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ドイツ民主共和国/東ドイツ

第二次世界大戦後分割占領されたドイツのソ連占領地域に、1949年10月に成立した国家。社会主義統一党が権力を握り、ソ連の衛星国家となるが、経済停滞が続く。

民主主義ブロックによる選挙

 第二次世界大戦後のドイツの東西分断が固定化されるに伴い、ソ連占領地域でもドイツ人の自主的政党が結成された。そのうちソ連と特別の関係があったのが共産党と社会民主党が合同した社会主義統一党であった。当初はその他の政党も存在し、人民議会は選挙で議員を選出することになったが、政党はあらかじめ「民主主義ブロック」に加盟させられ、候補者はブロック内で一定比率で割り振られており、有権者は候補者リストに賛否を投じるという選挙法であったので、民意が反映するものではなく、官制政党にとって必ず有利になるやりかたであった。当時、東ヨーロッパの人民民主主義国家では共通してこのような選挙法がとられ、形の上だけの「民主主義」にすぎなかった。

ドイツ民主共和国

 東西冷戦が進行する中、1949年5月、西側にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立すると、東側では1949年10月、人民議会が「ドイツ共和国憲法」を制定、ピーク(社会主義統一党委員長)を大統領、グローテヴォール(同副委員長)を首相に選出し、ドイツ民主共和国(東ドイツ)を建国した。憲法でも政党ブロック・リスト方式によって議員選出する人民議会を最高機関とする人民民主主義国家となった。ドイツ民主共和国(東ドイツ)は以後、社会主義統一党が体制政党となり、ウルブリヒトが50年から総書記、53年から第一書記、60年から国家評議会議長として実権をふるった。この間社会主義化を推進したが、53年のベルリン暴動のように早くからその体制矛盾は深刻なものがあり、経済停滞が続いた。1955年にはワルシャワ条約機構が成立すると翌年正式加盟し、国際政治上も西ドイツと厳しく対立を続ける。

ベルリンの壁の建設から開放まで

 1950年代の東ドイツでは、ソ連を範とした社会主義国家建設が進められ、工業での重工業化と農業の集団化が強行された。しかし、社会主義経済の運営は硬直化し、農民の中には集団化に対する反発が根強かった。一方、西ドイツはマーシャル=プランによるアメリカ資本の援助を受けて経済を復興させ、次第に豊かな生活レベルを取り戻してきた。当時はまだ東西ベルリンの行き来は自由であったから、東ベルリンの市民は西ベルリン市民の豊かさを直接感じることができ、東側の経済停滞、貧困、集団化の強制に不満を強め、多くの市民が西ベルリンを通じて西ドイツに密出国していった。それは東ドイツにとって労働力の流出という深刻な問題をもたらすことになるので、1961年には東ベルリン市民の西ベルリンへの流出を防ぐため、境界にベルリンの壁を建設した。
 このベルリンの壁は東西冷戦の象徴となった。1971年からはホネカーが第一書記として指導したが、経済政策に失敗し、1989年にベルリンの壁が開放され、東欧革命の中で東ドイツ社会主義体制も崩壊した。翌1990年10月3日のドイツの統一によってドイツ民主共和国(東ドイツ)は実質的に西ドイツに吸収されて消滅した。

東ドイツ

1949年10月成立のドイツ民主共和国のこと。首都はベルリン。

 1949年10月のドイツ民主共和国憲法によって成立したドイツ民主共和国を「東ドイツ」という。首都はベルリン。社会主義計画経済を基本とした人民民主主義国家で、ソ連の衛星国となり、東側陣営の中心勢力の一つであった。なお、戦前には「東ドイツ」は、オーデル・ナイセ川以東を言う地理的概念であったが、戦後はその地域はポーランドに事実上編入されたので、「東ドイツ」はエルベ川からオーデル・ナイセ川に至る、「ドイツ民主共和国」の支配する地域を指すようになった。 
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