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ソ連のアフガニスタン侵攻

1979年、ソ連のブレジネフ政権が、親ソ政権を支援し、イスラーム原理主義ゲリラを抑えるために侵攻した。反発した西側諸国の多くはモスクワ=オリンピックをボイコットした。経済の停滞するソ連でも大きな問題となり、ソ連崩壊の一因となった。

 1979年12月、ソ連のブレジネフ政権が社会主義を掲げる親ソ派政権を支援するためにアフガニスタンにソ連軍を侵攻させたこと。ソ連軍に対しイスラーム原理主義系のゲリラ組織は激しく抵抗、ソ連軍の駐留は10年に及んで泥沼化し、失敗した。
 ソ連のアフガニスタン侵攻にアメリカなど西側諸国が反発し、70年代の緊張緩和(デタント)が終わって新冷戦といわれる対立に戻った。これを機にソ連の権威が大きく揺らいで、ソ連崩壊の基点となった。 → アフガニスタン撤退

侵攻の理由

 当時はその理由は明確にはされず、諸説あったが、現在では次の2点とされる。
  • 共産政権の維持。アフガニスタンのアミン軍事政権が独裁化し、ソ連系の共産主義者排除を図ったことへの危機感をもった。ソ連が直接介入に踏み切った口実は、1978年に締結した両国の善隣友好条約であり、またかつてチェコ事件(1968年)に介入したときに打ち出したブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)であった。
  • イスラーム民族運動の抑圧。同年、隣国イランでイラン革命が勃発、イスラーム民族運動が活発になっており、イスラーム政権が成立すると、他のソ連邦内のイスラーム系諸民族にソ連からの離脱運動が強まる恐れがあった。

影響

 アメリカ(カーター大統領)は、ソ連の武力侵攻を批判し、経済制裁を発動するとともにアフガニスタンの反政府勢力に武器を提供した。またアメリカは、西側諸国に対し1980年のモスクワ=オリンピックのボイコットを呼びかけ、西欧諸国、日本などが同調した。第2次戦略兵器制限交渉(SALT・Ⅱ)は調印されていたが、アメリカ議会が批准を否決し、実施されなかった。次のレーガン政権はソ連を「悪の帝国」と述べて対決路線を復活させ、SDI構想を発表、米ソは「新冷戦」期に入った。

アフガニスタン内戦

 1979年12月、ソ連軍10万の大部隊がアフガニスタンに侵攻した。当初は隣接する中央アジアのソヴィエト連邦構成国であるトルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタンなどが主力として投入された。大義名分は共産主義政権を守ることであったが、その戦う相手は民族的にも近く、またソ連兵のなかにもイスラーム教徒が多かったから、初めから戦闘意欲は強くなく、次々とゲリラ側に寝返った。そのため1982年ごろからはロシア兵が直接投入されるようになった。
 アフガニスタン民衆はゲリラ戦で抵抗、政府およびソ連軍は点と線だけの支配しかできなかった。ゲリラ兵は「ムジャヘディン(聖戦士)」と呼ばれ、当初は政府=ソ連軍の武器を奪って戦った。1984年にアメリカ議会が武器援助法を可決してから、アメリカ製の武器が反政府ゲリラ側に支給されるようになった。アメリカはアフガニスタンではイスラーム教徒ゲリラに武器を与え、ソ連軍と戦わせた。やがてその中から反米に走るイスラーム過激派が成長するという皮肉な結果になっていく。
難民発生とアメリカによるゲリラ支援 この内戦中にアフガニスタンの全農村の約半分が廃墟と化し、200万人ちかくが死亡したと見られている。全土で600万人、北西辺境州(パキスタン隣接地域)だけで270万人にのぼる難民が発生した。
(引用)いっぽう、米国の対応――ゲリラ党派への軍事援助を心から喜んでいる住民もいないだろう。ソ連の国力を消耗させるために、アフガン住民を「生かさず殺さず」戦争を継続させる戦略は誰の目にも明らかだった。ペシャワール郊外には「ゲリラの訓練所」が設けられ、中国から大量に買いつけられた武器が続々と搬入された。のちには地対空ミサイル「スティンガー」が供与され、犠牲をさらに拡大した。だが米国は「アングレーズ(米英)」を宿敵とする根強い住民感情を承知しつつ武器援助をしたはずである。当然、分離統治の原則が貫かれた。<中村哲『アフガニスタンの診療所から』ちくま文庫 p.89-90>
 アフガニスタンの現地で医療活動を続けていた中村哲医師は、200万人もの死者と多数の難民を出したこの状況は「あまりに遠い日本には、ついにこの状況は伝えられることがなかった。ベトナム反戦でわいた日本の平和勢力も「アフガニスタン」については一般に無関心だった」と述懐している。それはソ連による情報統制だけのせいではない。ゲリラ勢力の勇壮な姿のみが大きく伝えられ「情報」が「売れる商品」と仕立てられる風潮があった、と指摘している。
1979年の意味 アフガニスタンに侵攻したソ連は、国際的な非難を浴びただけでなく、現地の激しい抵抗を受け、手詰まりとなり解決に苦慮することになる。内政・外交に渡るソ連体制の硬直化が明らかとなり、80年代後半に改革が必須となる中でゴルバチョフが登場し、結局はソ連の解体につながっていく。しかも、ソ連軍に抵抗するゲリラ組織から,イスラーム原理主義集団ターリバーンが生まれ、後のアルカーイダなどイスラーム過激派のテロが世界を動かすこととなっていく。この年のイラン革命、中国の鄧小平の改革開放政策、イギリスのサッチャーによる新自由主義の導入と並んで、1979年はあるひとつの時代が終わったことを示す転換点となったと言える。

