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江青

毛沢東夫人。文化大革命で四人組の一人として政治の実権を握る。毛沢東死後、1976年に逮捕され、死刑を求刑された後自殺した。

江青

公開裁判での江青

 江青(李雲鶴 1913-1991)は1930年代には藍蘋(ランピン)という芸名の上海の映画スターであった。1934年にイプセンの『ノラ』を主演したことで一躍有名になった。革命運動に関わり1933年に共産党入党、1937年秋に延安に行って38年に毛沢東と結婚し、江青と名を変えた。その間の経歴はあまり知られていないが、相当スキャンダラスだったらしく、文化大革命中にその素性を知っている映画人が多数迫害され、口を封じられたという。1966年6月、上海の宣伝部門の実力者張春橋を通して、かつて江青と共演した俳優や、演出家からブロマイドやパンフレット、手紙類を強制的に没収し、30年代の上海での自分の不名誉な歴史を抹殺しようとした。
毛沢東夫人となる 江青が延安の毛沢東の前に姿を現した1937年、毛沢東には賀子珍という妻がいたが、その関係は急速に冷めていった。そして1938年に20歳の差があった二人は結婚したが、当時の共産党中央政治局は江青がかつて国民党統治下の上海で女優として活動していた(蔣介石のパーティにも出席していたという)ことは公然と知られていたので、毛沢東夫人の名で公式の場に出席しないこと、および政治には関与しないことを条件にその結婚に同意した。
 中華人民共和国建国後、江青は中央宣伝部に所属して文芸所副所長となり、特に映画事業の指導的な立場に立つことになった。そのことから、いわば中国共産党の国策映画に関わり、文学や演劇にも専門家として発言するようになった。これが後の『海瑞免官』批判への伏線となる。1960年代後半になると、江青は毛沢東夫人という立場を利用して、急速に政治に介入するようになったが、そのきっかけも彼女が映画界出身の指導委員として文化政策に関わり、京劇改革に乗りだし『奇襲白虎隊』『紅色娘子軍』『白毛女』などの革命模範劇の改編や演出を手がけていった。

文化大革命を推進

 1966年、毛沢東の司令でプロレタリア文化大革命が始まったが、その前年の文革のきっかけとなった姚文元による呉晗の歴史劇『海瑞免官』に対する批判は、もともと江青が毛沢東に吹き込んだものであった。
 文化大革命が始まると江青は中国共産党中央文革小組の第一副長となり、沸き起こった紅衛兵の活動を強く支持し、まず北京大学に現れ「私は同志諸君の革命的情熱を毛主席に必ず伝えます!」と語った。その後も何度も開かれた天安門での紅衛兵の大集会では、演説する毛沢東の傍らに、パリッとした軍服を身につけ、頭を上げ、胸を張ってしきりに動き回り、その姿はテレビを通じて全国民の注目を浴びるようになった。
 毛沢東は、文化大革命の矛先が劉少奇・鄧小平らからの奪権闘争であることを次第に明確にして行き、彼らを実権派・走資派として厳しく追及した。特に国家主席・党副主席である劉少奇を陥れるために、特別捜査組であらゆる脅迫・恐喝を駆使して証拠をでっちあげ、ついに「裏切り者、敵の回し者」として永久追放(68年10月)するという最大の冤罪事件を主導したのが江青だった。

林彪事件

 劉少奇・鄧小平を失脚させることに成功した毛沢東の周辺には、1969年4月、毛沢東個人崇拝を推進してきた林彪が後継者として指名され、江青は政治局員となり、権力も大きなものになった。それは毛沢東夫人であるという立場とともに、張春橋、姚文元、王洪文など、江青と関係の深い上海を拠点としたグループに支えられていた。特に1971年9月林彪事件で林彪が失墜すると他の仲間と権力の奪取を謀り、権力の中枢を占めた。彼らは共産党内で四人組と言われるようになり、江青はその中心にあったのでついには女帝とまで言われるようになった。毛沢東自身は「彼女も上海グループだ。四人の小派閥を作ってはならない」とか、「彼女は私を代表してなどいない。彼女は自分自身を代表しているのだ」などと述べている。

