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ヴィルヘルム2世

第一次世界大戦時のドイツ帝国皇帝。1890年、ビスマルクを罷免し、皇帝主導の帝国主義的膨張策である世界政策(「新航路」)を展開して世界大戦の要因をつくり、1918年、敗戦によって退位した。

ヴィルヘルム2世
ヴィルヘルム2世 在位1888-1918
 ドイツ帝国ホーエンツォレルン家第3代の皇帝。ヴィルヘルム1世の孫で母はイギリスのヴィクトリア女王の娘。1888年、29歳で即位した。ビスマルク首相を辞任させ、親政によってドイツの膨張政策を主導、イギリス・フランス・ロシアとの対立を深め、1914年7月に第一次世界大戦を引き起こすこととなり、その敗戦によって1918年11月10日にベルギーに亡命した。

ヴィルヘルム2世の「新航路」

 ヴィルヘルム2世は、1890年にもともとそりが合わなかったビスマルクを辞任させ、親政を開始して独自色をうち出した。まず、内政ではビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法の延長を認めずに廃止し、労働運動の弾圧や思想統制強化から国民の融和を図る姿勢に転換した。内政だけではなく、外交においても従来のビスマルク外交がすすめる勢力均衡をはかるよりも、世界におけるドイツの覇権を求めるという積極策に転じた。これら、内政から外交に渡るドイツの基本姿勢の転換を、ヴィルヘルム2世は、ビスマルクの政策を旧航路に喩え、自分の政策は「航路は従来のまま、全速前進」であると自ら述べた。それをもじって、ヴィルヘルム2世の政策は「新航路」Neuer Kurs といわれた。 → ドイツ

ヴィルヘルム2世の「世界政策」

 外交政策では、まずロシアとの独露再保障条約の更新も拒否した。これはドイツはそれまでのビスマルク外交の基本姿勢である、フランスを孤立させるための親英・親露路線を改め、独力で帝国主義の世界分割競争に積極的に関わることをめざすものであった。ヴィルヘルム2世は1896年の演説で、「ドイツ帝国は世界帝国となった」と演説、そこから、ドイツ帝国の積極的な海外膨張政策を世界政策といわれるようになった。まず海軍の大拡張を行ってイギリスと対抗して建艦競争を展開した。またバルカン方面への進出(パン=ゲルマン主義)を行ってロシアとの対立を深めることとなった。
中国分割 アジアにおいては中国進出を開始し、1895年にはロシア・フランスと共に日本に対する三国干渉を行って遼東半島を還付させ、1897年にドイツ人宣教師が殺害された事への報復という口実で、1898年に膠州湾の租借を認めさせ、積極的に中国分割に加わった。ドイツ資本の山東省への進出は、中国民衆を圧迫したことから、翌1899年に山東半島で義和団事件が起きた。義和団の反乱は北京に入って情勢が緊迫する中、1900年に駐清ドイツ公使ケッテラーが北京の公使館前で義和団と提携していた甘軍(甘粛省出身の反乱軍)に殺害されるという事件が起き、清朝政府もドイツなど8国に宣戦布告したため、北清事変と言われる戦闘となった。八ヵ国連合軍はドイツ軍のヴァルダーゼーを指揮官に義和団を鎮圧し、ると列強と共に出兵した。また、アジアでの日本の勢力拡大、アメリカでの日本人移民の増大などに対しては黄禍論を唱え、反発を露わにした。
モロッコ事件 フランスとの対立も深め、そのモロッコへの進出を阻止する口実で、2度に渡るモロッコ事件第1次タンジール事件第2次アガディール事件)を引き起こした。しかし、ドイツの侵出を警戒したイギリスがフランスと提携したためドイツは孤立し、モロッコ進出には失敗した。
 さらにフランスと間では両国の国境でのアルザスロレーヌをめぐる問題がもちあがった。
3B政策 このヴィルヘルム2世の世界政策は、海軍力を増強してイギリスと対抗するだけでなく、新たな帝国主義政策につながった。それが、ベルリン→イスタンブル(ビザンティウム)→バグダードを結ぶ「バクダード鉄道」建設という構想であり、それは3B政策と言われた。これはドイツの勢力がバルカン半島から中東(西アジア)に拡大されることになった。このようなヴィルヘルム2世の帝国主義政策は、イギリスの3C政策と厳しく対立することとなった。
バルカン問題 独露再保障条約を更新しなかったことからロシアとの関係悪化は明確となり、さらにバルカン問題では、スラブ諸国と対立するオーストリアとはパン=ゲルマン主義による親密な関係にあり、1882年以来のドイツ=オーストリア=イタリアの三国同盟の結びつきを強くしていった。
 このようなドイツの勢力拡大を警戒するイギリス・フランス・ロシアは提携を強め、1891年~1904年の露仏同盟、1904年の英仏協商、1907年の英露協商によって植民地分割を互いに認めある態勢を作った。

