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ドイツ


ドイツ(1) ドイツの成立

フランク王国が分裂してできた東フランクを起源とするドイツが成立。962年にオットー1世がローマ皇帝として戴冠。

 ドイツと言われる地域は本来、ヨーロッパの中央部のおよそライン川とエルベ川にはさまれた地域をさす。歴史上はゲルマン人の居住地として始まり、一時はローマ帝国の勢力もこの地に及び、ゲルマニアと言われた。AD9年、アウグストゥスの派遣したローマ軍がトイトブルクの戦いでゲルマン軍に敗北したため、ローマはこの地を支配することは出来なかった。ローマ帝国時代のゲルマニアに関してはローマの歴史家タキトゥスの『ゲルマニア』に記録されている。
 ローマ帝国が衰退した後、ゲルマン人の一部族でライン川流域にいたフランク人が有力となってのクローヴィスが部族を統一してメロヴィング朝を開き、さらに8世紀後半にはカロリング朝のフランク王国が現在のフランスとドイツ及び北イタリアを併せた地域を支配するようになった。カール大帝は現在のドイツの西端のアーヘンに宮廷を置いた。

東フランクからドイツへ

 フランク王国はゲルマン人社会の分割相続の原則にもとづき、843年ヴェルダン条約870年メルセン条約で三つに分裂、そのうちの東フランク王国では、911年にカロリング朝の王家が断絶し、フランケン家コンラート1世が王位を継承(フランケン朝)した。このときはまだ正式な国号は「東フランク王国」であったが、その支配下にあったザクセン人、バイエルン人などフランク人以外の諸侯は西フランク(フランス)と一線を画しており、後世にこの911年を「ドイツ」国家の出発点とする見方が成立する。しかし、「ドイツ王国」という名称が一般化するのはかなり後の12世紀になってからのことである。
ザクセン朝 919年、コンラート1世が病死したとき、ザクセン族のハインリヒ1世が有力諸侯から選ばれて王位を継承しザクセン朝となった。ハインリヒ1世は国内の有力諸部族(バイエルンやシュヴァーベンなどの分国)と一定の妥協をしながら王権に組み込み、またマクデブルクなどの都市を建設してスラブ人地区に進出、さらにマジャール人などの異民族から国土を防衛することに成功し、実質的なドイツ国家が生まれる基礎をつくった。
オットー1世 しかし、936年アーヘン東フランク国王として即位したハインリヒ1世の子のオットー1世は、東方から侵入してきたウラル系のマジャール人955年レヒフェルトの戦いで撃退して、新たなローマ教会の保護者となり、962年オットーの戴冠でローマ皇帝の地位を得た。これが神聖ローマ帝国の起源とされているが、この国号が実際に使われるのは13世紀以降のことである。また、ドイツ王=神聖ローマ皇帝は、フランスやイギリスと違って、世襲制の王朝は生まれず、早くから選挙王制が行われていた。

参考 「ドイツ」という名称

 現在、私たちが何気なく「ドイツ」というのは、初めからひとつの国家を形成していたわけではなく、しかも「地名」(地域名)でもなかった。次の説明を参照のこと。
(引用)「ドイツ」や「ドイツ人」という言葉のもとになったのは、「民衆の」といった意味のラテン語の形容詞「テオディスクス」、また同じ意味で使われた「トイトニクス」(これが英語の「テュートン」の語源になる)である。こういった言葉がアルプスの北、つまりいまのドイツに住む人々と関連づけてまずはイタリアで使われ、それをドイツ人の祖先たちが、自分たちのことを指す言葉として受け入れた。それが10世紀の末頃である。そして11世紀になると、このラテン語に対応する「ディウティスク」という古いドイツ語も現れてくる。<坂井榮八郎『ドイツ史10講』岩波新書 p.28>
つまり、10世紀ごろは「ドイツ」という言葉はまだなかったが、東フランクの支配層の中には国王選挙などの共同作業を通じて、西フランクやイタリアとは異なる国家意識が生まれていたことは確かである。「ドイツ」というこ言葉ができる前に、のちに「ドイツ」と呼ばれることになる地域の政治的一体性が「分国からなる王国」という形でうまれていた。<坂井『同上書』p.29>

神聖ローマ皇帝とローマ教皇の対立

 神聖ローマ皇帝はローマで戴冠することから常にローマを意識し、イタリア政策に熱心であった。そのため、ドイツにおいては皇帝の存在は薄く、現地の封建領主による分権的な支配が行われていた。そこでオットー1世以来、神聖ローマ皇帝は帝国教会政策を採って聖職者の叙任権を握り、教会を通じてドイツを支配しようとした。それはやがて、ローマ教皇との間の叙任権闘争という中世ヨーロッパ史の主要な対立軸となっていく。1077年カノッサの屈辱は、ザ-リアー朝(ザリエル朝)の皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世に破門された事件である。

ドイツ(2) 神聖ローマ帝国

12~15世紀。神聖ローマ帝国の統治。分権化が進み、大空位時代を経てハプスブルク家の登場。

ドイツ人の東方植民

 12世紀になるとヨーロッパ全体でも三圃制農業の普及などによって農業生産力が向上し、人口が増加した。それを背景として十字軍運動に代表されるキリスト教世界の膨張運動が起きるが、ドイツ人による東方植民もその動きの一つであった。これはドイツ人がエルベ川を越えてスラヴ人の居住地域に入り込み、植民活動を展開したことであり、その結果、ドイツ人の居住範囲はバルト海沿岸の現在のポーランド一帯まで広がり、ポーランド王から自治を認められたドイツ人入植者は後のプロイセン国家の基になる国家を形成した。

シュタウフェン朝

 13世紀に神聖ローマ皇帝を世襲したシュタウフェン朝フリードリヒ1世(赤ひげ王)、フリードリヒ2世の時代が神聖ローマ帝国の全盛期で、彼らはイタリア政策に重点を置いて、婚姻によって南イタリアの両シチリア王国の王位も兼ねて当時のヨーロッパの最大の勢力となった。フリードリヒ2世はシチリアのパレルモに宮廷を置き、開明的な施策をした皇帝として知られるが、本国ドイツに対する統治は不十分であったため、ドイツでは諸侯や都市の自立傾向がさらに強まった。

大空位時代と金印勅書

 1256年にシュタウフェン朝が断絶、その後は皇帝位は事実上空位状態となり、大空位時代(~1273年)となった。その後神聖ローマ皇帝の選考は、1356年カール4世の出した金印勅書によって聖俗の7諸侯の選帝侯が固定された。これによってドイツの封建的分権体制は強化され、多数の領邦(ラント)による分権体制が続くこととなった。またこのころ、ヨーロッパの遠隔地貿易は活発となり、北ドイツの諸都市はハンザ同盟を結成してひろく海外に進出、またドイツ東南部の内陸では産出する銀をおさえたアウクスブルクのフッガー家が多くの富を蓄えた。これらの有力都市はそれぞれ帝国都市として自治を認められていたので、ドイツとしての国家的統一はさらに遠かった。

ハプスブルク家の支配

 ハプスブルク家はスイス出身の諸侯の一つであったが、1273年にルドルフ1世が初めて皇帝に選出され、1276年にベーメン王国オタカル2世と戦って勝ち、オーストリアを領有してから急速に有力となった。その後一時低迷し、1356年金印勅書では選帝侯とされなかったが、1438年のアルブレヒト2世以来、連続して選出されるようになり、事実上のハプスブルク朝となった。15~16世紀、マクシミリアン1世(ネーデルラント獲得)、フェリペ1世(スペイン、ナポリ、シチリア、サルデーニャなど獲得)は婚姻政策を展開してハプスブルク家の所領を拡大した(ただし、神聖ローマ帝国の範囲はドイツの範囲を出ていない)。このようなハプスブルク家の強大化に対して、それにはさまれるような形となったフランスのヴァロワ朝は強い危機感を持ち、特にイタリア方面への進出をめざして、15世紀末から両家はイタリア戦争に突入する。この戦争は、火器の使用が主力となる軍事革命をもたらすとともに、ヨーロッパ諸国の主権国家への転換を促すこととなった。

