東フランク
フランク王国が分裂して生まれた国。後のドイツ。911年カロリング朝の王統が絶える。919年のザクセン朝から実質的にドイツ国家となる。
東フランクは843年のヴェルダン条約で、ルートヴィヒ2世の領地として成立したライン川以東の地。後のドイツのもととなった。さらに870年のメルセン条約で中部フランクの東半分を加えて領土を拡げた。911年、カロリング朝の王統が途絶え、ドイツ王国となる。ドイツ王国初代の国王は選挙によってフランケン家のコンラート1世(911~918)が即位した。
大公の台頭 東フランク王国はライン川以東の広い地域を領有したが、そのさらに東(現在のスロヴァキアからルーマニアにまたがるカルパチア地方)から、非キリスト教系民族であるマジャール人の侵入に対する防衛が課題だった。その防衛を主導した地域的有力部族はロートリンゲン、フランケン、ザクセン、シュヴァーベン、バイエルンがあって、それぞれ「大公」とよばれ、異教徒の侵攻に対して国王の到着を待たずに闘う義務と権利を認められ、高級貴族として王を支えていた。10世紀に入るとそれぞれの大公位をめぐって熾烈な内戦(フェーデ)がくり返され、その勝者が大公位を世襲するようになった。
コンラート1世 東フランク王国のアルヌルフ王の次のルートヴィヒ4世(幼童王)が911年に早世し、カロリング系の王統が断絶したとき、これらの大公を初めとする諸侯は、フランケン大公であったコンラート1世を選びコンラートは大公の地位をめぐる一族間のフェーデを勝ち抜いた勝者であったが、有力諸侯による選挙によってドイツ王に選ばれたのだった。しかし、当時は未だドイツ王国という意識は薄く、大公たちの争いが続いていたので、コンラートは次の国王に敵対していたザクセン大公ハインリヒを指名し混乱を避けた。コンラート1世をフランケン朝という場合もあるが1代で終わっている。まだ東フランク王国であるが、後世にはこの911年をもってドイツ国家の発足とされた。
ハインリヒ1世はカロリング家の血統のフランク人ではなく、ザクセン人であった。その即位を以て一般に「東フランク王国」は終わり、以後は「ドイツ王国」となるが、正式に「ドイツ王」を称したのは次のオットー1世からである。 → ドイツ王国
1024年、ザクセン朝が絶えた後、選挙によってフランケン公領のザーリアー朝(1024~1125年、カノッサの屈辱の時のハインリヒ4世など)、1138年にシュヴァーヴェン大公領のシュタウフェン朝(1138~1254年)と交替し、シュタウフェン朝のフリードリヒ2世(在位1212~50年)の時に皇帝権は絶頂期を迎えたが、彼はドイツにほとんど滞在せず、シチリア王を兼ねてパレルモで王宮を営み、地中海帝国の再興をもくろんでいた。そのため旧東フランク(ドイツの地)では領邦君主たちの領域支配が強まり、フリードリヒ2世の死後は領邦君主が競合したため皇帝を選出できず、1254年から1273年の大空位時代となった。その後、皇帝選挙は復活したが、1356年のルクセンブルク朝カール4世(ベーメン王などを兼ねる)の時に定められた金印勅書によって領邦の分権化が確定する。
その後もドイツは大小数百の領邦君主領に分裂したまま続き、実質的なドイツという統一国家は存在しなかった。神聖ローマ皇帝位はその後、ハプスブルク家が独占的に継承することとなり、16世紀からは正式国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」といわれるようになる。ドイツが地理的な一つの領土を持つ国家となるのは、主権国家として1871年の「ドイツ帝国」の成立によってである。
東フランク王国
東フランク王国はメルセン条約の後、ルードヴィ比2世からカール3世(肥満王、在位876~887)に継承されたが、この王は例外的に西フランク王、イタリア王も兼ね、881年には皇帝を兼ねた。彼はカール大帝と同じように、周辺の異教徒たちである北方のノルマン人、南のイスラーム教徒、東のマジャールからキリスト教世界を保護することが期待されていた。しかし、ノルマン人は川を利用して内陸に侵入し、845年にはパリ、ケルン、ハンブルクを襲撃し、サラセン人(イスラーム教徒)はローマを襲撃してサン=ピエトロ大聖堂で略奪を働き、マジャール人はザクセンやバイエルンを脅かした。カール3世はそれらを撃退することができず、887年、東フランクの貴族(有力諸侯)は彼を廃位させ、カロリング家の血を引くアルヌルフを王位に付けた。