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鄧小平 (1)文化大革命中の苦難

中国共産党の指導者。毛沢東を支え共産党と中華人民共和国建国の実務を取り仕切る。1958年、大躍進の失敗から経済改革に乗り出すが、毛沢東によって走資派と批判され、文化大革命中は二度にわたって失脚する。

 鄧小平は、現代の中国で最も重要な存在となった政治家の一人といえる。1904年に四川省に生まれ、洪秀全や孫文と同じく、客家の出身といわれている。1920年、16歳でフランス「勤工倹学」(働きながら学ぶこと)に参加し、パリなどで苦学しながら中国共産党に入党した。同じころ勤工倹学でフランスに渡り共産党の活動を始めた先輩が周恩来であった。1926年にはモスクワを経由し、27年に中国に戻ると、国民党による激しい弾圧が始まっており、広西地方でゲリラ戦を指導することとなった。長征中の35年、遵義会議では毛沢東を支持、それ以後共産党の中枢として、抗日戦争、国共内戦を戦い、特に八路軍の副指揮官としての活躍は広く知られた。1949年の中華人民共和国建国後は国務院副総理や党の総書記を務め、党の実務面で毛沢東を支えた。
 → 鄧小平政権

Episode 小さな巨人、鄧小平

 山椒は小粒でもピリリと辛いというが、鄧小平は身長150cmでも毛沢東から一目置かれていた。毛は鄧小平を評して「綿中に針を蔵す」、つまりあたりや柔らかいがシンには鋭いものをもっているといっている。また1957年に鄧小平らを率いてソ連に行き、フルシチョフと会見したとき、鄧小平を「あのチビを甘く見てはいけませんぞ。彼は蔣介石の精鋭百万をやっつけたのです」と紹介したという。<矢吹晋『鄧小平』1993 講談社現代新書 p.8>

文化大革命で苦境に立つ

 1958年から毛沢東主導の「大躍進」運動が始まったが、それは伝統工法での鉄鋼生産(土法高炉)や人民公社の急速な普及など、社会の実情に合わず、折からの天候不順もあって大飢饉をもたらすという失敗に終わった。その総括をめぐって対立が始まり、毛に代わって国家主席となった劉少奇は、鄧小平とともに「調整政策」に取り組み、路線の修正を図った。1962年1月の中国共産党中央拡大工作会議(七千人大会)で毛沢東は誤りを認め、劉少奇と鄧小平を中心として社会主義国家建設を現実的な路線に転換することが決定された。しかし毛沢東は、この動きを資本主義復活をねらう修正主義であり、ブルジョワ階級の復活に対しては階級闘争を継続しなければならないと強い危機感を抱いた。毛沢東は劉少奇・鄧小平を追い落とし、奪権を実現させる手段として、まずプロレタリア階級の解放に反対するブルジョワ的な文化を批判するという文化活動を開始した。1966年5月から本格的に始まった文化大革命の提唱とは、毛沢東による奪権闘争がその本質であったが、共産党幹部の官僚的な統制に反発していた若い層がまず反応し、各地に紅衛兵という毛沢東支持の過激な運動が急速に広がった。動員された紅衛兵は共産党幹部の権威を否定して造反派といわれ、劉少奇と鄧小平は忽ちその攻撃の標的とされ、共に資本主義への道を歩む走資派、自己の権力維持に奔走する実権派の頂点として激しく批判されるようになった。

Episode 鄧小平の「白猫黒猫論」

 現実主義者、プラグマティストと言われた鄧小平は、いろいろおもしろい発言を残している。その中で最も有名なのが「白猫黒猫論」だろう。1962年7月7日、共産主義青年団の若者に対して語った言葉の中に、「白い猫であれ、黒い猫であれ、ネズミを捕ればよい猫だ」という四川地方のことわざを引いて(実際には白猫ではなく黄猫だそうだが)、蔣介石軍を破ったときの経験から、物事にとらわれてはいけない、状況次第で現実に対応し、結果がよければよい、と説いたとされている。毛沢東的な階級闘争のイデオロギーにとらわれるなという鄧小平の現実主義を言っているとして当時から人々に受け止められたが、鄧小平は盛んにその発言を打ち消したという。<矢吹晋『鄧小平』1993 講談社現代新書 p.71>