ドイツ(3) 宗教改革と宗教戦争の時代

16~17世紀。1517年、ルターによる宗教改革が開始され、その後ドイツは旧教・新教に分かれて激しく対立し、三十年戦争を頂点とする宗教戦争の時代に突入する。その過程で神聖ローマ帝国は事実上解体し、プロイセンとオーストリアの二大領邦が生まれる。

宗教改革の時代

 1519年には選帝侯の選挙の結果ハプスブルク家のカール5世が継承、彼はドイツ王とスペイン王を兼ね、その他に広大な所領をもち、またおりから始まったスペインの新大陸進出の結果得られた広大な植民地を所有するここととなった。それに対してフランス王ヴァロワ朝のフランソワ1世は強く反発し、ローマ教皇やオスマン帝国とも結んでカール5世に対抗しようとした。
 しかし16世紀のドイツは大きな転換期を迎えていた。それは1517年ルター宗教改革の烽火を上げたことである。また1529年には東方からはオスマン帝国のスレイマン1世がハプスブルク家の本拠オーストリアのウィーンを包囲(第1次)するという危機でもあった。ルターの宗教改革に対してカール5世はそれを弾圧したが、諸侯の中には積極的に支援するものも現れ、新旧両派の諸侯の争いは1546年からシュマルカルデン戦争という宗教戦争に転化した。また封建的な負担に苦しむ農民は封建領主でもあった教会に対しての反発を一気に吹き出させ、ドイツ農民戦争となった。1555年アウクスブルクの和議が成立し、領主の新教(ルター派プロテスタント)信仰は認められたが、「領主の宗教その地に行われる」ものであって農民の信仰の自由は認められなかった。しかし、ドイツでは、ルターが聖書のドイツ語訳を行い、聖書が印刷技術の発達もあったことから広く読まれるようになり、プロテスタントの信仰が浸透していった。

三十年戦争

 ヨーロッパ全体で「17世紀の危機」と言われた時期、ドイツでは三十年戦争1618年(~1648)に始まった。これは皇帝領のベーメン(現在のチェコ)での新教徒の反乱(ベーメンの反乱)から始まって、新旧両派の内戦となり、それに対してデンマークとスウェーデンという新教国の君主が新教側支援、スペインは旧教側支援で参戦した。フランスのブルボン朝はカトリックの立場であるが、対立するハプスブルク家の弱体化を狙って、反ハプスブルクの新教側についた。こうしてドイツにとどまらない国際的な戦争となったが、戦場となったドイツは荒廃し、経済も衰退した。ようやく1648年ウェストファリア条約が成立し講和となったが、それによってプロテスタントの信仰の自由が確認されただけでなく、ドイツの各領邦の主権が認められ、ハプスブルク家の皇帝権は著しく弱体化した。したがってこの条約は「神聖ローマ帝国の死亡診断書」と言われている。
ウェストファリア条約とドイツ 欧州国際体制を成立させたとも言われるウェストファリア条約はドイツにとってどのような意義があったか。まず第一に、神聖ローマ帝国を構成していた諸侯と帝国都市はそれぞれ領邦国家として外国との条約締結権も認められた。これによって神聖ローマ帝国は300余の大中小諸国の連合体であるという事が確認された。ドイツの国民国家としての統合はさらに遅れることになったが、連邦国家であることは現在も継承されているとも言える。
 領土関係では、ヴェーザー川・エルベ川・オーダー川の河口はスウェーデンに抑えられ、ユトランド半島の付け根ホルシュタイン公国はデンマーク領となり、ライン川河口ではオランダの独立が承認されたので、ドイツは大きな河川を持ちながら、海への出口をすべて外国勢力に制せられるという事態となった。他方フランスは独仏間の係争地ロートリンゲンやエルザス地方に領土を得、ライン川に向かって領土拡大の橋頭堡を築いた。このようにドイツの置かれた状況は厳しくなった。<坂井榮八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.91>

プロイセンとオーストリア

 当時ヨーロッパでは、イギリス、フランスが主権国家体制を急速に強め、国家としての統一を強化していたが、ドイツは多数の領邦国家(ラント)に分裂してしまった。その領邦の中で、大きな力を持ったのが北東部のかつての東方植民によって生まれた国であるプロイセンと、依然としてハプスブルク家の支配するオーストリアであった。
 プロイセンは、13世紀のエルベ川以東に東方植民を進めたドイツ騎士団を起源とする国家で、農場領主制(グーツヘルシャフト)を経営するユンカーによって支えられていた。ドイツ騎士団長のホーエンツォレルン家は16世紀にプロテスタントに改宗してプロイセン公国となり、1618年ブランデンブルク選帝侯国(同じくホーエンツォレルン家)と同君連合(ブランデンブルク=プロイセン)となってホーエンツォレルン家を君主として仰ぐ絶対主義体制をつくっていった。
 一方オーストリアは、16世紀にはそれまで脅かされていたオスマン帝国に対して反撃し、1683年ウィーン包囲(第2次)を撃退し、1699年カルロヴィッツ条約でオスマン帝国からハンガリーなどを奪還、中部ヨーロッパの大国への足場を築いた。

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ドイツ(4) プロイセンの台頭とナポレオン戦争

18世紀。プロイセンの台頭、オーストリアとの戦争。フランス革命への干渉戦争、ナポレオン戦争が続く。ドイツは領邦国家分立が続くが、フランス革命の影響、ナポレオン軍の侵入とその衝撃によって、政治・社会の近代化とともに、統一国家・国民国家の形成の動きがでてきた。

プロイセンの台頭

 スペイン継承戦争でオーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝を支援した功績で1701年プロイセン王国に昇格、フリードリヒ=ウィルヘルム1世が軍国主義体制を採って強力な軍部増強をすすめた。次のフリードリヒ2世(大王)(在位1740~86年)のときには啓蒙専制君主として上からの改革を進め、ハプスブルク家のオーストリアとオーストリア継承戦争七年戦争の二度にわたって戦って、シュレジェンを獲得、ドイツ最強の国家となった。
 一方のオーストリアでは18世紀にはハプスブルク家の男系が絶え、マリア=テレジアが継承、それに介入したプロイセンなどとの間で1740年オーストリア継承戦争が始まり、敗れてシュレージェンを奪われ、ついで1756年から七年戦争を戦い、その回復を目指したが果たせなかった。次のヨーゼフ2世は農奴解放令など啓蒙専制君主として改革にあたったが不十分であった。
 プロイセン、オーストリアはロシアとともに1772年から三度にわたるポーランド分割に加わり、それぞれ領土を広げた。

ドイツの遅れとナポレオン戦争の衝撃

 こうしてドイツ民族の居住圏(ドイツ語文化圏)はプロイセン(その支配の中心地は現在のポーランド北部に当たる)とオーストリアという二大国を中心とし、他にバイエルンやザクセンなどの領邦国家に分裂するという状態が続いた。またその社会は特に東方辺境のプロイセンでは封建反動が進み、ユンカーという土地貴族が農奴を搾取するという再版農奴制が布かれ、国家的統一と市民社会の成立という近代国家の形成は大きく遅れていた。
 その間隣国のフランスではアンシャンレジームと言われた封建社会の矛盾が早くに進行し、1789年にフランス革命が勃発、一気に王政廃止・共和政実現に向かった。プロイセン国王フリードリヒ=ヴィルヘルム2世はオーストリアのレオポルト2世とともに1791年ピルニッツ宣言を出してフランス革命への干渉を表明、革命を逃れた亡命貴族(エミグレ)を受け入れた。翌年、フランス革命政府とオーストリア・プロイセン連合軍は開戦し、プロイセン軍はフランスに侵入した。しかし、1792年9月、ヴァルミーの戦いでフランス軍に敗れ後退した。反撃に転じたフランス軍はライン川を越えてドイツに侵入、占領地では主権在民・封建課税と特権の廃止などの社会変革を宣言、革命理念がドイツ内に持ち込まれることとなった。

