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中華民国

辛亥革命によって1912年に始まった中国の共和政国家。アジア最初の共和政国家であったが、軍閥の台頭、国民党と共産党の対立、日本の侵略など、不安定な状態が続いた。

中華民国国旗
中華民国国旗
青天白日満地紅旗
 辛亥革命の翌年、1912年正月元旦、孫文臨時大総統に就任し、中華民国が成立した。首都は南京に置かれた。共和政国家は中国最初であり、アジアでももちろん最初であった。年号は「中華民国元年」と改められた。「民国○○年」という年号は1912年を元年として、現在でも中華民国(台湾)で使用されている。また、国旗は1928年に南京国民政府が正式に青天白日満地紅旗と定めた。
 なお「中華民国」を代表する政府は以後、日中戦争の終結までいくつも存在し、複雑な経過をたどる。 → 国民政府 参照。
「中華民国」の歴史の概略をまとめると次のようになる。

1.北京軍閥政権期 1912~25年

中華民国の建国 1912年1月1日、孫文が南京で中華民国の建国宣言を行い、みずから臨時大総統に就任。2月12日、宣統帝が退位し清朝が滅亡した。翌日、孫文に代わって袁世凱が臨時大総統となり、そのまま北京にいすわる。袁世凱は北洋軍閥を背景に独裁権力を握った。
袁世凱政権と第二次世界大戦 それに対して孫文は国民党を結成、議会制度の実現などを要求して第二革命を起こすが弾圧され、袁世凱が大総統に就任。第一次世界大戦が始まると1915年、日本の二十一カ条要求に屈したため、反発が強まる。袁世凱は一気に皇帝就任を策するがそれに反対する第三革命が起こり、外国の反対もあって失敗し、16年に死去した。
文学革命 また1915年には陳独秀らが雑誌『新青年』の刊行を開始し、白話文学の創作、儒教道徳の批判などを内容とする文化の革新運動である文学革命が始まった。これは文化の面での近代化と同時に、民族意識の新たな展開に強い刺激となっていく。
軍閥の抗争 しかし、政治情勢は安定せず、その後の北京政府は北洋軍閥を継承した軍閥(安徽派、直隷派、奉天派など)が対立、中華民国大総統はめまぐるしく交替、各地にも軍閥が自立し抗争が続いた。それに対して孫文らは広東軍政府をつくって中国統一をめざす戦いを開始した。
五・四運動 1919年パリ講和会議には北京政府と広東軍政府の双方から共同して代表を派遣した。しかし、日本の山東半島権益の継承が認められ、それに反発した学生と民衆が五・四運動を起こし、大きな民族運動となった。パリ講和会議の代表団はそれをうけてヴェルサイユ条約調印を拒否し、北京政府もそれを承認した。
中国と国際連盟 中国はヴェルサイユ条約は調印を拒否したが、第一次世界大戦への参戦国としてサン=ジェルマン条約(連合国とオーストリアの講和条約)には調印し、その第一条が国際連盟条項であったので、加盟国となった。パリ講和会議でも代表を務めた顧維均がそのまま代表として加わり、優れた外交手腕を発揮している。日本が常任理事国となったのに対し、山東問題の解決には理事国になる必要があると考えた顧維均は盛んに運動して、1920年11月の第一回総会で非常任理事国(ベルギー、ブラジル、スペインと共に)に選ばれた。その後も中国は何度か非常任理事国に選ばれ、重要な役割を担っていた。<川島真『近代国家への模索1894-1925』シリーズ中国近現代史② 2010 岩波新書 p.186-188>
国際協調 20年代には国際協調の気運が進む中でワシントン会議が開催され、中国も代表団を派遣(このときは広東軍政府からは加わらなかった)、1922年に九カ国条約が締結されて日本の山東半島権益は中国に返還され山東問題が解決された。ただし、旅順・大連の租借延長は撤回されず日本の関東州支配は続いた。
 しかし、国内の分裂状態が続き、北京政府の実効支配の能力も低くなっていった。また財力不足から子くらい連盟経費負担が滞り、次第に発言力は弱くなっていった。
孫文の中国国民党結成 五・四運動など民族運動が活発となったことを受けて孫文は中国国民党を結成、1921年に結成された中国共産党との間で1924年には第1次国共合作を成立させた。
第1次国共合作の進行 次の課題は国共合作によって北京の軍閥政府を倒し、民族統一という国民革命を実現することであったが、孫文はその前の1925年3月に死去した。5月には上海でストライキ中の中国労働者がイギリス警察に殺害されるという事件をきっかけに五・三〇運動が始まってナショナリズムが高揚し、それを受けた中国国民党は広東国民政府(広州国民政府)を成立させ、国民革命軍を組織して蔣介石がその司令官に任命された。