最初の失脚

 文革初期の1966年10月、毛沢東により、劉少奇と共に走資派・実権派として自己批判を強いられて、失脚した。国家主席劉少奇は1968年10月、党籍を剥奪され、拘束されたまま、最後は病死した。実質ナンバー2であった鄧小平は党籍は剥奪されなかったがすべての役職を解かれ、2年間ほど軟禁された後、1969年10月、家族とともに江西省に送られ、一労働者としてトラクター修理工場で働いた。その後、鄧小平は文革期を通じ2度の失脚と復活を繰り返すこととなる。(長征期に親ソ派から、毛沢東に近いと言うことで主流派をはずされたことも加えれば、生涯に三度失脚したことになる。)
林彪事件 文化大革命は1966~68年、紅衛兵の活躍に見られるように運動の最盛期を迎え、劉少奇・鄧小平だけではなく、多くの古参の党幹部や著名な文化人が自己批判に追いこまれ、失脚し、あるいは自殺などに追いやられた。しかしその運動は次第に混迷するようになり、その中で人民解放軍を背景とした林彪が台頭した。林彪は毛沢東の後継者に指名されるまでになったが、やがて毛沢東と対立し、クーデタに失敗して1971年9月13日、事故死するという林彪事件がおきた。

最初の復活

 林彪事件の前後、毛沢東の信頼の篤かった周恩来はアメリカ大統領ニクソンの訪中日中国交正常化などの外交課題に対処するとともに、文化大革命で混乱した中国経済立て直しを目指して改革に取りかかり、有用な人物として鄧小平の復活を毛沢東に要請し、1973年3月に復活が実現した。これに対して文化大革命を推進する江青など四人組はそれを社会主義を否定するものとして激しく抵抗し、1974年には林彪・孔子を批判することで暗に周恩来打倒を目論んで批林批孔運動を展開した。
周恩来に代わって 復活後の鄧小平の活動は、まもなく病に伏すようになった周恩来に代わって活発となり、四人組の反発を尻目に大胆で華やかなだった。1974年には国際連合資源特別総会に中国代表として出席、「三つの世界論」の演説を行った。これは既に毛沢東が提示していた、米ソ覇権主義超大国を第一世界、経済的に後れているが反帝国主義、民族解放を掲げて対抗しているアジア・アフリカ・仲南べを第三世界、その中間にある西欧・日本・東欧諸国などを第二世界という三つのグループに分け、中国を第三世界の一員であると表明した。これは中国の国際的な立場を明確にしたもので一躍鄧小平は中国のリーダーとして認知されることとなった。
 自信を深めた鄧小平は党組織だけでなく工業、農業、軍、教育でも改革を呼びかけ主導権をとろうとした。1975年1月に全人代では病を押して周恩来が「政府報告」で「農業、工業、国防、科学技術」の「四つの現代化(近代化)」の提唱を行い、これは後に鄧小平によって具体化されることとなる。それに対して江青など四人組は益々警戒心を強め、毛沢東を動かそうとした。それに動かされた毛沢東は鄧小平への不信を強め、信念を曲げた投降主義者・修正主義者として『水滸伝』の主人公宋江を批判する「水滸伝批判」を始めたが、これは暗に鄧小平を批判したものだった。