ドイツ国民国家への機運

 フランス革命軍、それに続くナポレオンのヨーロッパ侵略は、ドイツ国家の統合への強力な外圧となった。当時ドイツは314の領邦国家が分立、他に1475もの帝国騎士領があるという権力分立状態であり、神聖ローマ帝国はすでに形骸化して「モザイク国家」状態だった。ナポレオンが征服地のドイツを強引に整理統合したことによってドイツの国民国家形成は大きく進むことになった。
 ナポレオン戦争が進む中、1803年、帝国代表者会議はナポレオンの同意のもとに112の領邦と41の帝国都市、すべての帝国騎士領を取り潰し、それらを中核領邦に統合する領地替えを発表した。その結果、バイエルン、ヴュルテンベルク、バーデンなどの南ドイツ諸邦は大幅に領土を拡大し、オーストリア・プロイセンの二大領邦に対抗する第三勢力を形成した。しかしこの改編には住民の意思は無関係であった。
神聖ローマ帝国の消滅 オーストリアがアウステルリッツの戦いで敗れた翌年、1806年7月、バイエルンなどの西南ドイツの16領邦は、ナポレオンを「後見人」としてライン同盟を結成した。この同盟諸国が神聖ローマ帝国からの離脱を宣言したことで、皇帝フランツ2世はついに退位を決意し、ここで9世紀にわたって存続した神聖ローマ帝国は消滅した。
ナポレオン支配下のドイツ 1806年10月、プロイセンはロシアと同盟してイエナの戦いで戦ったが大敗し、10月27日にナポレオンはプロイセンの首都ベルリンに入城、1806年11月にその地で大陸封鎖令を発した。さらに翌1807年7月のティルジット条約で、エルベ川以西はヴェストファーレン王国(ナポレオンの弟ジェロームが国王となった)、旧ポーランド領はワルシャワ大公国という、いずれもナポレオン直属の傀儡国家に組み込まれた。プロイセンは国土を半減させ、15万人ものフランス軍駐留を受け入れ、その撤退補償金として国庫収入の約3倍という金額を課せられた。一方のオーストリアも1809年のヴァグラムの戦いで敗れ、ザルツブルク、西ガリツィア、チロル地方を失い、プロイセンを上まわる賠償金を課せられた。

プロイセンの改革

 ナポレオンの支配によって、貴族の封建的特権の廃止、内閣制度などの官僚制政治体制、営業の自由、そして人権と自由という近代社会の理念がドイツに持ち込まれ、ドイツ社会には大きな衝撃となり、民族の統一と社会の改革は必須の課題となった。ナポレオンはドイツにおいて、国民国家形成の「触媒」の働きをしたと言うことができる。
 プロイセンでもナポレオン戦争での敗戦を機に、国内から国家機構の改革、社会の近代化を課題として掲げる動きが出てきた。哲学者として著名なフィヒテは、ベルリンでの講演で「ドイツ国民に告ぐ」と題してドイツ人の民族的自立と文化の再建を呼びかけ、ドイツの国民国家としての自覚を促した。また、1807年10月から、プロイセン国制改革といわれる一連の改革が、シュタインハルデンベルクによって進められた。改革は農民解放をはじめに、内閣制の確立、地方自治、営業の自由、関税の撤廃、国民軍の創設、教育改革など多岐にわたり、プロイセンの政治と社会・経済の近代化がかられ、ナポレオン没落後のウィーン体制下の1820年代初めまで続いた。 → ナショナリズム/民族主義  国民国家

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ドイツ(5) ウィーン体制下のドイツ・ドイツ帝国の成立

19世紀、ウィーン体制下のドイツ。自由主義、民族主義の運動起こる。1848年革命で統一が模索されたが失敗し、その後、プロイセンを中心とした統合が進む。

ドイツ連邦

 ウィーン会議の結果、1815年5月にドイツは35の領邦と4つの自由都市から構成されるドイツ連邦が成立し、それは同1815年6月のウィーン議定書によって確定してた。  ドイツ連邦はフランクフルトに連邦議会が置かれたが、オーストリアが議長国として固定され、プロイセンバイエルンなどの領邦代表が参加した。しかし各邦それぞれに君主と議会がある連邦国家であり国家連合といった性格が強かった。そのような中、ウィーン体制下における自由主義ナショナリズムの運動が、ドイツ各地でも盛んになり、それらはドイツでの国民国家の形成をめざす運動へと転化していった。
 しかしオーストリアのメッテルニヒをはじめとする保守派は、厳しくそれらの運動を弾圧した。1817年に起こったブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)に対しても1819年カールスバードの決議をドイツ諸邦で出して取り締まりを強化した。1830年にはフランスの七月革命の影響を受け、ドイツ各地で憲法制定を求めるドイツの反乱がおこったが、これらも弾圧され、ドイツの国民国家形成は進まなかった。

プロイセンの大国化と産業革命

 この間、プロイセンを中心に、経済の面からドイツ統一の動きを生み出されることになった。その最初が1834年ドイツ関税同盟であり、その結果、ドイツ連邦の中でその存在が次第に大きくなっていった。 1835年12月7日にはドイツ最初の鉄道がニュルンベルクからフュルトまで開通し、ドイツの鉄道は1840年代に急速に普及し、ドイツの産業革命の推進力となった。関税同盟を首唱した経済学者フリードリヒ=リストは、鉄道普及にも尽力した。

ドイツ統一問題の難航

 ウィーン体制のもとで抑圧されていた自由主義・民族主義の動きも、産業の発展にともなう市民層の成長に伴って、動きを活発にした。フランスの二月革命から始まった1848年革命と言われる革命気運が全ヨーロッパに波及、ドイツ連邦でもベルリンとウィーンで連続して三月革命が起こり、オーストリアではメッテルニヒは失脚、ウィーン体制が崩壊した。ただちにドイツでは選挙によって選ばれた代議員によって1848年5月、フランクフルト国民議会が開設され、ドイツ統一が討議された。
フランクフルト国民議会 しかし議会はプロイセン王国を中心とした小ドイツ主義か、オーストリア帝国を含む大ドイツ主義か、というドイツ統一問題で難航し、まとまらなかった。特にオーストリアは自らを除外する小ドイツ主義に反発したが、大ドイツ主義の場合でもハンガリーなどのドイツ人以外の支配下民族を含むかどうかで国論も分裂し、容易に結論を得ることができなかった。ようやく民族主義と議会制自由主義による統一国家の建設という理念でまとまり、オーストリアを含まないドイツ国家建設が結論となり、プロイセン国王を元首とする立憲国家とするドイツ憲法が作成されたが、肝心のプロイセン国王が、議会が制定した憲法を受け入れることで国王の絶対的権力が失われることを恐れてその承認を拒否したため、フランクフルト国民議会は解散せざるを得なくなり、ドイツ統一は実現しなかった。このころ、文学者であり言語学者であるグリム兄弟は、民話の中にドイツ国民意識の底流を見出そうと、民話の収集に努め『グリム童話』を刊行している。

ビスマルクの登場

 1862年ユンカー出身のビスマルクが首相に就任した。彼はプロイセン王国をドイツ統一の主役とすることに成功した。彼は軍備を増強して1864年デンマーク戦争をしかけて領土を拡張し、1866年普墺戦争ではオーストリアと対決してドイツ連邦を解体に導き、ドイツ統一の主導権を握り、1867年北ドイツ連邦を結成した。
 ビスマルクはさらにフランスを挑発して1870年普仏戦争でナポレオン3世のフランス軍を破り、アルザス・ロレーヌを獲得し、パリに入城しさらに1871年1月8日、ヴェルサイユ宮殿でヴィルヘルム2世の皇帝即位式を挙行してドイツ帝国を成立させた。