2.北伐と南京政府の成立:北伐期 1926~28年

蔣介石、北伐開始 中国国民党の蔣介石は1926年から「北伐」を開始した。北伐軍には共産党員も参加し、ソ連からの軍事顧問もついていたが、次第に蔣介石は共産党を排除するようになった。上海などの民族資本家がその排除を要求したのである。北伐の途中の1927年、ついに蔣介石は上海クーデターで共産党を排除して「南京国民政府」を樹立、自ら主席となった。
北伐の完了 一旦中断した北伐を再開し、1928年には北京に入城して軍閥政権を倒すことに成功した。北京から逃れた奉天軍閥の張作霖は日本の関東軍張作霖爆殺事件の謀略で殺害されたが、同年12月にはその子の張学良が中華民国支持を打ち出して易幟を行い、東三省も中華民国に帰順して、国民政府による中国統一が完成した。
南京国民政府 統一なった中華民国の首都は南京と定まった。共産党を排除し、北伐を完成させたことによって、アメリカは蔣介石の南京国民党政府を中国の政府と承認し、1928年に関税自主権の回復を認める条約改正に応じた。同年12月までにドイツ、イギリス、フランスなどがそれに続いた。日本は北伐から居留民を保護する口実で山東出兵を行い、済南事件で国民政府軍と衝突するという敵対関係にあったため、国民政府の承認、関税自主権の回復承認は1930年に持ち越された。

3.南京国民政府:国共内戦期(大戦前) 1929~36年

国共内戦 南京国民政府は蔣介石独裁の性格が強かったため、しばらく反蔣介石勢力との間で内戦が続いた。また国共合作崩壊後は中国共産党は独自の根拠地造りに進み、対立軸は国民党と共産党の対立へと移っていった。共産党は根拠地を井崗山から1931年に瑞金に移して中華ソヴィエト共和国臨時政府を樹立、毛沢東を主席としたが、国民党の圧力を受け、延安に大西遷(長征)をおこなった。その間、毛沢東が主導権を握り、党勢を拡大していった。
日本の侵略 その間、1931年の満州事変から日本の満州侵略が始まり、日本は東北地方に「満州国」を成立させたが、蔣介石政府は「安内攘外」策をとり共産党討伐を優先させて日本軍との全面対立を避けた。その間に日本は中国本土への侵攻を開始する勢いを見せ、危機感を持った東北軍の張学良が1936年に蔣介石を監禁して内戦停止を迫りるという西安事件を起こし、蔣介石もそれを受け入れて次の第2次国共合作へとむかう。

4.重慶国民政府:日中戦争期(第2次国共合作期) 1937~45年

日中戦争 1937年7月、盧溝橋事件から日中戦争が勃発、9月に国民党と共産党は第二次国共合作を成立させた。日本軍は12月に「中華民国」の首都、南京を陥落させた。しかし国民政府は、武漢、ついで重慶と移動し、日本軍の追撃から防衛した。日本軍の占領は点と点を結ぶ線にとどまり、戦争は長期化した。打開策として日本は1940年、汪兆銘を担いで南京に「国民政府」を樹立させ、「重慶政府」と対抗させた。
抗日民族統一戦線 しかし「重慶政府」はアメリカ・イギリスの支援を受けて抵抗を続け、国共合作のもと一応は蔣介石の統率下に入った共産党軍(八路軍など)も激しく日本軍に抵抗しながら拠点を拡大していった。こうして国民党・共産党は対立要素を含みながら抗日民族統一戦線を維持して日中戦争を戦い、日本は1941年に太平洋戦争に突入、中国を含む連合国との戦争を続け、45年に敗戦となり、中国は日本との戦争に勝利した。