Episode デーリー・テレグラフ事件

 1908年10月28日付のロンドンの新聞デーリー・テレグラフにヴィルヘルム2世の会見記が掲載された。皇帝はこの会見記で、ブール戦争(南アフリカ戦争)の時、露仏両国から干渉しようと持ちかけられたが断ったとか、同じくブール戦争の時、私が作戦計画をイギリスに教えたのだとか、ドイツが行っている艦隊建設は日本を仮想敵国としたものだとか発言し、それらがことごとく記事になった。皇帝は建艦競争で気まずくなったイギリスとの関係を修復するつもりだったらしいが、これらの発言はドイツ国内でも国外でもひんしゅくを買い、皇帝は当時の宰相ビューローに対して、憲法を尊重して発言を慎む旨を誓約させられた。

第一次世界大戦 亡命と退位

 1914年7月、ヴィルヘルム2世は第一次世界大戦への突入を承認、戦争が始まった。しかしその後半にはドイツの戦争の主導権は参謀本部に手に委ねられ、内政は議会多数派が実権を握り、ヴィルヘルム2世はそのいずれでにおいても実権を奪われていた。1918年にアメリカ大統領ウィルソンの休戦提案(14箇条)が発表されると、それ以前から急速に陸軍の戦意が落ちていたが、さらに11月、キール軍港の水兵反乱から社会民主党左派によるドイツ革命が勃発すると、ヒンデンブルクとルーデンドルフらは政権を社会民主党の穏健派エーベルトにまかせ、イギリス・フランスとの講和を有利にするためにはヴィルヘルム2世の退位と亡命が必要と考え、皇帝に進言した。ヴィルヘルム2世は何の抵抗もせずそれを受け容れ、11月9日にオランダに亡命した。11月末には正式に退位し、ここにホーエンツォレルン朝は終わりを告げた。なお、バイエルンやザクセンなど、ドイツ帝国内の国王たちも、前後して退位し、ドイツの君主政は終わりを告げた。

Episode ヴィルヘルム2世の人物像

 ヴィルヘルム2世は単純な好戦的人物と思われがちであり、彼の個人的資質に第一次世界大戦の原因の一つとする見方も強いが、次のような人物評があることを紹介しておこう。
(引用)(第1次モロッコ事件の時)結局、カイザー(ヴィルヘルム2世)は危機をまったく望まなかったし、ましてや戦争など望んでもいなかった。ヴィルヘルム2世は、ときおり口に出して不愉快で高飛車な発言を多くしたが、それとは逆に、彼は、本当は繊細で神経質、かつ平和愛好的な性格だった。彼はタンジールに派遣されるのをたいそういやがっていたし、その後そこから生じた危機のなかで、さらに思い切った行動に出るのにいつも尻込みしていたのだった。<ハフナー/山田義顕訳『ドイツ帝国の興亡』1989 平凡社刊 p.95>
 同書によると、モロッコ事件を対フランス戦争のチャンスだととらえていたのは、ドイツ参謀本部の参謀長シュリーフェンであった。彼はすでに、ロシアの戦備が整わないうちにフランスに一撃を加え、反転してロシアにあたれば、東西二面作戦も可能であるという「シュリーフェン計画」を立案していた。

ヴィルヘルム2世の戦争責任問題

 第一次世界大戦の休戦に伴い、連合国側には世界戦争の責任はドイツにあるとする見方が強まった。またドイツ軍の中立国ベルギーに対する侵攻とルシタニア号事件のような軍事行動は、戦争犯罪に当たるという声も上がり、その最終責任は皇帝ヴィルヘルム2世にあるとする国際世論も無視できないようになった。ヴェルサイユ条約の第226条以降はヴィルヘルム2世を国際司法裁判所に召喚することとなった。しかし、すでにヴィルヘルムは退位し、オランダに亡命した。オランダは、政治的亡命者を引き渡すことは人道上できないとしてヴィルヘルムの身柄引き渡しを拒否、また当時は戦争責任を判断する明確は国際法が存在しなかったことから、ヴィルヘルム裁判は結局実施されなかった。そして国際世論も戦争責任の追及よりも賠償金の額や領土の獲得へと移っていった。<藤田久一『戦争犯罪とは何か』1995 岩波新書 p.60>

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セバスティアン・ハフナー
/山田義顕訳
『ドイツ帝国の興亡 ビスマルクからヒトラーへ』
1989 平凡社

藤田久一
『戦争犯罪とは何か』
1995 岩波新書