ドイツ帝国

 ビスマルクの国内政策は自己の基盤として地主階級であるユンカーの保護を優先し、カトリック勢力に対しては文化闘争を展開して国家統一を強め、産業革命の結果として登場してきた労働者や社会主義の勢力にたいしては社会主義者鎮圧法を制定する一方、社会政策を推進し、アメとムチと言われる両面でそれを抑えようとした。
 その外交政策は、ドイツ帝国の権威を高め、フランスの再興を抑えることを最大の目標としてその包囲網を作るというビスマルク外交を展開した。ロシア・オーストリアとの三帝同盟が1877年の露土戦争で崩れると、ビスマルクは1878年6月、ベルリン会議を主催して「公正なる仲介人」と称して調停にあたった。ロシアがドイツから離れる気配が出ると、1879年独墺同盟を結び、さらに1882年には三国同盟を結成した。一方ロシアとは1887年再保障条約を締結し、フランスへの接近を防止した。
 1888年、ヴィルヘルム1世が死去し、ヴィルヘルム2世が即位すると、社会主義者鎮圧法の廃止、独露再保障条約の廃棄など新たな方針を打ち出し、1890年3月にビスマルクが辞任(実質的な罷免)し、プロイセン時代から入れれば30年近く続いたビスマルク時代は終わり、ヴィルヘルム2世による「新航路」といわれる時期となった。
 ドイツはビスマルク時代の末期にアフリカに進出、トーゴランド、カメルーン、タンザニアナミビアなど広大な植民地を獲得していた。

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ドイツ(6) 第一次世界大戦

ヴィルヘルム2世の世界政策は、イギリスとの帝国主義と対立、さらにオーストリアとの同盟関係からバルカンでのロシアと対立し、イギリス・ロシア・フランスなどと戦う第一次世界大戦に突入した。

ヴィルヘルム2世の世界政策

 ドイツ帝国ではビスマルク時代の軍国主義のもとで軍備優先の重工業化が進み、19世紀末に一気に第二次産業革命に突入し、帝国主義に達した。そのようなドイツ資本主義の急速な発展を背景に、ヴィルヘルム2世は従来のビスマルクの施政を改め、「新航路」に転換させた。
 その外交政策は、ビルマルク外交的な他国との同盟関係を重視するものではなく、ドイツ独自の積極的な世界政策にのりだし、海外植民地の獲得を目指した。そのため1898年、海軍力の積極的な増強に着手すると、海軍力での優位を保とうとするイギリスとの間で建艦競争を展開するようになった。
 しかし列強による植民地分割はすでに進んでおり、ドイツのこの動きは列強間の緊張を高めることとなった。バルカン方面から西アジアに進出を狙ってバグダッド鉄道を建設しようという3B政策は、イギリスの3C政策と衝突し、アフリカのモロッコを巡ってはフランスとの間で二度にわたるモロッコ事件が起こった。またバルカン侵出はロシアの南下政策と鋭く対立した。
 この間、バルカンではパン=ゲルマン主義を掲げるオーストリアと、ロシアの支援を受けたスラブ系諸国のパン=スラブ主義の対立が深刻となっており、さらにバルカン諸国は二度にわたるバルカン戦争を展開し、緊張が高まった。

第一次世界大戦の勃発

 1914年6月28日サライェヴォ事件が発生し、7月28日、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は、三国同盟の規定に基づき、8月1日にロシアに対し、2日後にフランスに対して宣戦布告し第一次世界大戦が始まった。
(引用)1914年8月1日、ドイツはロシアに宣戦布告し、午後、総動員令が公布される。人々は広場に出かけ、開戦を祝福し、喜びを共有したり、愛国心をたかめあったりする。ベルリンや他の大都市では、志願兵になる大学生たちが国家や愛国的な歌をうたいながら街を行進している。レストランやビアホールも高揚した市民たちで大賑わいである。皇帝ヴィルヘルム2世は、イギリスと断交しベルギーへの侵攻を開始した8月4日、聴衆を前にこう宣言する。「きょうこの日より、余はいかなる政党も認めない。ただドイツ国民あるのみ。」こうした民衆の政治的熱狂は同時代人たちによって「八月の体験」と呼ばれた。<藤原辰史『カブラの冬』―第一次世界大戦期ドイツの飢饉と民衆 2011 人文書院 p.40>

シュリーフェン計画

 ドイツ帝国陸軍は、かねて参謀総長が立案していたシュリーフェン計画を実行し、まず西部戦線での突破をねらいベルギー通過をはかったが拒否されたため侵攻した。永世中立国であるベルギーに侵攻したことを非難したイギリスがドイツに宣戦を布告し、ヨーロッパ大陸に陸軍を派遣すると共に、海軍でドイツ封鎖をはかったので、海上においてもドイツはイギリスと戦闘を開始することとなった。一方ロシアもセルビアを支援して参戦し、ドイツは東部においても兵力を割く必要が生じた。こうしてドイツの東西に戦線が形成され困難な戦いを強いられることとなった。

ドイツの戦争指導の誤算

 サライェヴォ事件当時のドイツ首相ベートマン=ホルヴェークはすでにロシアとの戦争を決意していた。しかしその戦争でドイツ帝国を勝利に終わらせるには三つの条件があると考えていた。それは、オーストリアが参加し、社会民主党が参加し、イギリスが中立を保つ事でなければならない、という結論だった。しかし、参謀本部は“首相とは別に”戦略をすでに立案していた。前参謀総長シュリーフェンが作成した二面作戦計画であった。その計画を首相が知らなかったとは考えられないが、少なくとも重視していなかった。ロシアとの開戦はやむを得ないとしても、イギリスの中立に期待をかけた。イギリスも当初は仲介の意図を持ち、国際会議開催による調停や、戦争をオーストリア対セルビアに限定する提案をドイツ、ロシア、オーストリアに提示したが、結局ドイツはオーストリアを見捨てることはできないと、調停を拒否してしまった。このようにドイツの戦争指導は政府に一本化されておらず、軍が主導権を握ることで始まったが、そこにも大きな誤算があった。

Episode カイザーのモルトケに対する皮肉

 8月1日、ベルリンでカイザー(ヴィルヘルム2世)が首相ベートマン=ホルヴェークと参謀総長モルトケ(小モルトケ)を呼び、最終判断をすることとなった。そのとき、イギリスが中立を表明したという報告(結局、電文の解釈間違い)が入った。カイザーは「では、我々は、全軍を以てただちに東部に進撃しよう!」と言った。それに対してモルトケは「陛下は、すでに西部で始まっている戦争の展開をもはや変更するわけにはいきません。・・・東部の軍は、戦闘の準備の完了した軍ではなくて、・・・秩序を失った暴徒の大軍となるでしょう。」と必死に抵抗した。カイザーは不機嫌に答えた。「君の伯父なら、余にそうは回答すまい。」モルトケの伯父とは、普仏戦争でプロイセンを勝利に導いた有名な軍人だった。モルトケはカイザーの介入に気分を害し、憤慨したと伝えている。このエピソードは軍が皇帝や首相の意向に反してまで、シュリーフェン計画にこだわったことを示している。参謀本部は政府方針に従って戦略を立てるという大原則を忘れ、自らの戦争計画を皇帝と政府に従わせようとした。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.112>
 この誤りは、やがて第二次世界大戦での日本でも繰り返されることになる。