Episode 「便所を占領して用をたさないやつ」

 第1回目の復活を遂げ、病気が重くなった周恩来に代わって国務院の実務を執るようになった鄧小平は、科学技術は「四つの下現代化」を先導するものと考えた。科学技術の立ち後れが国民経済発展の足を引っ張っている現状から脱却するため、1975年7月、鄧小平は共青団中央委員会第一書記の胡耀邦を選出して中国科学院に派遣した。胡耀邦は調査研究を報告し、その中で文化大革命の理念に忠実なものは幹部になれるが、そうでない科学技術者は仕事からはずされ、生活にも困って研究に取り組めないでいる、と報告した。それを聞いた鄧小平は強く怒り「白専(専門分野では優秀だが思想的に問題のあるもの)でも中華人民共和国の役に立つのなら、便所を占領して用もたさないやつや、派閥を組んでわれわれの足を引っ張るやつよりはるかにいい」と言って、ただちに科学研究の環境をつくり研究員が研究に専念できるよう「住居、交通、育児、食事、妻」問題の解決を重視するよう指示した。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』下 1996 岩波書店初版 p.118>

二度目の失脚

天安門事件(第1次) 両者の対立が深まる中、翌1976年1月に後ろ盾の周恩来が死去すると鄧小平はその葬儀で弔辞を読んだ。しかし両者の対立は頂点に達しており、北京の民衆が1976年4月、周恩来追悼の集会で反四人組の声を上げてると四人組は警察部隊を動員して民衆を排除するという天安門事件(第1次)が起こった。四人組は民衆の反政府活動を警戒した毛沢東を動かし、鄧小平は、混乱の責任をとらされる形で再び解任され、近代化路線は再び挫折した。
 この天安門事件は、四人組政権によって「反革命の暴動」とされたが、文化大革命終了後にその評価は逆転し、民衆の正当な革命的行動となった。しかし、1989年6月には同じ天安門広場で同じような民衆行動が繰り広げられる。こちらは急死した前総書記胡耀邦の追悼がきっかけだった。この天安門事件(第2次)は人民解放軍が戒厳部隊として出動し、暴動として鎮圧された。こちらは皮肉にも鄧小平は最高実力者として弾圧する側にあり、また反国家的な暴動であるという評価は現在も変わっていない。

鄧小平 (2)鄧小平政権

毛沢東の死後の華国鋒政権の下で1977年7月に復権した。文化大革命後の混乱の収束を進め、78年に華国鋒を追い落とし、改革開放路線を明確にした。80年代~90年代にかけて政治権力を集中させて鄧小平時代を出現させ、経済面では資本主義の大胆な導入に踏み切ったが、共産党一党独裁の政治体制は頑強に維持しようとした。そのため、第2次天安門事件などの民主化運動を厳しく弾圧した。鄧小平の路線はその後の中国に継承され、中国が経済大国に転換する基礎を築いた。

鄧小平の二度目の復権

 1976年9月、中華人民共和国の建国以前からの指導者、毛沢東死去の後、華国鋒政権は四人組を逮捕し、文化大革命を実質的に終わらせた。このときはまだ鄧小平は失脚中であったが、次第に待望論が高まった。華国鋒はその復帰を望まなかったが、鄧小平は二度、華国鋒に書簡を送り、華国鋒を指導者として絶賛し、自己の誤りを反省していることを伝えた。1977年7月、中共第10期三中全回は、「四人組」の党からの永久追放とともに鄧小平の全職務の回復を決定した。これによって鄧小平は中央政治局常務委員、党副主席、国務院副総理、中央軍事委員会副主席兼総参謀長に復帰し、華国鋒、葉剣英に次ぐナンバー3の地位を確保した。