Episoce 女帝の不安

 林彪事件の後、江青は毛沢東の庇護を維持するため、残る実力者の周恩来をなんとか葬ろうとして、1974年1月批林批孔運動が開始された。そのために周恩来が進める学校教育正常化に反対して、かつての紅衛兵運動を再現させようとした。誰も表だって江青を批判することが出来ない状況が続いた。
(引用)だが江青は下心を抱いていたので、自分の前途も予測はできないと感じていた。この頃、毛沢東は江青と別居して何年にもなり、毛はほとんどの時間を49歳年下の張玉鳳と過ごしていた。張玉鳳はかつて毛沢東の専用列車で乗務員をしていたが、1962年秋、あるダンスパーティで毛沢東と知りあい、70年に中南海に来て毛のそばで仕事をするようになった。江青や中央の指導者が毛に会うには、彼女を通さなければならなかった。73年10月、江青は毛沢東に会って、いくらかのお金を要求した。毛は「みんな私はもうだめだと思っている。自分のために後の準備をしているのだ」と答えた。江青は、張玉鳳が持ってきた、毛が江青に与えることを許可した三万元の預金を受けとって、「張さん、この額では私には足りないわ。私はあなたとは違うのよ。将来殺されたり投獄されたりするのにそなえなくちゃ。それは怖くないんだけど。生かさず殺さず飼われるかもしれないわ。これはちょっとしんどいわね」と言った。もちろん、江青がより関心をもっていたのは、最高権力を奪取するという彼女の一派の勝利と、自分自身が女帝の玉座という権威を得ることであった。このため、彼らは破滅への軌道に乗って進むことしかできなかったのである。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』下 1996 岩波書店初版 p.81>

批林批孔運動

 江青など四人組の権力掌握を阻止するように、周恩来は内政、外交の実務を取り仕切り、アメリカや日本との関係回復などを推進し、権威を高めていった。また毛沢東も中ソ対立の深刻化に対応して中国経済の自立の必要を意識し、1973年には鄧小平を復活させ、実務にあたらせるようになった。このような周恩来・鄧小平らの実務派は、江青と四人組にとって、文化大革命の推進という自分たちの立場が脅かされることになるので、鋭く対立するようになった。江青が周恩来批判に持ち出したのが、中国古代の思想家孔子になぞらえて、封建思想の持ち主として、林彪とともに批判するという批林批孔であった。張春橋など四人組メンバーは党の宣伝部門を押さえていたので、さかんに林彪批判・孔子批判を繰り返したが、その矛先は周恩来・鄧小平に置かれていた。

Episoce カタツムリ事件

 1973年、鄧小平が進めようとしていた近代的科学技術の導入に反対だった江青が「カタツムリ事件」といわれる一つの事件を起こした。当時、中国ではカラーテレビを自前で実現しようと研究していたが、うまくいかず、国務院はカラー・ブラウン管の生産ラインを輸入することにし、アメリカに調査視察団を送った。視察団を受け入れたアメリカのコーニング社はメンバー全員に自社が作った水晶のカタツムリの置物をプレゼントした。それを知った江青は「カタツムリのように歩みがのろいと言って我々を罵り、侮辱している」と難癖をつけ、カラー・ブラウン管を輸入しようとした国務院を「売国主義、洋奴(西洋の奴隷)哲学に侵されている」と罵った。周恩来は調査の結果、カタツムリはアメリカで幸福と吉祥を象徴するもので問題ないとしたが、この騒動の影響でカラー・ブラウン管の生産ライン導入が数年遅れることになった。<厳家祺・高皋・辻康吾訳『文化大革命十年史』下 1996 岩波書店初版 p.84/高原明生・前田宏子『開発主義の時代へ』シリーズ中国近現代史⑤ 2014 岩波新書 p.20-21>

Episoce 呂后・則天武后・江青

 四人組は江青を「傑出した女性政治家」であるとまつりあげ、中国の歴史上では漢の高祖(劉邦)の呂皇后、唐の則天武后と並ぶ人であり、皇帝となるに相応しいと宣伝した。江青も皇帝になることを夢見ていた。批林批孔が始まった1974年頃、江青は天津の服飾デザイナーに宮廷風ロングスカートを作らせ梅の花を刺繍したその衣装は他の誰にも作らせてはならないと命じたり、則天武后にならって国服を制定しようとワンピースをデザインさせ、全国の女性に着せようとした。しかし、庶民は鼻で笑ってそれは「江青ワンピース」と嘲笑した。また陝西省で発見されたという呂后の玉璽を、さっそくそれを見たいと言って北京まで取り寄せた。その他、江青が皇帝となろうとしたというエピソードはいくつもある。<厳家祺・高皋/辻康吾訳『文化大革命十年史』下 1996 岩波書店初版 p.94-98>

第一次天安門事件

 周恩来が死去すると、その死を悼む民衆の中から、自然に江青ら四人組の政権独占を危惧する声が起こり、それが四人組打倒の声となって盛り上がった。危機を迎えた江青は、この混乱の背景に鄧小平がいるとして毛沢東に働きかけ、毛はそれに動かされて1976年4月5日に天安門に集結した民衆に弾圧を加える天安門事件(第1次)が起こった。鄧小平は再び失脚し、四人組は権力を独占することとなった。しかし、共産党内部には文化大革命の混乱を収拾し、経済を再建しなければならず、そのためには社会主義革命の維持、階級闘争の維持を強く叫ぶ四人組を排除しなければならないという意識が生まれてきた。