Episode ブレジネフは知らなかったアフガニスタン侵攻決定

 1979年12月のソ連のアフガニスタン侵攻決定は、その後のソ連の運命を決したことだけでなく、イスラーム原理主義運動の世界的な活動の基点となった点でも、重大な決定であったが、その時点ではことの重大さは認識されていなかったようだ。ソ連の介入決定は12月12日の政治局会議でなされたが、そのときすでにブレジネフは病気がちでアフガニスタンで何が起きているか知らず、まかせっきりであった。実質は5名で決定された。短期介入を主張したのは、アンドロポフKGB議長であり、軍のウスチノフ、グロムイコ外相が支持し、決定された。しかし短期解決の見込みはもろくも崩れ、以後10年にわたる泥沼の戦いとなり、結局ソ連の命取りとなったのだった。ゴルバチョフはこの時はまだ政治局員ではなかったので決定には関わっていなかった。<下斗米伸夫『ソ連=党が所有した国家』2002 講談社選書メチエ p.199 による>

ソ連のアフガニスタン撤退

1988年にゴルバチョフ政権が決定し、89年までに完了した。

ソ連軍の撤退

 1979年のアフガニスタン侵攻以来、アフガニスタンの事態の収拾に失敗、長期化した駐留は当初の予測を裏切って10年に及び、その間、イスラーム勢力の激しい抵抗を受けると共に、国内の経済情勢の悪化をもたらした。
 ソ連経済を圧迫し、またイスラーム原理主義ゲリラとの戦闘は犠牲者を増加させていった。ソ連兵の死者1万5000人、負傷4万人以上とされるが正確には不明である。ゲリラ側の死者は約60万と推定されている。
 1985年に登場したゴルバチョフ政権は、新思考外交に転換し、膠着した状況を打開することにつとめ、アフガニスタンの人民民主党カルマル議長を退陣させ、ナジブッラーを新たに政権に据えた。1986年にはゴルバチョフはウラジヴォストークで演説して、アフガンからの8000名の兵力撤退を表明した。ついで1988年に国連の仲介でジュネーヴ和平協定の合意を得て完全撤退を決定し、5月から撤退を開始し、翌89年までに全部隊の撤退を完了させた。

アフガニスタン侵攻のもたらしたこと

 ソ連のアフガニスタン侵攻とその失敗は1991年のソ連が崩壊もたらしたのみならず、イスラーム原理主義を精神的支柱にした新しい民族主義が台頭し、9・11同時多発テロにつながることとなった。またアメリカにとっても、アメリカが援助した武器で武装したイスラーム反ソ勢力が、湾岸戦争後はその武器で反米闘争を展開することになるのはアメリカにとって皮肉な結果であった。このように、ソ連のアフガニスタン侵攻は、1990年代以降の現代史に向けての重要な転換点であった。
 しかしアフガニスタンにおいては、ソ連軍の撤退は平和をもたらすことはなく、無秩序状態が深刻化して、部族対立が激化、パキスタン、イランなどの介入もあってアフガニスタン内戦が深刻化していった。その中でイスラーム原理主義のターリバーンが急速に台頭し権力を掌握することとなる。 → 現在のアフガニスタン