鄧小平政権の成立

 さらに翌1978年2月の第5期全国人民代表会議(全人代)第1回会議でその主導の下に「近代化された社会主義」を目指す新憲法が採択され、経済発展を目指す改革開放政策を打ち出した。さらに、1978年12月18日、「歴史的な転換」とも言われる中国共産党第11期三中全会(中央委員会第3回総会)で華国鋒を批判し、代わって実質的に会議をリードした。鄧小平は、「党と国家の重点工作を近代化建設に移行する」と宣言し、建国以来毛沢東およびその路線によって揺れ動かされた中国は、新たな鄧小平時代へと一歩を進めることになった。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書>
鄧小平の訪日 1978年8月12日、鄧小平は改革開放には日本との経済協力が必要と考え、自ら推進していた日本との国交回復の懸案であった日中平和友好条約を締結、同年10月、副首相としてはじめて日本を訪問、同条約の批准書を交換した。8日間の滞在中、要人と会見したほか、日産や新日鐵、松下電器などの工場を見学、新幹線で京都や奈良を訪ねた。その際、「ここの文化は中国から学んだものです」と話しかけられると、鄧小平は「今は立場が逆になりました。今はあなた方から学ばなければなりません」と答えた。文化大革命を終えた中国は日本を一つの発展モデルとして学習の対象にしていたのだった。<高原明生・前田宏子『開発主義の時代へ』シリーズ中国近現代史⑤ 2014 岩波新書 p.52>

改革開放路線

 1978年12月18日の三中全会における鄧小平演説は、内外に中国が「改革開放政策」に転換して新たな段階に入ったことを宣言するものであった。それは政治では共産党一党独裁のもとで社会主義体制を堅持しながら、市場経済(資本主義経済)を国内経済のみならず対外経済でも導入するものであった。具体的には人民公社の解体、農産物価格の自由化などの国内経済の自由化であり、外国資本や外国の技術の導入を認めることであり、そのような開放経済の拠点として「経済特区」と設けることであった。
鄧小平の訪米 翌1979年1月1日には中華人民共和国建国以来、初めての中国要人として訪米し、アメリカのカーター大統領との交渉にあたった。日中交渉が経済問題を主としていたのに対して、米中会談は米中国交正常化を実現させ、中国がソ連に対し優位に立つという外交問題が話し合われた。特に焦点となったのは台湾問題とベトナム問題であった。台湾問題では中国の要求どおりアメリカ軍が台湾から撤退するかわりに、台湾への武器供与を続けることを相互に認めた。ベトナム問題では鄧小平はソ連寄りを明確にしているベトナムに対し、親中派のカンボジア(ポル=ポト政権)を支援するために軍事行動を実行することの了解を求めた。カーターは軍事行動はソ連との関係を悪化させる恐れが大きいとして、反対の意思を表示した。険しい中米交渉であったが、他に科学技術協力協定などを締結して中国としては大きな成果を得た。
中越戦争 アメリカの了解は得られなかったものの、帰国後すぐの1979年2月17日に中国軍はベトナムに侵攻して中越戦争に踏み切った。北ベトナムがソ連との関係を強化し、隣国カンボジアの親中政権であるポル=ポト政権を圧迫していることを理由にした軍事行動であったが、国際間でも批判され、国内的にも支持がなかったために、大きな戦果のないまま撤退した。これは中国にとっては痛手であったが、むしろ国家主席の華国鋒の責任とされて、鄧小平への批判は起こらなかった。

