されたが、2020年の新型コロナ・ウィールスの世界的流行では、いち早く対策を立てて乗りきることに成功、評価が高まっている。

NewS 辛亥革命110周年

 2021年10月10日、辛亥革命110周年(双十節)を祝う式典が、北京・台北でそれぞれ開催された。中華人民共和国の式典では正面に孫文の大肖像画を掲げ、その前で国家主席習近平は、中国の統一は辛亥革命以来の悲願であるとして台湾の統合を必ず実現すると明言した。その実際にあたっては当面は一国二制度を導入するとも述べた。台北での中華民国蔡英文総統は、一国二制度による統合は絶対受け入れないと表明、中国の最近の航空機による防空識別圏侵入を強く非難、また台湾で初めて式典パレードにミサイルを参加させた。
AFPbbニュース 習氏、台湾統一は「きっと実現」  「中国の圧力に屈しない」台湾の蔡総統

蛇足 台湾海峡の波よ静まれ

 辛亥革命から110年という年、ここにきて中国・台湾間の軍事的緊張が急に高まっている。いずれも軍事衝突になっても退かない姿勢を誇示することで抑止力を高めようとの意図であって、中国も実際に軍事行動に出るにはリスクも多くので、開戦に踏み切る可能性は低いが、訓練とは言え衝突という不測の事態がおきる懸念は強い。また過去の歴史で繰り返されてきたように、相手が先に手を出したから防衛のために武力を行使する、という口実がまた使われるかも知れない。軍事的な解決は双方にとって賢明な方法とは言えないので互いに挑発に乗らないという十分な自重が望まれる。
 それにしても、中国が一つの国家になるのは彼らの問題なので、日本が介入することはできないし、どちらかに加担することもできない。しかし、次のことだけは言えるだろう。それは、中国がもしどうしても台湾を統合したいというなら、まず中国自身が民主化し、多党制を認めるのが前提だ、ということだ。共産党と国民党はもちろん激しい内戦を戦った歴史があるのは事実だが、元をただせば孫文のもと、国共合作で仲良くやっていた時期もある。また日本との戦争が終わった直後、今から76年前の1945年に毛沢東と蔣介石は重慶で会談し、同じ10月10日に「双十協定」を結んで互いに認めあい、戦後の国造りを約束したはずだ。それが決裂して大陸と台湾がそれぞれ一党独裁の別々な国なってしまった。台湾の方が先に蔣介石時代の国民党一党独裁から脱却して民主化が進んでいる。共産党も同じように多党制・議会制民主主義を認めるべきだ。そうなればもともと多民族国家である中国が台湾を加えた一つの国家を作りることに何ら問題があろうはずはない。
 台湾海峡が波風が静かなまま、破滅の道ではなく、新しい本当の中国になってほしい……と、願っているが、そんなことは非現実的な夢にすぎない言われるであろう。あるいは中国が強引に台湾に侵攻して武力制圧を目指すかも知れない。しかし、もしそんなことをしたら、国際的に非難され、戦争で国内の経済成長も止まる事態となる恐れも大きい。世界経済の中で経済成長という甘い蜜を吸うことを覚えた中国(台湾も同じ)がそのような破滅的なことは考えないに違いない。台湾統合を武力で行うリスクは大きいと判断すれば、統合のソフトランディングは「一国二制度」などという香港でうまくいっていない方式ではなく、「一国一制度」つまり多党制議会制という最も無難で認めやすい西欧型民主主義(同じものでなくても中国風にアレンジしたものでもよい)によって統一し、台湾の国民党・民進党、その他の政党の活動を認めるしかないことは明らかだ。
 ついでに言えば中国が多党政治になることは、現在の全国人民代表会議も理屈から言えば共産党以外の政治勢力の存在を前提としているのだから、そのままでも可能であり、何ら問題はない。連邦制の自治共和国、あるいは自治区のような形態も考えられる。ましてや大陸も資本主義経済となんら変わりなく、経済体制は一緒だ。難しい問題があるとすれば、共産党の利権の制限とメンツの問題だけかも知れない。こう考えると決して不可能な話ではないように思うのだが。中台両岸の友人たちよ、よく考えてみたまえ。以上、辛亥革命以降の国民党と共産党の歴史を振り返って感じた素人談義です。
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書籍案内

横山宏章
『中華民国』
1997 中公新書

川島真
『近代国家への模索1894-1925』
シリーズ中国近現代史②
2010 岩波新書

石川禎浩
『革命とナショナリズム1925-1945』
シリーズ中国近現代史③
2010 岩波新書