ドイツの戦争責任論争

 第一次世界大戦の終結後、ヴェルサイユ条約によってドイツは戦争責任を追わなければならないとされ、特にヴィルヘルム2世の責任を追及する国際世論も強まった。しかしすでに1918年11月に退位した亡命者に過ぎないヴィルヘルムを中立国であるオランダは連合国に引き渡すことを拒否し、その裁判は結局開かれなかった。その代わり、ドイツに対する過大な領土割譲と賠償金支払いが化せられることになった。
 ドイツはそれに対する不満から、国内にヴェルサイユ条約に反発する感情が強まり、ヒトラーの台頭を許して第二次世界大戦につながった。はたして第一次世界大戦の戦争責任はドイツにあったのだろうか。当のドイツでは、第二次世界大戦後にいたるまで、第一次世界大戦は「防衛戦争」であったのであり、バルカン問題のロシアとオーストリアの対立に「引きずられてしまった」のだ、という見解が学界から世論にいたるまで強かった。(現在の日本の一部に太平洋戦争は防衛戦争だった、侵略戦争ではなかったという説を述べる学者?や政治家があとを断たないのと似ている。)
 それに対して、1959~61年、「ドイツのハンブルク大学歴史学教授フリッツ=フィッシャーが、新たな資料研究によって、バルカンの紛争を世界戦争に転換させたことはドイツに決定的に責任があること、またドイツの支配層は一貫して覇権主義的領土拡張政策を追求しており、これが大戦の真の原因だとする説を発表した」<坂井榮八郎『ドイツ史10講』2003 岩波新書 p.170>ところ、ドイツの学界は騒然となり、人身攻撃を含む激しい論争になった。現在では「防衛戦争」と言う見方は否定され、ドイツの戦争責任は明確になっているが、ドイツ単独犯説や、ドイツの特殊性説も同時に克服されなければならない。

ドイツ(7) ドイツ共和国/ヴァイマル共和国

1918年11月、ドイツ革命で共和政国家が成立。翌1919年、ヴァイマル議会で憲法が制定され、ヴァイマル共和国と言われ、1933年のナチス政権成立まで続く。

ドイツ革命

 第一次世界大戦末期の1918年11月3日、キール軍港の水兵反乱が全国に波及、各地に労兵評議会(レーテ)が組織され、ドイツ革命が始まり、1918年11月9日に共和政国家が成立、ヴィルヘルム2世はオランダに亡命し、ドイツ第二帝国は終わりを告げた。1918年11月11日にはパリ北東のコンピエーニュの森で連合国側と第一次世界大戦の休戦協定が成立した。講和は翌年のパリ講和会議で協議されることとなった。
社会主義革命の失敗 社会民主党左派のローザ=ルクセンブルクリープクネヒトらのスパルタクス団は、社会民主党主流派の保守派を批判して、労兵評議会(レーテ)への権力移譲を主張し、1918年12月30日ドイツ共産党に改称し、1919年1月5日一気に社会主義政権を目指して革命派の労働者とともに武装蜂起した。しかし、革命に反対する穏健派の社会民主党主流派のエーベルトは軍隊の一部と協力して革命を弾圧し、1919年1月15日ローザ=ルクセンブルクリープクネヒトを虐殺した。社会主義を目指したドイツ革命はこれで失敗に終わった。
 社会主義革命の挫折によってドイツ共和国は資本主義経済を維持し、議会制民主主義採用する国家への道を歩むこととなった。

ドイツ共和国/ヴァイマル共和国

 1919年2月、ドイツ西部のヴァイマルで開催された国民議会で、社会民主党のエーベルトを臨時大統領に選出し、ドイツ共和国が発足した。国民議会は同1919年7月31日にヴァイマル憲法を制定した。ヴァイマル憲法は、様々な弱点を有していたが、同時に基本的人権の保障、社会権の規定など、当時としてはもっとも進んだ憲法であり、この憲法によって規定され、議会制民主主義を掲げ、国民の直接選挙で選ばれた大統領が統治する国家をヴァイマル共和国ともいう。
 ドイツ共和国=ヴァイマル共和国は、1919年6月28日、ヴェルサイユ条約を受け入れ、領土の削減、植民地の放棄、軍備の制限の他、過酷な賠償金の支払いを義務づけられた。特に賠償金支払いは敗戦国ドイツにとって不可能な額に近く、賠償問題はドイツのもっとも困難な外交課題となった。国民の多くはこれらを不当に押しつけられたものと反発し、特に国防軍は戦争に負けたのではなく、国内の革命勃発で停戦に追い込まれたという意識が強く、共和国政府に対する不満を強く持っていた。また、議会は社会民主党が第一党であったが、安定した多数派は存在せず、つねにいくつかの政党による連立内閣が続いた。また、議会制の下での社会主義の実現を目指す社会民主党に対して、レーテ(評議会、ソヴィエトのこと)を通じての労働者政権の樹立を目指すドイツ共産党は以前として革命を目指し、また革命を恐れる資本家や地主は、君主政の復活を主張する保守的な政党を支持した。また、共産党によるボリシェヴィキ革命をユダヤ人の世界支配ととらえた反ユダヤ主義者はドイツ人の民族的優位を主張し様々な右翼政党を結成した。このように、ヴァイマル共和国の政治情勢は、議会制民主主義が極左派と極右派につねに脅かされるという状況が続いた。政治・社会では動揺が続いたが、実現された平和の中で、人々はヴァイマル文化と言われる生き生きとした文化活動が可能であった時代でもあった。

ヴァイマル共和制の時代(1919年~1933年)

 ドイツ共和国=ヴァイマル共和国の時代の外交上は、敗戦国としての苦悩と、国際協調の平穏さの両面があった。その主要な動きは次のようなものである。
ラパロ条約 ヴェルサイユ体制のもと、苦境に立たされていた敗戦国ドイツは、国際連盟にも加盟できず、孤立していたが、1922年4月、ソヴィエト=ロシアとの間でラパロ条約を締結し、最初のソ連を承認した国家となった。そのときに密約で、軍備を制限されたドイツは、ソ連軍の演習に将校を参加させるなど、軍事技術の維持に努めたという。
ルール占領 1923年1月には賠償金不払いを口実としたフランスとベルギーがルール占領を強行、それに対して共和国政府は「消極的抵抗」を行い、ゼネスト状態となったため生産はストップ、急激なインフレーションとなった。そのような中で首相となったシュトレーゼマンはレンテンマルクを発行して経済を安定させ、「消極的抵抗」を打ち切って「履行政策」に転換、国際協調路線を模索した。履行政策に反対する右派勢力は、11月のヒトラーらがミュンヘン一揆を起こしたが、鎮定された。1924年8月には懸案の賠償問題が、ドーズ案の成立で解決の道筋がつけられ、ルール占領軍も撤退、ドイツにはアメリカ資本の支援が行われることによって、生産力も回復した。
国際協調外交 1925年、旧軍人のヒンデンブルクが大統領(1925~34)に当選。旧軍人の大統領の登場で右派も満足し、ヒンデンブルク大統領自身も憲法と共和国に従うことを表明したので、安定した。1925年12月、シュトレーゼマン外相の主導による西欧著国との集団安全保障であるロカルノ条約を調印してアルザス=ロレーヌの放棄を表明したことによって、1926年9月国際連盟加盟を実現、国際社会に復帰した。
世界恐慌の波及 1929年10月、アメリカで世界恐慌が始まると、アメリカ資本に依存していたドイツ経済は直ちに影響を受け、失業者が急増した。そのような危機に国民の支持を伸ばしたのが、ヒトラーの率いる国民(国家)社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)であった。1930年、9月の総選挙でナチ党は大躍進、第2党となり、再軍備などのヴェルサイユ体制の打破、議会政治の否定、共産主義者やユダヤ人の絶滅を声高に叫ぶようになり、それに対する労働者の中の極左派との抗争が相次ぐ。1932年7月の選挙で議席230をとってついに第一党となったナチ党の党首ヒトラーに対しヒンデンブルク大統領は首相就任を要請し、1933年1月30日ヒトラー内閣が成立した。そのころ、失業者は600万人に達し、ナチ党は失業解消を約束して国民の支持を得た。