「北京の春」と四つの基本原則

 毛沢東の死、四人組の逮捕によって文化大革命は実質的に終わりを告げ、1977年の鄧小平復活によって「四つの現代化」路線が本格的に始まったことを受け、1978年秋から79年春にかけて北京市内の西単交差点に大量の壁新聞が現れ、民主化要求が盛んになった。民主化運動家の魏京生は四つの現代化に加えて「第五の近代化」として政治の近代化を主張した。この動きは当時、「北京の春」といわれ、多くの人々は鄧小平の台頭が経済の近代化にとどまらず、「政治の近代化」=民主化に進むのではないか、という期待を抱いた。しかし、鄧小平は1979年3月の党中央工作会議において、「四つの現代化」はあくまで次の「四つの基本原則」を厳守するという枠内でなければならないと、明言した。
 1.社会主義の道
 2.プロレタリア独裁(後に人民民主主義独裁と表現)
 3.共産党の指導
 4.マルクス・レーニン主義、毛沢東思想
の四つである。これは、共産党一党支配に対する批判は許さないことを柱とすものであり、この「四つの基本原則」によって、魏京生を逮捕するなどきびしい姿勢をもって臨んだ。鄧小平のもとで政治の民主化が進むというのは幻想に終わり、「北京の春」は急速に萎み、むしろ厳しい共産党一党独裁の体制が強化された。以後、文学・思想界でもプロレタリア独裁を守る保守派は「ブルジョア自由化反対」を掲げて改革派を批判し続けていく。この「四つの基本原則」は1982年に改正された中華人民共和国憲法に盛り込まれた。こうして、「四つの現代化」は、あくまで「四つの基本原則」の枠内でのこととされた。
文化大革命の総括 鄧小平は内政では当初は表舞台には立たなかったが、1980年8月には華国鋒総理を辞任させ、腹心の趙紫陽をすえて権力を維持した。同年には劉少奇の名誉回復を実現し、同時に中国社会主義の柱であった人民公社に対して、その非生産性を批判して、82年に「人民公社の解体」を断行した。鄧小平は胡耀邦などに作業させて文化大革命の総括を進めていたが、1981年6月27日に「歴史決議」として提起し、文化大革命を失敗と総括した。
 1979年から80年にかけて、鄧小平政権の下で中国は大きく路線を転換させ、改革開放路線、言いかえれば共産党一党独裁の元での資本主義の導入という新たな試みに着手した時期となった。この1979年には、1月のイラン革命から12月のソ連のアフガニスタン侵攻まで、冷戦という世界構造を揺るがす動きが明確になった時期であった。

参考 改革開放の開始時期

 中国共産党の正史では、鄧小平による改革開放1978年12月18日中国共産党第11期三中全会(中央委員会第3回総会)で打ち出された「歴史的な転換」であるとされ、それが定説となっている。しかし、最近の論考の中にはこの時点だけを改革開放の起点としたのは、鄧小平の実績作りであり、実際にはその前からさまざま局面で同様の政策は始まっており、また「改革開放」ということばが頻繁に現れるのは1986年以降のことである、という指摘がなされている。<高原明生・前田宏子『開発主義の時代へ』シリーズ中国近現代史⑤ 2014 岩波新書 p.3>

最高実力者として

 鄧小平政権下で、「中国独自の社会主義の建設」という理念のもと、1980年代以降の中国経済の驚異的な成長を実現させた。それを支えた実務官僚が、党務の胡耀邦、政務の趙紫陽であった。
 1982年9月、中共第12回全国大会で、胡耀邦が「政治報告」を行い、今世紀末までに80年の工農業生産総額の4倍増の実現・・・などの目標を掲げた。指導体制としては革命イメージを払拭し、集団指導体制を確立する意味から党主席制を廃止、総書記制を導入し胡耀邦が総書記に就いた。鄧小平自ら最高ポストに就くことを避けたが「最高実力者」であることは誰の目にも明らかで、総書記胡耀邦と国務院総理趙紫陽を左右に従えた「鄧胡趙トロイカ体制」が成立した。
台湾 同大会では、外交のウエートも近代建設のために、次第に「世界平和擁護」「平和的国際環境の建設」に移り、「自主独立路線」とともに「平和共存五原則」が強調された。また、台湾問題では従来の「武力解放」政策から、「平和的統一」政策への転換が図られ、香港も含め「一国二制度」による「祖国の統一」が力説された。
香港 香港の返還は九竜半島北部の租借期限の切れる1997年を前に解決が急がれ、1980年代のイギリスのサッチャーとの間の交渉が進められ、1984年12月の中英共同声明によって1997年に香港の主権を中国に返還する約束が成立した。このとき鄧小平は、台湾統一の原則として提唱していた「一国二制度」による返還を応用することを提示し、植民地支配延長を主張するイギリスの妥協を引き出した。
中ソ対立の解消 1950年代から続く中ソ対立についても、1989年5月にソ連のゴルバチョフ書記長が中国を訪問して鄧小平と会談、中ソ関係の正常化が実現した。ちょうどこの時、北京で第2次天安門事件が起こったため、中ソ関係の正常化とともに鄧小平政権の民主化運動弾圧が世界に報道されることとなった。