Episode アフガニスタンでのソ連軍敗北の一因

(引用)山岳地帯を拠点とするゲリラを掃討するために、ソ連軍は大量のヘリコプターを送り込み、その数は1000機近くにも達した。しかしこのヘリコプターによる大規模空爆にも弱点があった。標高5000mを超える山々が連なるアフガンでは、主要都市の標高も高く、カーブルでは1800mもある。このため地上からの攻撃を避けるには3000m以上の高度を飛行したいところだったが、空気密度の関係でヘリコプターは低空飛行を余儀なくされた。またアフガンの気候は一年の大半が乾期で、特有の砂嵐がヘリコプターの操縦を難しくしたり、計器類の故障をもたらしたりした。ソ連の最新鋭ヘリコプターを持ち込んでも、アフガンの空を完全に自由にすることはできなかったことになる。その一方で、戦闘の中盤からは、中東諸国や西側諸国からゲリラに対する武器援助が拡大し、射程距離の長い機関砲やミサイルが導入されることになった。なかでもヘリコプターや航空機がエンジンから発する熱を追尾する米国製スティンガー・ミサイルをゲリラが入手したことで、ヘリコプターが相次いで撃墜され始めた。ゲリラに渡ったミサイルは、ソ連軍にとって大きな脅威となり、ソ連軍によるアフガンの空の支配が崩れ始めたのである。<渡辺光一『アフガニスタン』 2003 岩波新書 p.123-4>

アフガニスタン難民のその後

 1988年の「和平協定」成立、ソ連軍のアフガニスタンからの撤退開始は、平和と同時に難民の帰還を実現させるであろうと大いに期待された。難民キャンプをかかえるパキスタンのペシャワールにも世界中からジャーナリストが集まった。しかし平和と難民帰還は完全な錯覚だった。
(引用)難民帰還計画はあまりに性急であった。実効よりは予算消化が急がれた。国家の再建は元来UNDP(国連開発計画)の仕事であるが、「正式な交渉相手がいない」と見なされる中、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の手でいわゆるクロスボーダー・オペレーション(越境活動)が奨励され、欧米のNGO(非政府協力団体)が殺到した。ソ連軍撤退以前に40をこえなかった難民援助団体は、1989年には200団体に上り、復興援助ラッシュが始まった。例によって、大金と人材とたくみな机上論を手にしてのりこんできた口達者な連中が、はばをきかせはじめた。人びとははぶりのよい機関にむらがり、山師的なプランが横行し、民心の荒廃に貢献した。<中村哲『アフガニスタンの診療所から』ちくま文庫 p.114>
 このような「援助」のまやかしを見抜いた現地の難民は、西欧系支援団体に疑惑の目を向け、動かなかった。1989年2月にソ連軍の撤退は完了したが、世界の目はルーマニア政変などの東欧革命ドイツ統一ソ連の解体へと移り、アフガニスタンと難民は再び忘れられた。
 その間、ペシャワールでは難民とパキスタン人の間に亀裂が生じ始め、世界的にもムハンマドを揶揄した『悪魔の詩』出版に対するイスラーム教徒の反応を異常なものと捉えて恐怖心が高まっていた。1990年に4月26日にはペシャワール市内で暴動が発生、アフガン難民1万人がイギリス系NGOを襲撃し略奪した。このNGOは女性解放プロジェクトを掲げていたので他の欧米NGOはイスラーム教徒を非文明であると一斉に反発、各地でも衝突が起こった。「女性解放」は西欧社会では理解されるテーマであったが、イスラーム社会ではそれを強制されることは「文化侵略」であると受けとられた。アフガン難民救済から撤退を始めた団体が続出したが、とどめを刺したのが1991年の湾岸戦争勃発であった。ユニセフ、UNHCR、UNOCA(国連アフガニスタン救援委員会)などのペシャワール事務所が次々と閉鎖された。
 ようやくペシャワールのアフガニスタン難民が帰還を開始したのは、1992年4月の首都カブールの政変(親ソ派政府が倒れ、ゲリラ勢力による暫定政権が樹立された。国名もアフガニスタン=イスラーム共和国に改められた)を受けて、パキスタン政府が18ヶ月以内の帰還勧告を行い補助金3000ルピー(約1万5千円)を難民証と引き替えに支給すると発表、難民は一斉に帰還を開始していった。アフガニスタン内部でも戦闘を停止する動きが出て、帰還は順調に進んだ。<中村哲『同上書』p.12,111,126,128,132,170>
※この後、難民の中で育った世代からタリバーンなどイスラーム原理主義が台頭し、政権を握ることとなる。 → アフガニスタン内戦参照。

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書籍案内

下斗米伸夫
『ソ連=党が所有した国家』
2002 講談社選書メチエ

渡辺光一
『アフガニスタン-戦乱の現代史』
2003 岩波新書

中村哲
『アフガニスタンの診療所から』
2005 ちくま文庫