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ベルリンの壁の開放

1989年11月、東ドイツ政府が東の住民の西への出国を認め、ベルリンの壁は開放された。

ベルリンの壁開放
1989年11月9日 ベルリンの壁開放
 1989年11月9日東ドイツ政府が東ドイツ国民の西ドイツへの出国の自由を認めた。それを受けて多くの市民が東西ドイツ分断の象徴であったベルリンの壁に殺到し、ハンマーを振るい、今や無用となった壁は崩壊した。この年に連続して起こった東欧革命の最後をかざる大事件であり、この動きを受けて12月にアメリカのブッシュ(父)大統領とソ連のゴルバチョフ最高会議議長兼党書記長の米ソ首脳はマルタ会談冷戦の終結を宣言した。 → ドイツ(11)

壁崩壊の原動力

 それに先立つ1989年夏、東ドイツ市民が東ドイツ国境を越えて、周辺諸国のオーストリア・ハンガリー・チェコなどに大量に逃亡し始めていた。たとえば、プラハにある西ドイツ大使館に逃げ込んだ人は6000人に及んでいる。また同年2月からはじまったハンガリーの民主化によって、5月からオーストリアとの国境を開放したため、多くの東ドイツ国民がハンガリーを経由してオーストリアに逃れ、さらに西ドイツに向かった。ハンガリー・オーストリアを経て西ドイツへ脱出した人の数は数千人にのぼった。時を同じくして、東ドイツのライプツィチヒなどの大都市で大規模デモが発生した。「われわれが国民だ!」、つまり国の政策を決めるのはわれわれだ、という叫びがスローガンとなった。
 11月4・5両日には、東ベルリンで東ドイツ史上最大のデモが発生、11月6日、ライプツィヒで行われた月曜デモにはほぼ50万人が参加した。この大衆行動に押されて東ドイツ当局は混乱し、ホネカー第一書記は辞任した。代わった指導部(クレンツ書記長)が旅行の自由に関する新しい規定を発表したため、1989年11月9日、ベルリンの国境付近に膨大な数の人が殺到し、ついに壁が開放された。
 このような大量の東からの流入は、西ドイツの経済にとって大きな負担となったが、それを押しとどめることはできなかった。東西ドイツの当局がそれぞれに統一を真剣に考えなければならない状況を作り出したのは、民衆の動きだったといえる。翌1990年10月3日に実現したドイツ統一は上からの統一ではなく、民衆みずからが成し遂げたことであったといえる。同時それは民衆レベルでもさまざま新たな問題の始まりでもあった。 → ドイツ(12)
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