第2次天安門事件の弾圧

 中国共産党内にも「ブルジョア自由化反対」を唱え、改革開放路線を危険視する李鵬などの保守派の勢力も強く、鄧小平は胡耀邦、趙紫陽などの改革派とのバランスを巧みにとりながら、政局の安定に努めたが、ついに子飼いの胡耀邦を改革路線の行き過ぎという理由で解任した。改革開放路線の中で成長した市民はさらに民主化を求め、鄧小平政権との緊張感が高まっていった。
 1989年に胡耀邦が死去すると、学生・市民がその死を悼んで追悼集会を開催した。1989年6月4日、鄧小平はそれが反政府暴動に発展することを恐れて一挙に弾圧し、学生・市民に同調した総書記趙紫陽も解任するという第2次天安門事件が起こった。その強圧的な人権抑圧の姿勢は、世界的な批判を受けることとなった。
世界に中継された天安門事件 1989年、中国で第2次天安門事件の起こった時、ゴルバチョフが訪中していたため、世界の報道機関の取材陣が北京に詰めかけていた。そのため事件はそこに居合わせた世界のジャーナリストによって映像と共に世界に中継されて伝えられた。ゴルバチョフに世界中の注目が集まっていたのは、その年の一連の東欧革命に彼の動向が大きな影響を与えていたからであり、事実、11月にはベルリンの壁が開放され、12月には米ソ首脳のマルタ会談冷戦の終結が宣言される。そのような東欧社会主義が劇的に崩壊し、自由な社会が実現したのに比べ、鄧小平が力で天安門の民衆の言論と行動を押さえ込んだことが際だって世界に印象づけられた。

鄧小平の南巡講話

 第2次天安門事件を人権抑圧だとして非難したアメリカが経済制裁を加えるなど、中国経済は大きな打撃を受けた。事件の背景に格差の拡大や物価高に対する民衆の反発もあった。鄧小平はこの危機の打開は、改革開放路線の変更ではなく、そのさらなる徹底しかない、と考えた。第2次天安門事件はそれだけ共産党と中国国家にとって大きな危機だったのであり、鄧小平はすでに高齢ではあったが、最後の努力を傾けざるを得ないこととなった。
 1992年1月~2月、鄧小平は深圳(しんせん)、珠海、そして上海へと、中国南部の経済特区を歴訪した。これは改革開放政策の最先端を行く地域をめぐり、視察をしながら一層の経済成長を督励するためのものだった。鄧小平がこの時行った南巡講話は、地方で熱狂的に歓迎され、投資ブームを引き起こして、それ以後の中国経済が毎年10%を越える急速な回復を実現した。
(引用)92年の1月18日から2月21日にかけて、鄧小平は87歳の老体に鞭打ち武漢、深圳、広州、珠海、上海など南方の開放都市を訪問した。そして各地で改革開放を加速せよと「檄」を飛ばしたのである。これはやがて「南巡講話」と呼ばれた。いわく「敢えて、大胆に突破する必要がある。纏足女のようではダメだ」「今が発展のチャンスだ。チャンスを逃がすな」。さらに彼は従来多くの社会主義者がためらいを持ち続けていた市場経済の導入を積極的に奨励し、そのための彼一流のプラグマティックな理論を展開している。例えば「計画が社会主義で、市場が資本主義という見方は誤っている。計画と市場はともに経済手段である。資本主義にも計画があるように、社会主義にも市場があってもおかしくはない」、さらに「姓社姓資」(問題は社会主義か資本主義か)論争をするな。物事の是非の判断は①生産力の発展、②総合国力、③人民の生活向上に有利か否かを基準とせよ」などといった主張である。<天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書 p.160>
急激な経済成長と格差の発生 しかし急速な経済成長は、経済格差を生み出した。この経済格差の第一は都市と農村との格差である。2005年の都市人口一人あたりの平均収入は農村人口の三倍にあたり、社会福祉の状況をあわせれば都市の住民の収入は農村の4倍から6倍と推定される。第二の格差は地域間にある。中国東部の沿岸地方が改革開放政策の恩恵で被って急速に発展しているのに対し、内陸の経済発展は概して後れている。沿岸部の浙江省と内陸の貴州省を比べると、1991年に2.7倍であった一人あたりGDPの格差は、2002年に5.3倍になっている。格差問題の他に、経済発展にともなう、公害・環境問題、機械化に伴う失業問題など、発展する中国経済はまだまだ未解決の問題を抱えている。<岸本美緒『中国の歴史』2015 ちくま学芸文庫 p.285,290>