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ドイツ(8) ナチス=ドイツ/ドイツ第三帝国

1933年 ナチ党のヒトラー政権が成立し、独裁政治が始まり、ヴェルサイユ体制・議会政治が否定され、ユダヤ人絶滅政策がとられた、ナチス=ドイツの時代。

 1933年にヒトラーが権力を掌握し、実質的にヴァイマル共和国は崩壊、さらに1934年にヒンデンブルク大統領の死去に伴い、ヒトラーが首相と大統領を兼ねた総統(フューラー)にという国家元首となって総統国家(フューラー国家)が成立した。ヒトラーはこの国家を、自らドイツ第三帝国と称した。これは、ドイツの歴史上、神聖ローマ帝国(962年~1806年)・ドイツ帝国(1871年~1918年)に次ぐ、第三の帝国であるという意味であったが、第二次世界大戦での敗北、ヒトラーの自殺によって、わずか約10年後(わずかとはいえ濃密だったが)の1945年5月に消滅した。 → ファシズム

ナチス台頭の背景

 ドイツでナチズムが急速に台頭した背景は、1929年に始まる世界恐慌がドイツに及び、戦後の賠償問題の解決のためのドーズ案以来アメリカ資本の支援で経済復興を進めていたドイツ経済が崩壊したことであった。1931年には銀行の閉鎖、企業の倒産が続き、失業者は600万に達した。そのような中で、すでに底流としてあったヴェルサイユ体制への不満をあからさまにし、無力な議会政治をあざけり、ユダヤ人をボリシェヴィキ革命と結びつけてその恐怖をあおったのがヒトラーのナチ党であった。
 ドイツの保守勢力、資本家や地主、そして国防軍は、ヒトラーとナチスを左翼勢力を抑える駒のひとつ程度と考えていた。1932年選挙(ドイツ)でナチ党が第一党になると、ヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命し、ヒトラー内閣が成立したが、これは保守派との連立内閣で閣僚11名中、ナチ党員はヒトラーを含めて3名に過ぎなかった。人々はヒトラー内閣は保守派に取り込まれ、短命に終わるだろうと予想していた。しかし、つぎつぎと手を打ったヒトラーは半年の間に一党独裁体制を作り上げてしまった。
独裁権の獲得 まず陰謀によって反対党を押さえつける手段を執った。2月27日に国会議事堂放火事件が起きると、それをドイツ共産党員のしわざと断定してその政治活動を禁止した。3月には、全権委任法を国会で可決し、政府に議会の議決を経ずに法律を制定することを可能にした。こうして議会政治が完全に葬り去られただけでなく、国会法か事件の翌日に出された大統領緊急令で、憲法で保障された基本的人権も停止された。ついで社会民主党も活動を禁止されてナチ党以外の政党は7月はじめまでに解散に追い込まれた。さらに、労働運動では労働組合は解散させられ、別に経営者も含む「ドイツ労働戦線」という御用組合に一本化された。宣伝相ゲッベルスが進めた焚書運動によってユダヤ人学者や文学者の著作や共産主義や自由主義に関する書籍が焼かれた。こうしてナチス=ドイツにおいては、労働組合活動の自由、思想信条の自由、政党活動の自由と言った基本的人権がわずか半年の間に奪われてしまった。
失業問題の解消  アウトバーンの建設など独占資本の利益に添った経済政策を推し進める一方、失業対策にも積極的に取り組んだ。たしかに失業は減少しはじめ、それによって大衆の中にヒトラー政権支持が強まった。しかし、失業問題をどのように解消したかについては、次のような点が指摘されている。
(引用)1934年5月1日に設けられた勤労奉仕隊は、はしめ志願制であった。ところが1935年6月26日には、男女青少年は全員加入することが義務づけられた。それからの約一年間、勤労奉仕隊の青少年は、開墾作業や道路工事その他にかりだされた。労働奉仕隊にもきびしい階級制度が適用されていた。ドイツ全土は三十の地区にわけられ、各地区は、いくつかの団にわかれており、団のなかにいくつもの《労働班》があるといったぐあいである。
 勤労奉仕を義務制にした目的の一つは、共同精神を鼓吹し、軍隊生活におけるよりも有効に民族社会主義理論を青少年にたたきこむことであった。もう一つ見おとすことのできないのは、動労奉仕隊の存在が失業者の救済に役立ったことである。失業問題の解決こそ、ナチ体制に勝利をもたらし、ヒトラーがドイツ国民のあいだに絶大な人気を博することのできた大きな理由の一つであった。失業者は勤労奉仕隊のなかに組みこまれたばかりでなく、土木事業や兵器産業などにも吸収されたが、一方においてナチ党の巨大な行政組織のなかで非生産的な仕事にありついた者もけっしてすくなくなかった(労働戦線の資金のうちの四分の一が党の行政費として使われた)。<ダヴィド『ヒトラーとナチズム』 文庫クセジュ P.113>
ユダヤ人排斥 国内ではナショナリズムを鼓吹するとともに共産主義への恐怖と反ユダヤ主義を巧妙に結びつけた宣伝を繰り返し、ユダヤ人排斥を訴えた。1935年にはニュルンベルク法を制定し、ユダヤ人の公民権を奪い、差別の徹底化を図った。多くのドイツ人は積極的にユダヤ人差別に同調したわけではなかった。1938年の水晶の夜といわれた、ナチ党員によるユダヤ人商店などに対する破壊活動の際も、ヒトラーは一般市民が協力的でなかったと不満を漏らしている。ナチス権力が強大化と対外戦争に突入するなかで、ユダヤ人虐殺は組織的に進められていったが、民衆の多くは傍観するか、無関係を装うしかなかった。
 ユダヤ人迫害の根拠とされた優生思想(優秀な民族を遺伝子で選抜する思想)の対象はユダヤ人に留まらず、精神障害者、身体障害者、同性愛者などにも及び、彼らも劣等遺伝子をもつものとして抹殺の対象となった。またユダヤ人と並んでロマ(ジプシー)も迫害の対象とされた。
監視社会とポピュリズム ナチスが政権をとると、突撃隊(SA)による暴力的な強圧の前に批判の声は上げにくくなった。さらに秘密警察であるゲシュタポが国民生活を厳しく監視する社会が形成された。しかし、ヒトラーは国民の突撃隊に対する恐怖心を逆に利用する巧妙な手を使った。すなわち、1934年6月30日、ヒトラーは突撃隊の幹部レームなどを殺害、粛清した。これは突撃隊が暴力行為を繰り返し、正規軍である国防軍に取って代わろうという勢いを示したことに保守派、国防軍が不安を感じたことに対応してヒトラーが断行したテロであったが、これによってヒトラーは果断に国民の敵を排除したとしてその人気がさらに高めたのだった。その後は突撃隊に対抗する武装組織として親衛隊(SS)が作られ、ヒトラーはこれらを巧妙に操りながら、大衆操作を行っていった。その面ではヒトラーの成功はポピュリズム(大衆政治)の性格があると言える。
ヒトラー外交の成功 ヒトラーはかねてヴェルサイユ体制ロカルノ体制の打破を主張していたが、権力を握ると共にまず1933年に、当時国際連盟で進められていたジュネーヴ軍縮会議を軍備の不平等の解消を主張していれられずに脱退し、さらに10月に国際連盟からの脱退を実行した。こうしてヴェルサイユ体制・ロカルノ体制に縛られることのない外交を展開する条件を作り、ついで1935年のザール編入再軍備(徴兵制=義務兵役制復活)、1936年のラインラント進駐を立て続けに強行し、ヨーロッパの安定を脅かした。イギリス・フランスがこれらのヒトラーの強硬姿勢を容認した結果、国民にはヒトラー外交の勝利と受け取られ、歓迎され、まさに英雄視される状況が出てきた。
ナチスに対する抵抗運動 ヒトラーのこのような外交上の成功はドイツ国内で反ヒトラー、反ナチスの声はますます上げにくくなっていったが、その独裁政治や自由、民主主義の抑圧、偏執的な人種政策に対する疑問や反対がなくなったわけではなかった。しかしナチ党以外の政党活動が禁止され、ゲシュタポによる監視の下でナチスに対する抵抗運動は困難を極めた。