西フランクは独自にカロリング家とは血縁関係のないロベール家のウードを国王に選出した。彼らはそれぞれノルマン人の侵攻を撃退し、王位を安定させた。<『ドイツ史(上)』2022 山川セレクション p.30-33>大公の台頭 東フランク王国はライン川以東の広い地域を領有したが、そのさらに東(現在のスロヴァキアからルーマニアにまたがるカルパチア地方)から、非キリスト教系民族であるマジャール人の侵入に対する防衛が課題だった。その防衛を主導した地域的有力部族はロートリンゲン、フランケン、ザクセン、シュヴァーベン、バイエルンがあって、それぞれ「大公」とよばれ、異教徒の侵攻に対して国王の到着を待たずに闘う義務と権利を認められ、高級貴族として王を支えていた。10世紀に入るとそれぞれの大公位をめぐって熾烈な内戦(フェーデ)がくり返され、その勝者が大公位を世襲するようになった。
コンラート1世 東フランク王国のアルヌルフ王の次のルートヴィヒ4世(幼童王)が911年に早世し、カロリング系の王統が断絶したとき、これらの大公を初めとする諸侯は、フランケン大公であったコンラート1世を選びコンラートは大公の地位をめぐる一族間のフェーデを勝ち抜いた勝者であったが、有力諸侯による選挙によってドイツ王に選ばれたのだった。しかし、当時は未だドイツ王国という意識は薄く、大公たちの争いが続いていたので、コンラートは次の国王に敵対していたザクセン大公ハインリヒを指名し混乱を避けた。コンラート1世をフランケン朝という場合もあるが1代で終わっている。まだ東フランク王国であるが、後世にはこの911年をもってドイツ国家の発足とされた。
ドイツ王国ザクセン朝へ
919年、前王に指名されたザクセン大公のハインリヒ1世が諸侯によって東フランク王に選出され、ザクセン朝を開始した。前王に指名されたもの、あるいは血統を継ぐものであっても形式的には選挙で選ばれるという慣例となった。ハインリヒ1世は、マクデブルクなどの都市を建設して「都市建設王」とも云われ、また東方からのマジャール人の侵攻に備えた。ハインリヒ1世はカロリング家の血統のフランク人ではなく、ザクセン人であった。その即位を以て一般に「東フランク王国」は終わり、以後は「ドイツ王国」となるが、正式に「ドイツ王」を称したのは次のオットー1世からである。 → ドイツ王国
神聖ローマ帝国へ
ハインリヒ1世の子、オットー1世は955年にレヒフェルトの戦いでマジャール人を破ってキリスト教世界の守護者としての名声を高め、962年にローマ帝国皇帝の冠をさずかり(オットーの戴冠)、初代の神聖ローマ帝国皇帝となった。それが「神聖ローマ帝国」の起源とされている。その後のドイツ国家
以後、ドイツ王が神聖ローマ帝国皇帝となることが続いたが、同時に皇帝はローマにおもむいて教皇から皇帝の冠を受けることが必要となり、皇帝はドイツを離れることが多くなった。そのため、ドイツ国内では封建諸侯の力が強くなり、皇帝位は有力諸侯の選挙で決められることが多くなり、13世紀以降は完全な選挙制となる。1024年、ザクセン朝が絶えた後、選挙によってフランケン公領のザーリアー朝(1024~1125年、カノッサの屈辱の時のハインリヒ4世など)、1138年にシュヴァーヴェン大公領のシュタウフェン朝(1138~1254年)と交替し、シュタウフェン朝のフリードリヒ2世(在位1212~50年)の時に皇帝権は絶頂期を迎えたが、彼はドイツにほとんど滞在せず、シチリア王を兼ねてパレルモで王宮を営み、地中海帝国の再興をもくろんでいた。そのため旧東フランク(ドイツの地)では領邦君主たちの領域支配が強まり、フリードリヒ2世の死後は領邦君主が競合したため皇帝を選出できず、1254年から1273年の大空位時代となった。その後、皇帝選挙は復活したが、1356年のルクセンブルク朝カール4世(ベーメン王などを兼ねる)の時に定められた金印勅書によって領邦の分権化が確定する。
その後もドイツは大小数百の領邦君主領に分裂したまま続き、実質的なドイツという統一国家は存在しなかった。神聖ローマ皇帝位はその後、ハプスブルク家が独占的に継承することとなり、16世紀からは正式国号は「ドイツ国民の神聖ローマ帝国」といわれるようになる。ドイツが地理的な一つの領土を持つ国家となるのは、主権国家として1871年の「ドイツ帝国」の成立によってである。