鄧小平外交の変化

 第2次天安門事件後の鄧小平の外交政策での基本姿勢は「韜光養晦(とうこうようかい)」という言葉で表された。その意味は、アメリカからのさまざまな圧力があっても、時に強く反発を示しながら、基本的には面倒を起こさず協力をすべきである、という。ソ連・東欧社会主義国の崩壊という激変の中で、中国が孤立を避けるためにもアメリカとは決定的な対立を避ける必要があるという認識が背景にあったと思われる。また孤立状態からの脱却を目指すため、経済成長の著しい東南アジア諸国との交流強化に努めるようになった。また日本との関係の改善に努めたこともあって、日本は先進国の中で最も早く、経済制裁を解除した。1992年10月、鄧小平が78年の来日時に提案した日本の天皇(平成天皇)の訪中が初めて実現し、天皇は「両国の関係の永きにわたる歴史において、わが国が中国国民に対して多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と語った。<高原明生・前田宏子『開発主義の時代』シリーズ中国近現代史⑤ 2014 岩波新書 p.104-105>

鄧小平路線の継承

 鄧小平は経済改革の実行者という面と保守的な人権抑圧の権力者という面を併せ持つ指導者であった。第2次天安門事件で中国の開放路線は一時停滞したが、鄧小平は後継者として実務派の江沢民を指名した。江沢民は改革開放路線を推し進め、イギリスと交渉して「一国二制度」による香港返還を約束させ、1990年代から現在に至る驚異的な経済成長をもたらした。
 鄧小平は1997年に死去したが、江沢民・胡錦涛・温家宝というその後継者たちは、鄧小平の二面性をそのまま継承した。そこで明確になったのが、社会主義体制を維持したまま、資本主義を導入するという、「社会主義市場経済」という大胆な変化をとげようというものであった。それは一面、ソ連の末期にゴルバチョフらがやろうとして失敗したように、共産党政権として困難が予想される挑戦であった。<矢吹晋『鄧小平』1993 講談社現代新書、天児慧『中華人民共和国史新版』2013 岩波新書などによるまとめ>
蛇足 鄧小平死後の21世紀の中国は、現在の習近平政権に見られるように社会主義市場経済の枠組みを超えた資本主義大国化が進む一方、反比例的に政治の強権化が強まり民主化が押さえ込まれているようだ。その矛盾を隠すように軍事力の増強による覇権の拡張へと向かっているとも感じられる。鄧小平の時のボタンの掛け違いが、やがて大きな混乱となって爆発するのではないか、中国の抱える香港との一国二制度や台湾との関係などが引き金になるのではないか、「大国」となった中国の今後に危惧が感じられる昨今である。<2021/1/1記>
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矢吹晋
『鄧小平』
講談社学術文庫

天児慧
『中華人民共和国史新版』
岩波新書

天児慧
『中国の歴史11 巨龍の胎動
毛沢東VS鄧小平』
講談社学術文庫 初刊2004 文庫化2021

厳家祺・高皋/辻康吾訳
『文化大革命十年史』下
2002 岩波新書

高原明生・前田宏子
『開発主義の時代へ』
シリーズ中国近現代史⑤
2014 岩波新書