四人組とともに逮捕される

 四人組を支持していた毛沢東が死去した1976年9月9日以降は、急速にその権威を落とした。後継を指名された華国鋒政権によって1976年10月四人組は逮捕された。華国鋒は文化大革命を否定していたのではなかったが、葉剣英や李先念と言った特に人民解放軍を基盤とした古参の幹部が、江青などの四人組が毛沢東の権威の下で専横なふるまいを続けていることにがまんがならず、チャンスを捕らえて華国鋒を動かした結果だった。

Episode 消された四人組

 1976年9月18日午後3時、北京の天安門広場で百万人が集まり毛沢東追悼大会が開催され、党第一副主席・国務院総理華国鋒が弔辞を述べた。江青は台上でアルゼンチンのペロン夫人をまねて黒服に黒いベールを被っていた。当時誰もが、江青がペロン夫人のように最高権力を継ぎたがっているということが自然に連想された。壇上には江青とともに四人組が並んでいた。ところが、江青ら四人組が後に逮捕されると、この公式写真から四人組の姿は消去された。今公開されている毛沢東追悼式典の写真には江青ら四人組の姿はない。<厳家祺・高皋『同上書』 p.219>

鄧小平時代

 その後、1977年に鄧小平が二度目の復活を遂げ、中国政府の姿勢を脱文革にもってゆき、文化大革命の終了を宣言した。そこではまだ文革は否定されたわけではなかったが、文革で失脚したり批判された人々の名誉回復が進められるとともに、文革の混乱の責任追及に焦点が移っていった。華国鋒に代わって実権を握った鄧小平は、1978年12月改革開放政策への歴史的転換を遂げていた。その前提は、文化大革命のイデオロギー路線は誤っていた、という認識であり、それへの決別を明らかにすることだった。

四人組裁判

 文革を推進して中国の責任追及でヤリ玉に挙げられたのが、毛沢東自身ではなく、その強い支持のもとで後継者となった林彪と、毛の身辺でその政治判断に強い影響力を持った江青ら四人組だった。こうして林彪・四人組裁判が開始され、林彪とその一派はすでに多くが死去していたので、江青ら四人組裁判が焦点となった。わけても江青に対する反文革派の怨恨が強かったため、最も厳しく追及されることになった。1980年11月、「林彪・江青反革命集団」裁判が行われ、江青は死刑(執行2年延期)、政治権利終身剥奪の判決を受けた。その裁判中も江青は、大声でわめきちらし、自分の無罪を主張した。83年に無期に減刑されたが、91年に自殺した。

Episoce 革命無罪! 造反有理!

 江青の裁判は公開で行われ、世界中にそのテレビ映像が流れた。世界中の人が注目したその判決は次のように行われた。
(引用)江青の裁判はドラマチックであった。外電の報道は「中国で最も人々に憎まれている女性。66歳の江青は黒色のマオ・ルックの上着、かけた眼鏡がテレビ撮影の照明でキラキラと輝いていた。彼女は厳格な女性教師のようであった。彼女は頭を上げ、胸を張って聴衆のなかを通り抜け、被告席に着き凶悪な形相で顎をあげてていた」と伝えていた。
 江青は被告席に着くと、判事の曽漢周がテーブルを叩いて厳しく「江青、お前は犯人で、被告だ。我々を恐れるべきだ」と言うと江青は最初ちょっと驚いたようだったが、すぐに言い返した。「なに?お前を恐れろと言うのか?」、……ふたりはこのように何回かやり取りし、「誰が誰を恐れるのか」と言い争った。そして江青は、ハハハと大笑いをして言った。「お前の隣にいる江華に聞いてみるといい、わたしが誰かを恐れたことを見たことがあるかを!」。江青の登場でひと騒ぎがあり、最後の判決を下すときにも騒ぎとなった。裁判長の江華が江青を脅すために「江青への判決、死刑!」と読み上げ、「死刑」と言ったところで休みを入れた。江青は続いて「革命無罪、造反有理!葉(剣英)鄧(小平)反革命集団を打倒せよ!」と叫びだした。江華はさらに執行猶予二年を申し渡した。<楊継繩/辻康吾他訳『文化大革命五十年』2019 岩波書店 p.102>

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書籍案内

厳家祺・高皋/辻康吾訳
『文化大革命十年史』下
2002 岩波新書

楊継繩/辻康吾編訳
『文化大革命五十年』
2019 岩波書店

高原明生・前田宏子
『開発主義の時代へ』
シリーズ中国近現代史⑤
2014 岩波新書