ドイツ(9) 第二次世界大戦

ヒトラーは英仏の宥和政策に乗じて領土拡張を実行。1939年、ポーランド侵攻を機についに第二次世界大戦に突入。40年、フランスを制圧した後、日独伊三国同盟を結成。41年からは独ソ戦を開始したが、同年末太平洋戦争の開始に伴いアメリカにも宣戦布告。42年から戦局が転換し、連合国の反撃を受け、43~44年と後退を続け、45年4月30日ヒトラーは自殺、ベルリンも陥落し、5月7日に無条件降伏した。

戦争への道

 ヒトラーのドイツは同じくファシズム体制をとるイタリア・日本と接近、1936年7月にスペイン戦争が始まるとイタリアと共にフランコ将軍を支援して介入を強め、1936年10月25日にベルリン=ローマ枢軸を形成した。さらに日独防共協定を締結し、翌1937年11月にはイタリアが加わり日独伊防共協定となり、枢軸国の陣営を形成した。
 ヒトラーは1938年3月についにオーストリア併合を成功させ、ドイツ民族の統一という当初の目標を達成し自信を深めた。さらにチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲を要求したがチェコスロヴァキアの抵抗に遭い、イギリス・フランスのドイツ非難が強まっため、一時強硬策を収めて1938年9月、ミュンヘン会談に応じた。ミュンヘン会談でイギリス・フランスは宥和政策をとってドイツの要求を容認した。自信を深めたヒトラーは翌月ズデーテンを併合、さらにチェコスロバキアを解体した。

第二次世界大戦

 ヒトラーは、このような英仏の動きに不信感をもったスターリンとの間に1939年8月、独ソ不可侵条約を締結した上で、1939年9月1日ドイツ軍をポーランドに侵攻させ、ついに第二次世界大戦が開始された。ナチス軍は電撃戦を成功させ、ワルシャワを制圧してポーランドの西部を占領、ソ連は同時にポーランドの東部を占領して、両国でポーランドを分割した。東部で大成功を収めたヒトラーは西部に矛先を向け、40年5月、デンマーク・ノルウェー侵攻を行い、さらにオランダ・ベルギー侵攻に続き、パリに入城してフランスを降伏させた。残るイギリスに対しては上陸作戦に踏み切らず、激しい空爆を続けたが、イギリスはチャーチルが首相となって抵抗を呼びかけ、屈服しなかった。一方、1940年9月日独伊三国同盟を結成し、枢軸国の連携を強めた。

独ソ戦の開始

 イギリス征服に頓挫したヒトラーはイタリアと結んで1941年4月バルカン侵攻を開始し、ユーゴスラヴィアギリシアを占領したことは、バルカン半島への進出を目論んでいるソ連との関係を悪化させる。それを想定したヒトラーは先手をとって独ソ不可侵条約を破棄し、突如ソ連領に侵攻して、1941年6月22日、独ソ戦に踏み切った。奇襲に成功してソ連領になだれ込んだドイツ軍であったが、次第に広大な戦線での殺戮戦、物量戦となってドイツは苦戦に陥ることとなった。

ユダヤ人問題の「最終解決」

 ドイツの支配領域が東欧に広がるに伴い、多くのユダヤ人がその支配下に入ると、ヒトラー政権は従来のユダヤ人絶滅政策にとどまらず、その「最終解決」に迫られた。1942年1月、担当者がヴァンゼーで会議を行ってユダヤ人のガス室を使用した大量殺戮を決定し、アウシュヴィッツなど各地の強制収容所を拡充、組織的なユダヤ人の大量殺害(ホロコースト)を行っていった。ロマ(ジプシー)も同じように強制収容所に送られ、殺害された。

連合国の形成

 ドイツ軍は占領各地でレジスタンスパルチザンに悩まされた。またドイツが独ソ戦に踏み切ったため、イギリスとソ連が反ファシズム・反ナチス=ドイツで結束することになり、さらに1941年8月9日に米英首脳が大西洋憲章を発表、ソ連もその支持を表明、さらに同1941年12月8日、ドイツの同盟国日本が太平洋戦争を開始したため、ドイツもアメリカに宣戦布告、アメリカとの間も戦争状態となり、アメリカ軍がヨーロッパ戦線に派遣されることとなった。こうしてドイツは枢軸国を形成して、アメリカ・イギリス・ソ連を中心とした連合国と戦うこととなった。ナチス=ドイツが始めたヨーロッパの戦争は、ヨーロッパの大部分を焦土と化すとともに、アジア・太平洋戦争とも結びついて人類史上最大の世界戦争となった。

ナチス=ドイツの後退

 すでに独ソ戦では1943年2月2日スターリングラードの戦いでドイツ軍は大敗北を喫し、北アフリカ戦線では同年3月にドイツ・イタリア軍が降伏、43年7月にはアメリカ・イギリス連合軍がシチリア島に上陸、東部戦線ではソ連軍の反抗が開始された。1943年9月、イタリアで政変が起こりムッソリーニが失脚、替わったバドリオ内閣は単独で連合国に降伏し、早くも枢軸国の一角が崩れた。ドイツはイタリアに進駐して、北上する連合軍と激しい戦闘を続けた。連合国は同年末、カイロ会談テヘラン会談で戦争終結で結束し、戦後世界のあり方に関する協議を具体化させ始めた。
 1944年6月、連合軍はノルマンディー上陸作戦を敢行して西側からの反撃を開始、8月はパリを解放した。独ソ戦線ではソ連軍が領内からドイツ軍を押しだし、さらに東欧諸国でドイツ軍を追い詰めていた。またイギリス空軍によるドイツ本土空爆が展開され、特に1945年2月13ドレスデン爆撃はドイツを降伏に追い込むための戦略爆撃として行われ、約6万の市民が犠牲となった。

無条件降伏

 1945年2月、連合国首脳はヤルタ会談を行い、ドイツの敗北後の処理について検討を開始し、四国による分割管理を決定した。4月には西からはアイゼンハウアーの指揮する米英を主体とする連合軍と東からはジューコフの指揮するソ連軍がそれぞれベルリン到達を目指して競うという状況となり、特にスターリンはメーデー(5月1日)前にドイツ国会議事堂にソ連国旗を掲げることを厳命した。
 追い詰められたヒトラーはベルリンの首相官邸の総統地下壕でなおも抵抗せよと指令を出し続けた。しかし、状況の悪化を知るゲーリングはいち早くベルリンを脱出、SS指導者のヒムラーは単独でイギリスとの和平交渉を行おうとした。怒ったヒトラーは二人を解任したが、ナチス体制の崩壊をとどめることは出来なかった。ついにソ連軍がベルリンに突入、首相官邸に迫るなか、1945年4月30日ヒトラーは自殺し、ナチス=ドイツは崩壊した。

デーニッツ政府の抵抗

 ヒトラーは遺書を残しており、海軍大将デーニッツが後継大統領に指名するとともに、なおも抗戦を指令していた。デーニッツは5月1日にヒトラーの死を公表するとともに、部分的な停戦に応じながら時間をかせぎ、アメリカ・イギリスとソ連の対立に望みをかけ、そうなった場合は米英に協力してソ連と戦うことでドイツの存続を図ろうとしたらしい。しかし、連合軍最高司令官アイゼンハウアーは個別和平交渉を拒否し、あくまで全面的無条件降伏を要求した。ドイツ軍はすでに抗戦の意欲をなくし、1945年5月7日に無条件降伏を認めた。翌日、正式に降伏文書に国防軍最高司令官ヨードル元帥が署名して成立した。ドイツは連合国の占領下に置かれることとなり、デーニッツ大統領と政府要員は5月23日に逮捕された。後にデーニッツはニュルンベルク裁判で10年の禁固刑となった。
 戦後のドイツは、東西に分断され西ドイツでは資本主義体制、東ドイツでは社会主義体制下に入ったが、いずれも徹底した非ナチ化がはかられた。

