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オーストリア国家条約

1955年5月に、第二次世界大戦時の連合国がオーストリアの主権回復を認めた条約。ドイツとの併合は禁止された。

 第二次世界大戦の末期、ドイツ降伏に伴って1945年4月に解放されたオーストリアは、ドイツと同様に。アメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国による分割管理とされていた。またドイツと異なって、臨時政府の樹立は認められた。しかし、連合国との正式な講和と独立の承認は、東西冷戦が深刻になる中で協議は進まなかった。
 ようやくスターリンの死去後の1955年5月15日、連合国とオーストリアの間で、その独立を承認した条約が成立した。かつてナチスドイツによって併合されたオーストリア国家を回復する条約という意味で、「国家条約」という。

永世中立で合意成立

 独立承認に際し、ドイツとの合併の禁止、核兵器など特殊兵器の禁止、などとともに永世中立が定められた。オーストリアがドイツにように東西に分断されず、統一を維持して国家を回復できたのは、アメリカとソ連両国が、同国を永世中立国とすることで合意したからである。
1955年という年 第二次世界大戦終結から10年たったこの年、オーストリア国家条約の成立と同じ時期に、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が独立、NATO加盟を条件に再軍備が認められ、ソ連側はワルシャワ条約機構を発足させた。7月には戦後初めてジュネーヴ4巨頭会談が開催され、東西が相手の存在を認め合った上で平和共存を模索するという時代となった。日本では朝鮮戦争を梃子として戦後復興が進み、自民党と社会党の55年体制が成立、実質は自民党の長期政権の始まった年であった。

オーストリアにとっての国家条約

(引用)オーストリア全土で、期待のため、人々は大変な興奮を覚えた。17年にもわたる囚われの状態、荒廃、飢餓、占領の後に、自由はもはや絵空事ではなかった。モスクワからの代表団帰還は、まるで凱旋のようだった。こうして1955年5月15日という重大な日がやってきた。国家条約の調印式はベルヴェデーレ宮殿で行われ、外務大臣たち(ソ連のモロトフ、イギリスのマクミラン、アメリカのダレス、フランスのピネー、オーストリアのフィグル)がバルコニーに現れた。喜びに満ちたレオポ-ルド・フィグルは、真下の庭に集まった大勢の人々が一人一人、条約を人目でも見られるようにと、それを高くかざした。オーストリアは自由になった。長い苦闘は終わった。<リケット/青山孝徳訳『オーストリアの歴史』1995 成文社 p.164>
 その後、9月19日までにはすべての外国の兵士がオーストリアの領土を去った。10月25日には国民議会は全会一致で中立法を採択した。これはオーストリアがどの陣営、どの軍事同盟にも属さず、その領土に外国の軍事基地を置かないことを定めていた。

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リケット
青山孝徳訳
『オーストリアの歴史』
1995 成文社