5.国共内戦期(大戦後) 1945~49年

日中戦争の終結 蔣介石は「中華民国」を代表してカイロ会談に参加し、戦後国際秩序の構成に加わることとなった。中国は連合国の一員と大戦中から国際的に認知され、国際連合の創設にも加わった。また発足に当たっては中国は五大国の一つとされ、安全保障理事会常任理事国の地位を与えられた。
中華人民共和国の成立 国内ではいったん、共産党も含む「政治協商会議」が開催され、憲法の制定、民主的な議会の創設が目指されたが、結局イデオロギーの対立は一致点を見いだすことができず、国共内戦(第2次)に突入した。共産党が解放区で土地改革などを実施しながら国民の支持を伸ばしたのに対して、「中華民国」国民政府は政府内部の腐敗などが進行したため国民の支持を得ることができず、また軍事的な敗北も重ねて、1949年12月に台湾に移った。それより前、大陸では1949年10月、共産党による中華人民共和国が北京に樹立された。

6.台湾統治期 1950~現在

台湾国民政府 台湾に移った中華民国政府(蔣介石国民党政権)は、「中国」として国際連合の議席も継承した。国民党政府は本土出身者によって固められ、台湾人との対立の問題もあったが、東西冷戦のなか、アメリカの援助を受け、蔣介石政権が存続した。台湾海峡は東西冷戦の最前線としてしばしば緊張し、不安定な状況が続いた。
ニクソン訪中 しかし、ベトナム戦争の長期化に苦しむアメリカが、打開策として中華人民共和国の共産党政権に近づき、1972年にアメリカのニクソン大統領が訪中して中華人民共和国を承認、「二つの中国」を認めないという立場に変わったため、台湾の「中華民国」は国連の中国代表権を失い、諸外国との外交関係も絶たれた。蔣介石は1975年に死去、78年に息子の蒋経国が総統となり、国民党以外の政党を認めるなど改革を進めた。 → 台湾
台湾の民主化1988年には初めて台湾出身者である李登輝政権が成立、大胆な民主化を進めたが、中華人民共和国との対立は深まった。2000年に李登輝が退任した後の選挙で、民進党陳水扁が当選し、台湾で初めて国民党以外の政党が政権に就いた。しかしこの間のNIEsの一つと言われる高い経済成長が実現し、経済的な発展と民主化も進めた台湾に対して、北京の中華人民共和国政府は依然として「ひとつの中国」の原則を崩さず、国際社会で度々警告を発した。
 同時に台湾内部にも、中国本土とは分離独立して単独の中華民国を回復、つまり中国から独立を目指す独立派と、あくまで中国本土との統一を原則とすべきであるという統一派に国論が二分される傾向が強まった。
国民党と民進党 国民党は2008年選挙で中国共産党とも対話を続けようと呼びかけて勝利し、馬英九が総統となった。国民党政権は中華人民共和国との経済交流を進め、一定の成果を収めていったが、一方の中華人民共和国の共産党政権は、一帯一路政策など覇権的な姿勢を強めたため、台湾内部では中国警戒の意識が強まり、2016年の選挙では民進党が政権を奪取し、女性の蔡英文が総統に就任した。中華民国史上初の女性総統となった蔡英文は、中国側の警戒が強まることが予想され、2016年、2018年と大規模な地震が続いて先行きが懸念されたが、2020年の新型コロナ・ウィールスの世界的流行では、いち早く対策を立てて乗りきることに成功、評価が高まっている。
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書籍案内

横山宏章
『中華民国』
1997 中公新書

川島真
『近代国家への模索1894-1925』
シリーズ中国近現代史②
2010 岩波新書

石川禎浩
『革命と名リョナリズム1925-1945』
シリーズ中国近現代史③
2010 岩波新書