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華国鋒

1976年、中華人民共和国の総理代行として毛沢東死後に四人組を逮捕。77年に文革終了を宣言した。鄧小平との権力闘争に敗れ、80年には失脚した。

 1976年、中国共産党の華国鋒は周恩来の死去を受けて中華人民共和国総理代行に就任。彼は副総理兼公安部長であったが当時の党内序列は13位で中央の活動歴も少なく、意外な人事と受け止められた。総理代行に就任した華国鋒は、当初、鄧小平の経済政策を修正主義、走資派としてそれへの批判を強めることを表明し、文化大革命の継承を主張する四人組寄りの姿勢を明確にした。

毛沢東の遺言

 しかし9月に毛沢東が死去すると、四人組の政権奪取を警戒して江青らを逮捕、華国鋒みずから党・行政・軍の三権を独占した。彼の権力の根拠は、毛沢東が生前、「あなたがやれば私は安心だ」と「遺言」したというだけであった。従って毛沢東の忠実な実践者でなければならず、①毛主席の行った決定を全て変えてはいけない。②毛主席の指示は全て従う、という「二つのすべて」と呼ばれる方針を提起した。このように華国鋒は「文革」の継承を強調しなければならなかったが、他方長期にわたる経済の停滞、疲弊は深刻化しており、経済再建にも取り組まなければならず、「文革路線の継承と「四つの現代化」建設の提唱を同時に掲げるジレンマに陥ることとなる。

文化大革命の終了と失脚

 次第に経済政策に軸足を移し、ついに77年には鄧小平の復権と四人組の追放を決定、文化大革命の終了を宣言するに至った。その後、急速に鄧小平の影響力が増し、華国鋒は性急な経済政策の失敗と1979年2月日中越戦争の「失政」などが問題にされ、1980年8月、国務院総理を解任された。代わって趙紫陽がこのポストに就いた。
 翌1981年6月27日、共産党中央は「歴史決議」で文化大革命を誤りと総括するとともに、華国鋒は文革、毛主席との関係から批判され、正式に党主席、党中央軍事委員会主席の座から降ろされ、党主席には胡耀邦が、軍事委員会主席に鄧小平自らが就任した。<天児慧『中華人民共和国史』1999 岩波新書 などによる>
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