ドイツ(10) ドイツの東西分断

第二次世界大戦後、4国共同管理下におかれていたドイツが、1948年以来、東西に地域に分断され、二つの国家が形成される。

4国分割占領と共同管理構想

 1945年5月7日のナチス=ドイツの降伏(ベルリンでは8日)後、ベルリンに進駐したイギリス・フランス・アメリカ・ソ連の4国司令官は、6月「四国宣言」によりドイツの4カ国分割占領と、ベルリンの分割管理の基本方針を示し、さらに1945年7月ポツダム会談において、8月2日にポツダム協定を成立させ、連合国4ヵ国による共同の管理機関としてベルリンに管理理事会を設置して、調整されることになった。またオーストリアはドイツから分離され、同様に四国によって占領管理された。
 1945年11月にはニュルンベルク裁判が開廷し、ナチス=ドイツの戦争犯罪追及が始まった。

東西冷戦とドイツ問題

 しかし米ソ間の対立はまもなく深刻化してゆき、1947年にアメリカがトルーマン=ドクトリンを発表し、ソ連に対する封じ込め政策を明確にし、ヨーロッパ諸国へのテコ入れを図ってマーシャル=プランを具体化したことから東西冷戦は深刻となり、ドイツ問題も主要な争点となっていった。
 1948年6月20日の西側の通貨改革強行を機にソ連が同月24日ベルリン封鎖に踏み切ったときからベルリンの4国管理理事会は機能しなくなり、ドイツの東西分裂が事実上確定してしまった。

東西ドイツの分断

 西側管理地域では翌1949年5月西ドイツ基本法が公布され、9月にドイツ連邦共和国(西ドイツ)が成立すると、対抗する形で10月にソ連管理地域にドイツ民主共和国(東ドイツ)が成立し、ドイツは東西に別個の国家権力が存在する分断国家となってしまった。

ドイツ(11) 分断から統一へ

東西分断国家となったドイツで1950年代後半から格差が明確となり、両国の対立は深刻になっていった。しかし70年代にブラント首相の東方外交で転機を迎え、統一に向かい、80年代にソ連・東ドイツの社会主義体制が停滞したことを背景に1989年の東欧革命で東ドイツが崩壊、ベルリンの壁も解放され、1990年に西ドイツが東ドイツを吸収する形で統一が実現した。

 ドイツ統一を願うドイツ人の希望にもかかわらず、東西の分離は次第に固定化されていった。西ドイツは資本主義体制のもとで奇蹟の経済復興と言われた発展を遂げたのに対して、東ドイツでは集団農場の建設など社会主義建設を進めていった。特にベルリンは西側陣営、東側陣営という東西対立の最前線にあり、ベルリン問題は東西対立の最も危険な部分であった。

ベルリンの壁の設置

 1950年代後半には平和共存路線がとられたが、同時に東西ドイツの経済成長の格差がはっきりとしてきて、東ドイツから西ドイツに脱出する人が増え、それを阻止しようとした東ドイツ当局によって1961年8月13日にはいわゆるベルリンの壁も設置され、西の資本主義と東の社会主義というイデオロギー対立を最も尖鋭に象徴する場所となってしまった。

ブラントの東方外交

 しかし、1970年代にはいると西ドイツのブラント首相の大胆な方向転換である東方外交が始まり、まず相互に現状を認め合おうという動きが出てきた。その成果として、1972年12月21日には東西ドイツ基本条約を締結、翌1973年9月18日には東西同時に国連に加入し、統一の模索が始まった。

東ドイツの崩壊とドイツ統一

 当初は簡単には統一は実現されないだろうと考えられていたが、80年代の東ドイツの経済破綻が予想以上に早く進み、またソ連でゴルバチョフが登場して体制が変化したことを背景に、1989年に東欧革命と言われる社会主義圏の自由化が一気に進む中、夏から東ドイツの国民の大規模な西ドイツへの移住が始まり、東ドイツ当局もそれを抑えることができずに一挙に統一の動きが加速し、1989年11月9日にはベルリンの壁の開放が実現、翌1990年10月3日ドイツ統一が実現した。ドイツの国家分裂の時代は1945年から1990年までの45年で終わり、統一を回復した。

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ドイツ(12) 現代のドイツ連邦共和国

統一ドイツ国旗

1990年に東西ドイツの統一が成った。実態は西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が東ドイツを吸収したものであり、統一後も東の社会の遅れが問題となった。一方でヨーロッパ統合にも積極的に動き、NATOにも加わってかつてのような軍事大国化の危惧はなくなっている。しかし近年はEUの中で他の国家との経済格差が広がっており、難しい局面も出ている。

 統一ドイツは面積 35.7万平方km、人口8200万で、豊かな経済力と高い技術を有している。首都ベルリン(人口約330万)。国旗は、黒・赤・金の三色旗。1813年にナポレオン軍と戦ったプロイセン兵の黒いマント、赤い肩章、金ボタンに由来し、後にドイツ統一運動で学生組織がシンボルカラーにした。

連立政権が多いドイツ

 1990年に東西ドイツの統一が実現してから現在までに、統合に伴う混乱もほぼ克服され安定してきたといえる。統合時のコール政権以後の政権はいずれも連立政権である。大統領はヴァイツゼッカー(在任1984~94)が議会演説で過去を直視する姿勢を明確にし、近隣諸国の不安を解消している。
コール(CDU)政権=CDUCSUと自由民主党(FDP)の連立 1982~98年 ドイツ統一を成し遂げたが、その後の経済不振から、失業率が増大、旧東ドイツとの格差が広がり、移民問題などからネオナチなどが台頭して社会不安が広がる。1991年にはユーゴスラヴィア連邦から分離独立を宣言したクロアティアを承認、ユーゴスラヴィア内戦が深刻化するきっかけを作った。統一後の経済不振、強硬な外交姿勢が国民の支持をなくし、98年には選挙に敗れて退陣した。
シュレーダー(SPD)政権=社会民主党(SPD)と緑の党の連立 98~2005年 社会民主主義の理念に沿った税制改革、年金改革、連邦軍改革にあたり、また緑の党の主張に沿って脱原子力政策等などを推進した。しかし、コソヴォ問題では1999年のアメリカ主体のNATO軍による空爆を支持し、戦後初めてドイツ軍を国外の紛争地に派遣した。これは平和を掲げていた社会民主党と緑の党にとって重要な判断となり、特に緑の党はこの問題で分裂した。
 2003年のアメリカのイラク戦争には反対し、派兵しなかった。2期目は失業率上昇、景気低迷などから支持率が下がり、総選挙を1年前倒しで実施した結果、僅差で敗れた。
メルケル(CDU)政権=CDU/CSUとSPDの大連立(二つの大政党が連立していること) 2005年9月の連邦議会選挙で僅差の勝利をおさめ、CDU/CSUとSPDの大連立内閣が成立した。なお、メルケルはドイツ史上初の女性首相。
※ドイツの政党とその略称  キリスト教民主同盟(CDU)/キリスト教社会同盟(CSU)、社会民主党(SPD)、自由民主党(FDP)、緑の党。旧東独共産党を継承したPDS などがある。

現在のドイツ

 外交では「欧州統合(EU)と大西洋パートナーシップ(アメリカ・NATOとの関係)」の両立のほか、隣接するポーランドとも慎重な協力関係を保つことなどが課題とされている。またメルケル首相は前環境相として実績があり、地球温暖化問題などでのリーダーシップが期待されている。内政では景気の浮揚とともに労働市場改革、年金、医療、財政などの社会改革や少子化対策などをどうバランスをとるか、注目される。

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