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ベルリン暴動

1953年6月、冷戦時代の東ドイツの東ベルリンで、ソ連のスターリンの死をきっかけに自由を求めて起こった市民暴動。

 第二次世界大戦後、ベルリンも分割され、東西冷戦の下で、東西ベルリンはそれぞれ違った歩みを強いられた。西ベルリンは東ドイツの中で孤立する状態であったが、徐々に経済を復興させていったが、東ベルリンはドイツ民主共和国(東ドイツ)の首都として厳しく管理されていた。1948年にはソ連によるベルリン封鎖が行われたが、東ドイツ建国に伴って解除され、当時は東西ベルリンを距てる壁はなく、市民は自由に行き来できただけに、東の市民の中に不満が生じてきた。
 1953年3月、ソ連のスターリンが死ぬと、ドイツ民主共和国(東ドイツ)でもソ連の圧力が一時弱まる傾向が出てきた。しかし政府は5月に労働ノルマの10%引き上げを決定した。6月17日に東ベルリンのスターリン大通りで働いていた建設労働者がデモを行い政府の退陣を要求した。これをきっかけに東ドイツ全土で市民が蜂起、ソ連軍が出動し鎮圧した。およそ1400人が投獄され、約20人が処刑された。社会主義下の東ドイツで起こった最大の市民蜂起であったが、西側諸国はソ連との関係の悪化を恐れ、傍観するだけであった。しかし東ドイツの経済の行き詰まりがはっきりし始め、ソ連もドイツ政策に変更を加えざるを得なくなった。 → ベルリン問題
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